問題一覧
1
15C後半から16Cにかけて、世界は諸地域がヨーロッパを中心に広く交流する[①]時代に突入した。
大航海
2
大航海時代の先頭に立ったのがスペインとポルトガルであった。 ・スペイン=16C太平洋横断 →フィリピンの[①]拠点に。 ・ポルトガル=インド西海岸の[②]を根拠地として東に進出→中国の[③]を拠点に。
マニラ, ゴア, マカオ
3
当時の東アジア地域では、なお明が[①]政策をとって私貿易を禁止 →しかし中国・日本・朝鮮・琉球・アンナンなどの人々は[③]貿易を行っていた。
海禁, 中継
4
【1543年】 ポルトガル人を乗せた中国人倭寇の船が九州の[①]島に漂着。 →島主の[②]が鉄砲を伝来させる。
種子, 種子島時堯
5
【1584年】 スペイン人が肥前の平戸に来航。 →日本との貿易開始=[①]貿易
南蛮
6
南蛮貿易=日本:[①]を輸出 南蛮人:[②]・鉄砲・火薬を輸出
銀, 生糸
7
鉄砲の生産が盛んであった地域 →和泉:[①] 紀伊:[②]・[③] 近江:[④]
堺, 根来, 雑賀, 国友
8
【1549年】 イエズス会宣教師の[①]が鹿児島に来日。 →[②]・[③]らの大名の保護を受け布教。
フランシスコ=ザビエル, 大内義隆, 大友宗麟
9
ザビエルの来日以降、宣教師があいついで来日。 ・[①](教会堂) ・[②](宣教師養成学校) ・[③](神学校) などをつくって布教に励む。
南蛮寺, コレジオ, セミナリオ
10
宣教師の布教を保護する大名は[①]と呼ばれた
キリシタン大名
11
【1582年】 キリシタン大名の中でも[①]・[②]・[③]の3大名はイエズス会宣教師[④]の勧めで少年使節をローマ教皇に派遣=[⑤]
大友義鎮, 有馬晴信, 大村純忠, ヴァリニャーニ, 天正遣欧使節
12
天正遣欧使節のメンバー [①]・[②]・[③]・[④]
伊東マンショ, 千々石ミゲル, 中浦ジュリアン, 原マルチノ
13
【1560年】 尾張の[①]が[②]の戦いで[③]破る
織田信長, 桶狭間, 今川義元
14
【1567年】 美濃の[①]氏を滅ぼし岐阜城に移る
斎藤
15
【1568年】 信長が畿内を追われていた将軍[①]を立てて入京した。
足利義昭
16
【1570年】 信長は[①]の戦いで近江の[②]氏と越前の[③]氏を破る
姉川, 浅井, 朝倉
17
【1571年】 信長は[①]を焼き打ち。宗教的権威を屈服させた。
比叡山延暦寺
18
【1573年】 信長に対し将軍権力の回復を試みて敵対した[①]を京都から追放→室町幕府滅亡
足利義昭
19
【1575年】 三河の[①]合戦において[②]を破る。
長篠, 武田勝頼
20
【1576年】 信長は近江に壮大な[①]を築き始める。
安土城
21
信長の宗教的権威の屈服 【1574年】[①]の一向一揆を滅ぼす 【1575年】[②]の一向一揆を滅ぼす 【1580年】頂点・[③]を屈服させる
伊勢長島, 越前, 石山本願寺
22
信長の経済政策 ・家臣の領主による申告方式による検地[①]や[②]の撤廃 ・畿内で高い経済力を誇った[③]を武力で自らの直轄領に。 ・城下に自由な商業活動を認める[④]出す
指出検地, 関所, 堺, 楽市令
23
【1582年】 毛利氏征討のさなか、家臣の[①]により信長は殺される→[②]の変
明智光秀, 本能寺
24
【1582年】 秀吉は[①]の戦いで[②]を討つ。
山崎, 明智光秀
25
【1583年】 秀吉は信長の重臣であった[①]を[②]の戦いで破る。
柴田勝家, 賤ヶ岳
26
【1582年】 石山本願寺跡に[①]を築き始める。
大阪城
27
【1584年】 秀吉は尾張の[①]の戦いで[②](信長の次男)・[③]軍と戦ったが和睦に終わった。
小牧・長久手, 織田信雄, 徳川家康
28
【1585年】 秀吉は朝廷から[①]に任じられ[②]をくだして四国を平定。翌年には[③]に任じられる
関白, 長宗我部元親, 太政大臣
29
豊臣秀吉の全国の戦国大名に停戦を命じ、その領国の確定は全て秀吉の裁定に任せるとした政策=[①]
惣無事令
30
秀吉の大名服属 【1587年】九州の[①]を降伏させる 【1590年】小田原の[②]・[③]を滅ぼす =小田原攻め →東北の[④]らの諸大名服属。
島津義久, 北条氏政, 北条氏直, 伊達政宗
31
秀吉の天皇服属 【1588年】京都の[①]に[②]天皇を歓待。 →忠誠を誓わせる
聚楽第, 後陽成
32
豊臣政権の経済政策 ・基盤は莫大な[①](直轄領) ・主要な鉱山を支配下に ・[②]などの貨幣発行(菱大判ともいう)
蔵入地, 天正大判
33
豊臣秀吉は経済政策において[①]・[②]・[③]・[④]・[⑤]などの重要都市を直轄領とし、豪商を統制下においた。
京都, 大阪, 堺, 伏見, 長崎
34
秀吉は直轄した重要都市の豪商の中でも 堺:[①]・[②] 博多:[③]・[④]らの商人の力を 利用した
千利休, 小西隆佐, 島井宗室, 神屋宗湛
35
秀吉の独裁が著しく中央政府の組織の整備が不十分であったため、 ・腹心の家臣を[①]として政務を分掌 ・有力大名を[②]として重要政務を合議 という制度をつくった。(秀吉もう晩年)
五奉行, 五大老
36
五奉行=[①]・[②]・[③]・[④]・[⑤]
浅野長政, 増田長盛, 石田三成, 前田玄以, 長束正家
37
五大老=[①]・[②]・[③]・[④]・[⑤]
前田利家, 毛利輝元, 小早川隆景, 宇喜多秀家, 上杉景勝
38
秀吉の中心政策は[①]と[②]であった
検地, 刀狩
39
太閤検地について ・土地の面積表示を統一 ・枡の容量を[①]に統一 ・土地の面積・等級を調べ[②]を定める ・検地帳に耕作する農民と田畑の屋敷地を 登録=[③] →荘園制で土地に何人もの権利が重複する 状態を整理した。 →一方で土地に応じた年貢などの負担が 義付けられた
京枡, 石高, 一地一作人
40
秀吉政権下の年貢の納入額は領主に石高の3分の2を納入する[①]が一般的だった
二公一民
41
秀吉の政策のなかの太閤検地に並行して村の境界線を画定する[①]も行われていた
村切
42
【1591年】 全国統一を終えた秀吉は天皇におさめるためと称し、全ての大名に領国の[①]・[②]を提出するよう命じた
検地帳, 国絵図
43
【1588年】 一揆で武器が威力を発揮したため、秀吉は[①]を出し農民から武器を没収した
刀狩令
44
【1591年】 秀吉は[①](身分統制令)を出して兵人が町人・百姓になることや、百姓が商人・職人になることなどを禁じた。 →翌年も関白豊臣秀次が朝鮮出兵の人員確保のためにこれを再令。
人掃令
45
豊臣政権の検地・刀狩・人掃令などにより 職業に基づく身分が定められいわゆる[①]が完成した
兵農分離
46
【1587年】 九州平定に赴き、キリシタン大名の[①]が長崎をイエズス会に寄付していることを知った秀吉は[②]を出して宣教師の国外追放を命じた
大村純忠, バテレン追放令
47
【1588年】 キリスト教と貿易は密接関係だった →秀吉は[①]により倭寇などの海賊行為を禁止したが、京都・堺・長崎・博多の豪商はの南方との貿易は奨励したので布教の取り締まりは中途半端であった。
海賊取締令
48
【1596年】 土佐にスペイン船[①]が漂着→スペインが領土拡大のため布教を行っていることを証言=[①]事件→これにより秀吉は長崎で宣教師を大勢処刑=[②]
サン=フェリペ号, 26聖人殉教
49
【1587年】 秀吉は対馬の[①]を通して朝鮮に対し入貢と明への出兵の先導を求めた→朝鮮拒否 【1582年】 その拒否を受け、秀吉は肥前の[②]に拠点をおき、朝鮮に派兵=[③]
宗氏, 名護屋, 文禄の役
50
文禄の役は[①]率いる朝鮮水軍の活躍や明の援軍などにより日本は休戦し、和平交渉を試みたが決裂した。
李舜臣
51
【1597年】 秀吉は再び朝鮮に派兵=[①] →最初から日本は苦戦→秀吉病死→撤退 この前後7年に及んだ[②]は豊臣政権の衰退の原因になった
慶長の役, 朝鮮侵略
52
秀吉の朝鮮出兵は朝鮮で[①]・[②]倭乱と呼ばれた
壬辰, 丁酉
53
【1590年】 織田信長と同盟し、東海地方に勢力を奮っていた[①]が北条氏滅亡後の関東に移り大名となった。
徳川家康
54
【1600年】 五奉行の一人で豊臣政権を存続させようとする[①]と対立→[②]の戦い
石田三成, 関ヶ原
55
関ヶ原の戦いについて 西軍=[①]が盟主(石田軍) 東軍=[②]・[③]らの諸大名(徳川軍) →徳川軍が勝利。敗北した西軍の大名らは 処刑や減封が行われた
毛利輝元, 福島正則, 黒田長政
56
【1603年】 家康は[①]の宣下を受け[②]に幕府を開いた→[②]時代の幕開け
征夷大将軍, 江戸
57
家康の政策 ・主要な鉱山を直轄 ・[①](ベトナム)・[②]・[③]に修好を求める 外交文書を送る ・全国の諸大名に江戸城と市街地造成の 普請を行わせる ・国単位に国絵図と[④]を作成させる
アンナン, ルソン, カンボジア, 郷帳
58
家康が全国の支配を行うなか、[①]は以前大阪城におり、父の秀吉の地位を継承していた
豊臣秀頼
59
【1605年】 将軍職は徳川氏の世襲であることを示すために[②]に将軍宣下→家康はその後[③]として実権を握り続ける。
徳川秀忠, 大御所
60
【1614~15年】 豊臣氏が建立した方広寺の鐘銘を口実に(方広寺鐘銘事件)[①]で家康が挙兵し豊臣氏を滅びる
大坂の役
61
【1615年】 大名の居城を1つに限定=[①] 大名の統制のために制定=[②]
一国一城令, 武家諸法度
62
2代目将軍秀忠の政策 【1619年】[①]を武家諸法度違反で改易 【1623年】将軍職を[②]に譲る→大御所
福島正則, 徳川家光
63
3代将軍家光の政策 【1632年】肥後の大名[①]氏を処分 →九州支配拡大 【1634年】軍勢率いて上洛 →統一した[②]を大名に賦課 →軍事指揮権を示す
加藤, 軍役
64
3代将軍家光のもとで大名は[①]に応じて一定数の兵馬を常備 →戦時は将軍の命令で出陣 →平時は江戸城の修築・河川工事
石高
65
【1635年】 徳川家光が新たな武家諸法度[①]を発布 →その中、大名は江戸と国元を往復=[②]
寛永令, 参勤交代
66
3代将軍の頃に確立した将軍と大名が土地と人民を統治する支配を[①]という
幕藩体制
67
参勤交代について →規定では在府・在国は[①]年だが関東の大名は[②]年交代であった
1, 半
68
江戸幕府の財政 ・佐渡・伊豆・但馬生野・石見大森などの[①]からの収入 ・江戸・京都・大坂・堺・長崎などの主要都市を直轄し、商工業や貿易を統制 →貨幣の鋳造権も握る
鉱山
69
江戸幕府の軍事 ・将軍直属の家臣団[①]・[②]が担う ※将軍に謁見できるのが[①] できないのが[②]
旗本, 御家人
70
江戸幕府の職制〜その1〜 (以前は将軍の側近が全て担ってきた) 3代家光の頃までに改定・整備 ○今まで[①]と呼ばれた重臣が[②]となり 重要政務を統括するように ○臨時最高職の[③]は重要事項の決定のみ合議に加わった(ピンチヒッター的な) ○老中の補佐役[④]、大名を監視する[⑤]、旗本・御家人を監視する[⑥]設置 〜次の問題に続く〜
年寄, 老中, 大老, 若年寄, 大目付, 目付
71
江戸幕府の職制〜その2〜 ○寺社奉行・町奉行・勘定奉行の[①]設置 ○役職には原則数名の譜代大名・旗本がつくように→[②]交代で政務を扱う ○簡略な訴訟は役職内で解決 →役職をまたがる訴訟は[③]で合議
三奉行, 月番, 評定所
72
江戸幕府の職制〜その3〜 ○朝廷や西国大名を監視する[①]設置 ○京都・大坂・駿府などの重要都市には[②]・[③]設置(遠国には奉行を設置) ○関東・飛騨・美濃などには[④]、その他には[⑤]派遣→統轄は勘定奉行
京都所司代, 城代, 町奉行, 郡代, 代官
73
寺社行政を将軍の側近として担っていた金地院の[①]の死は寺社奉行の組織のきっかけにもなった
崇伝
74
大名は初期は有力武士に領地支配を認める [①]をとっていたが17C半ばになると、直轄領から年貢を蔵米として支給する[②]がとられるようなった
地方知行制, 俸禄制度
75
【1613年】 家康は[①]を出し公家の業務を定める 【1615年】 [②]を制定し朝廷運営の基準を明示 そのほか[③]を通じて朝廷と幕府をつなぎ、京都所司代と連絡を取りつつ朝廷に幕府側の指示を与えた(スパイ的な)
公家衆法度, 禁中並公家諸法度, 武家伝奏
76
【1629年】 後水尾天皇が幕府への届出なく紫衣着用を勅許=[①]→その後天皇は譲位し秀忠の孫にあたる[②]天皇が即位
紫衣事件, 明正
77
今まで幕府はキリスト教を黙認していた →キリスト教って侵略してるんじゃ… 【1612年】[①]を出しキリスト教を禁止 →【1614年】[②]ら300人余りを追放 →【1622年】長崎でキリシタン55名を 処刑した=[③]
禁教令, 高山右近, 元和の大殉教
78
【1637年〜38】 飢饉の中の苛酷な年貢やキリスト教徒弾圧などに反発し[①]が起こる→この時の首領が[②]であり[③]跡に立てこもって奮闘した
島原の乱, 天草四郎時貞, 原城
79
島原の乱後の宗教政策 ○九州北部で[①]を強化 ○寺院が檀家であることを証明する[②] ○禁教目的の信仰調査[③] →仏教への転宗を強制
絵踏, 寺請制度, 宗門改め
80
幕府はキリスト教や日蓮宗不受不施派を 信仰させないために武士も神職も誰もが檀那寺の檀家になるように強制=[①]
寺檀制度
81
江戸幕府の寺社統制 ○[①](=諸宗諸本山法度)を出す ○宗派ごとに本山・本寺の地位を保障 しつつ末寺を組織させた[②] ○【1665年】 全国の僧侶に[③]、神社・神職に[③]制定
寺院法度, 本末制度, 諸宗寺院法度, 諸社禰宜神主法度
82
【1600年】 オランダ船[①]が豊後に漂着
リーフデ号
83
家康はリーフデ号航海士の[①](耶揚子)と水先案内人の[②](三浦按針)を江戸に招き貿易・外交の顧問に
ヤン=ヨーステン, ウィリアム=アダムズ
84
【1609年】[①]に幕府から貿易の許可 【1613年】[②]に幕府から貿易の許可 →肥前の[③]に商館ひらく
オランダ, イギリス, 平戸
85
家康は朝鮮半島や琉球王国を介して明との国交回復を交渉→[①]
明は拒否した
86
家康はスペイン領のメキシコ[①]との通商を求め、京都の[②]を派遣
ノビスパン, 田中勝介
87
【1596年】[①]事件→スペインと断交 【1609年】ルソンの前総督[①]漂着 【1610年】家康が船を与えノビスパンへ →通交復活
サン=フェリペ, ドン=ロドリゴ
88
【1613年】 仙台藩主[①]は家臣の[②]をスペインに派遣しメキシコと直接貿易を開こうとしたが失敗に終わる=[③]
伊達政宗, 支倉常長, 慶長遣欧使節
89
ポルトガル商人との対立 ○ポルトガル商人が中国産[①]を独占 →転売ヤー的なことをしていた →【1604年】[②]制度を設けて[①]仲間と呼ばれる特定の商人らに買い占めさせる →ポルトガル商人の利益独占の排除成功
生糸, 糸割符
90
糸割符制度において糸割符仲間と呼ばれたのは[①]・[②]・[③]の商人であり、のちに[④]・[⑤]が加わった
京都, 堺, 長崎, 江戸, 大坂
91
【1685年】 糸割符制度が復活し、年貿易額を銀換算でオランダ船は[①]貫、清船は[②]貫に制限した
3000, 6000
92
江戸幕府は海外に渡航する商人らに[①]を与え、[①]をたずさえた貿易船を[②]といった=[②]貿易
朱印状, 朱印船
93
朱印船貿易について ○朱印船出した大名=[①]・[②]ら ○朱印船出した商人=長崎:[③] 摂津[④] 京都:[⑤]・[⑥] →貿易が盛んになると南方の各地に[⑦]
島津義久, 有馬晴信, 末次平蔵, 末吉孫右衛門, 角倉了以, 茶屋四郎次郎, 日本町
94
朱印船貿易の輸入品は[①]・絹織物・砂糖 輸出品は[②]
生糸, 銀
95
[①]は朱印船貿易の中で渡航し、アユタヤ朝の王室に重く用いられた
山田長政
96
外国との通交を制限するように 〜理由〜 ○[①]流入を防ぐため ○幕府が[②]の利益を独占するため
キリスト教, 貿易
97
江戸幕府〜鎖国への道のり〜 【1616年】 外国船の寄港地を[①]・[②]に限定 【1624年】 [③]船の来航禁止 【1633年】 [④]以外の日本船の海外渡航禁止 【1635年】 日本人の海外渡航・在日日本人の帰国を 禁止 中国船の寄港地を[⑤]に限定 【1639年】 [⑥]船の来航を禁止 【1641年】 平戸のオランダ商館を長崎の[⑦]に移す →鎖国の完成!
平戸, 長崎, スペイン, 奉書船, 長崎, ポルトガル, 出島
98
鎖国によりオランダ船と中国船だけが日本に来航するように →オランダはバタヴィアなおいた[①]の支店として出島に[②]をおいた
東インド会社, 商館
99
幕府は長崎を窓口にオランダ商館長が提出する[①]によって海外情勢を知ることが出来た
オランダ風説書
100
○明清交替の動乱がおさまると長崎での貿易額増加 (大量輸入により銀が流出したらマズい) →【1685年】オランダ・清からの輸入額を 制限した →【1689年】長崎に雑居する清国人の 居住地限定のため[①]設置
唐人屋敷