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宮沢賢治①
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  • 問題数 100 • 9/16/2023

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    問題一覧

  • 1

    県立花巻高等女学校の現在の学校名は?

    花巻南高校

  • 2

    宮沢賢治作の水彩画(制作年代不詳)。タイトルは?

    日輪と山

  • 3

    「雨ニモマケズ」手帳に記されている詩は花巻の実家にて闘病中であった頃と推測されている。死の2年前である昭和6年(1931年)の何月何日?

    11月3日

  • 4

    改宗前の宮沢家の宗派は?

    浄土真宗

  • 5

    父・政次郎は若くから有志と花巻仏教会を作ったほど進行深い人物。 賢治が10歳の頃、大沢温泉で参加したのは「夏期◯◯◯◯◯」?

    仏教講習会

  • 6

    賢治11歳、「石コ賢さん」と呼ばれていた頃に鉱物をあつめていたのは近所のどこの川?

    豊沢川

  • 7

    明治43年(1910年)、6月18日。14歳の賢治が植物採集登山隊80名で初めて登り、感動した山はどこ?

    岩手山

  • 8

    大正2年(1913年)。賢治17歳、中学4年生。新舎監排撃運動に参加して退寮を命じられた後の賢治が下宿することとなった寺院はどこ?

    清養院

  • 9

    島地大等編「漢和対照妙法蓮華経」を読んだ賢治が異常な感動を受けて開眼したのは?

    法華経

  • 10

    賢治が首席で入学した、全国初の専門学校の名前は?

    盛岡高等農林学校

  • 11

    大正6年(1917年)、賢治21歳。宮沢賢治、小菅健吉、保阪嘉内、河本義行を中心とする12名で創った学内同人誌の名前は?

    アザリア

  • 12

    大正7年(1918年)、賢治22歳。春~秋の協力的な野外調査により完成させたのは「岩手縣稗貫郡◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯」?

    地質及土性調査報告書

  • 13

    大正7年(1918年)、6月。賢治22歳。肋膜の診断により結核が始まった賢治。この夏に家族へ聞かせた童話は「蜘蛛となめくぢと狸」、あともうひとつは?

    双子の星

  • 14

    大正10年(1921年)、賢治25歳。前年に入会し、この年の1月に上京、本郷で下宿しアルバイトしながら鶯谷で奉仕活動をしていた信仰団体の名前は?

    国柱会

  • 15

    大正10年(1921年)、賢治25歳。上京中の賢治に童話創作をすすめた国柱会理事は誰?

    高知尾智耀

  • 16

    大正10年(1921年)、賢治25歳。8月にトシの病の報を受け花巻に帰る。この後12月に教諭として勤務した、現・花巻農学校の当時の名前は?

    稗貫農学校

  • 17

    大正11年(1922年)、賢治26歳。音楽熱の高まった賢治と親交が始まった、花巻女学校音楽教諭は誰?

    藤原嘉藤治

  • 18

    大正11年(1922年)、11月27日。トシが永眠した日付で作られた詩は「永訣の朝」「無声慟哭」あとひとつは?

    松の針

  • 19

    大正11年(1922年)、賢治26歳。「四次元時空世界」をすべての現象の舞台として考えた賢治の世界観に深く関わった、アインシュタインの発表した理論は?

    相対性理論

  • 20

    大正13年(1924年)、賢治28歳。自費出版したのは心象スケッチ「春と修羅」。同年に刊行した童話集は?

    注文の多い料理店

  • 21

    大正14年(1925年)、賢治29歳。草野心平が4月に中国広州で創刊し、同年7月に賢治へ送付し同人の勧誘を行った同人誌の名前は?

    銅鑼

  • 22

    大正15年(1926年)、賢治30歳。自ら農民の中に入っていく道を選び、3月末に教職を辞したあと開設したのは?

    羅須地人協会

  • 23

    大正15年・昭和元年(1926年)、賢治30歳。羅須地人協会の活動のひとつとして集会で講義をした人工言語は?

    エスペラント語

  • 24

    昭和2年(1927年)、賢治31歳。肥料設計や無料の稲作相談を行っていた賢治は手帳に「肥料設計ニヨル万一ノ損失ハ◯◯スベシ」とメモを残した。

    弁償

  • 25

    昭和2年(1927年)、賢治31歳。数多くの花壇設計図を描いた賢治が構想したのは「園林設計学」、もうひとつは?

    国土装景家

  • 26

    昭和6年(1931年)、賢治35歳。賢治を東北砕石工場の技師として招いた工場主の名前は?

    鈴木東蔵

  • 27

    昭和8年(1933年)、賢治37歳。亡くなる直前に父に遺言した、1,000部印刷して配ってほしいものは?

    国訳妙法蓮華経

  • 28

    岩手日報記事(大正15年4月1日朝刊)。羅須地人協会設立直前ころのインタビューで賢治は「『◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯』を目指す新しい農村」への期待を語った。

    生活即ち芸術の生がい

  • 29

    花巻農学校内に設置された「岩手国民高等学校」において賢治は講義を何回した?

    11

  • 30

    保阪嘉内に宛てた手紙にて、賢治は花巻農学校教諭の恵まれた生活に物足りなさを感じ、「◯◯◯◯◯」になろうとする期待と不安を語った。

    本統の百姓

  • 31

    羅須地人協会時代に構想された農民劇団の歌。「◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯◯」と未来への期待がうたわれている。

    はえある世界をともにつくらん

  • 32

    大正8年(1919年)ころに作成配布されたこれの作品名は?

    手紙一

  • 33

    現存する限りで、宮沢賢治の最後の手紙。教え子である誰に宛てたもの?

    柳原昌悦

  • 34

    肥料設計をした田の稲が、激しく降り続く雨の中で倒れようとしている時、その責任まで引き受けようとする詩人の姿が描かれているこの詩の名前は?

    降る雨は降るし

  • 35

    詩「生徒諸君に寄せる」。フールスキャップ紙の右半分5枚を横置きして記した、詩の草稿。盛岡中学校のどこから寄稿を求められて書いた?

    校友会雑誌

  • 36

    「きみ(そのこども)」に対して、「これからの本当の勉強」、「これからのあたらしい学問」を説いている作品だが、同時に賢治の農業の力量がどんなに伸びたかも示しているこの詩の名前は?

    あすこの田はねぇ

  • 37

    昭和2年(1927年)から翌年にかけて行われた「肥料設計相談」は2,000件を超えたと言われている。実際の肥料設計相談そのものの様子を示しているともいえる、この詩の名前は?

    それでは計算いたしませう

  • 38

    東北砕石工場のこの広告は、昭和8年7月1日付のどの新聞に掲載されたもの?

    岩手日報

  • 39

    工場の営業品目、酸石灰の効用・特性・施用法など、賢治の草稿によって各種の広告物が作られ、宣伝された。写真のこれは何?

    東北砕石工場製品目録

  • 40

    大正6年稗貫郡長の地質調査の委託を受けた関教授は、農學得業士の宮沢賢治他1名を調査員に嘱託した。その調査過程で当時、石鳥谷町好地の村長と賢治との間で交換された名刺と推察されるが、村長の名前は?

    高橋久治

  • 41

    酸性土壌改良を願った新しい道を熱心に活動し実績を上げるも、疲労感は高まっていったことが分かる「東北砕石工場時代の悩み」。何に記録されていた?

    王冠印手帳

  • 42

    賢治は、日本のように雨の多い地域に見られる酸性土壌の改良の為には◯◯◯の◯◯が効果的であることを学び、農民に説きました。

    石灰岩の粉末

  • 43

    写真のクワは◯◯◯◯◯◯時代に開墾耕作に使用したもの。

    羅須地人協会

  • 44

    写真は誰が書いた「ヴィオロン・セロ科」を抜粋筆者したもの?

    平井保三

  • 45

    大正15年(1926年)12月の上京の際、誰からセロのレッスンを受けた?

    大津三郎

  • 46

    エスペラント語はポーランドの誰により提唱された?

    ザメンホフ

  • 47

    自分の考えを世界の人々にも解ってほしいと願い、◯◯◯◯◯◯を学び、自作詩の◯◯◯◯◯◯訳を試みました。

    エスペラント

  • 48

    羅須地人協会時代、賢治は◯◯として花や野菜の栽培も試みました。その想いは◯◯として兎を飼う若者への共感としても記されています。この詩の名前は?

    副業

  • 49

    宮沢賢治の学習について。「改造」「中央公論」から同時代の思潮、岩手県農会では全国の「◯◯◯」から最新の農業に関する知見を学んでいます。

    農会報

  • 50

    四角形で小粒子を含む糊粉層が発達し、次の世代の幼植物を育てるための澱粉粒がたくさん見られるこの図は何?

    小麦種実断面

  • 51

    大きさの比較を分かりやすく表現しているこの自筆教材絵図は「岩手県と◯◯・◯◯・◯◯」。

    分子・原子・電子

  • 52

    「岩石の風化」。左列は◯◯◯。右列は風化した◯◯◯。

    安山岩

  • 53

    「岩石の風化」。上段は肉眼、中段はルーペ、下段は何で観察したスケッチ?

    偏光顕微鏡

  • 54

    「土食図」。土壌の成分と色との関係を示す三角座標図。黒の頂点が◯◯◯、赤が鉄分、白が鉱物。三成分それぞれの100%を示している。

    腐植質

  • 55

    大正15年(1926年)、羅須地人協会で講義の教材として使用された教材絵図。現存するものでいくつある?

    49

  • 56

    協同して様々な事業を起こしたり、共同で購買・生産・販売などを行う組合に、賢治は農村改良への期待を寄せていました。この詩の名前は?

    産業組合青年会

  • 57

    反別、地形、土質、日照、水利、実績、種子、予算など詳細を極めたこの質問書の名前は?

    肥料設計質問書

  • 58

    羅須地人協会時代の賢治の、農村の現状への心痛の一端を示す作品。この詩の名前は?

    もう二三べん

  • 59

    昭和2年(1927年)羅須地人協会講義に配布したプリント。土壌管理の要点18項をあげ、実行には「多大ノ忍苦ヲ求メ」とある。このプリントの名前は?

    土壌要務一覧

  • 60

    「土壌要務一覧」。土壌管理の要点を何項あげた?

    18

  • 61

    「土壌要務一覧」。土壌管理の要点18項をあげ、実行には「◯◯◯◯◯◯◯◯」とある。

    多大ノ忍苦ヲ求メ

  • 62

    羅須地人協会を始めた大正15年(1926年)暮れ近く、上京直前に配布されたこれは「羅須地人協会の◯◯◯◯」。

    集会案内

  • 63

    大正13年(1924年)5月、花巻農学校生徒を引率して北海道へ修学旅行に行きました。この書類の名前は?

    修学旅行復命書

  • 64

    農学校に開設された国民高等学校に学んだ伊藤清一の筆記ノート。賢治は「農民と云はず◯◯と称し」たいと講義した。

    地人

  • 65

    良い種籾を選んで一斉に発芽させる作業「◯◯◯・◯◯」を表題に用いた、花巻農学校教諭時代の詩作品の下書き稿。

    塩水撰・浸種

  • 66

    明治40年(1907年)、蚕業講習所として開設。大正10年(1921年)に郡立稗貫農学校となり、同年12月、賢治は教師として迎えられました。「◯◯◯大学」とも呼ばれました。

    桑ッコ

  • 67

    得業論文のテーマは◯◯◯に関するものだった。

    土壌学

  • 68

    北海道の◯◯◯から室蘭まで、雄大な弧を描く内浦湾。

    駒ヶ岳

  • 69

    「インドラの網」のヒントになったと思われる、南チベットにある塩水湖の名前は?

    テリナム・ツォ湖

  • 70

    鉱物的な透明な世界を展開し、チベット高原を題材にした超現実的などうわのなまえは?

    インドラの網

  • 71

    阿耨達池(法華経序品で「無熱悩池」)のモデルはチベットにある何という湖?

    マナサロワール湖

  • 72

    仏教では何と言われている?

    阿耨達池

  • 73

    五輪塔形式の供養塔が建立されたのは何回忌の時?

    23

  • 74

    この本の名前は?

    国訳妙法蓮華経

  • 75

    盛岡中学校の英語教師で、プロテスタントの盛岡浸礼協会牧師であるこの夫妻の名前は?

    タッピング

  • 76

    盛岡天主公教会。この教会にカトリックの神父として明治35年(1902年)〜大正11年(1922年)まで勤めていた神父の名前は?

    プジェー

  • 77

    花巻の新聞書籍店主。宮沢家と親交があり、賢治とは互いの人格と信仰を尊重しつつレコードを楽しみ合うなど親しく交流したこの人物は?

    斎藤宗次郎

  • 78

    「雨ニモマケズ手帳」の鉛筆挿しに大切に押し込まれた紙片に書かれていた短歌。長い長い時間の末に法華経に出会えた喜びを歌っている。この短歌の名前は?

    塵天の劫をし過ぎて

  • 79

    自筆スケッチ。現物は昭和20年(1945年)の戦災により消失しました。名前は?

    菩薩像

  • 80

    半紙に毛筆で書かれた短歌二首。死去直前の昭和8年(1933年)9月19日から20日の間に書かれた。豊作と篤い信仰との喜びがうたわれているこれの名前は?

    絶筆短歌二首

  • 81

    国柱会の創始者の名前は?

    田中智学

  • 82

    大正10年(1921年)に家出上京した際にたずね、後に奉仕活動をした国柱会館は東京上野のどこにある?

    鶯谷

  • 83

    どこからどこまでの帰途の線路周辺でのスケッチ?

    栄浜から豊原

  • 84

    法華経の中心。宇宙的大生命が説かれています。賢治の最も感動したところで、それを抜粋印刷して多くの人々に配布したものです。名前は?

    法華経寿量品

  • 85

    国柱会の理事・講師で、賢治が国柱会で最初にたずねた人です。名前は?

    高知尾智耀

  • 86

    保阪嘉内宛書簡。国柱会信行部に入会した賢治は、同信の友となるようにと保阪に強く何をすすめた?

    機関誌

  • 87

    昭和8年(1933年)、詩人・吉野信夫発行の「◯◯◯◯」にて発表。

    詩人時代

  • 88

    賢治に大きな感動を与えた「漢和対照妙法蓮華経」を編纂したこの人物は?

    島地大等

  • 89

    「雨ニモマケズ手帳」のメモ。法華経が普通の人には信じ難く理解し難いほどに深遠なものであるという言葉は何?

    難信難解

  • 90

    装幀したのは誰?

    棟方志功

  • 91

    国柱会の本尊。賢治に授与され、その仏壇に奉安されていました。花巻空襲の際は、防空壕で焼失をまぬがれたものです。これは何?

    十界曼荼羅

  • 92

    「無声慟哭」から半年以上もの空白を経て書かれた詩。「とし子とし子…おまへはその巨きな◯◯のうへに居るのか」とあります。この作品の日付、大正12年(1923年)6月3日では、◯◯はほぼ一晩中眺めることができました。

    木星

  • 93

    「赤く濁った◯◯がのぼり」とあります。この作品の書かれた大正13年(1924年)7月5日では、◯◯が昇る時刻は午後10時近くです。翌8月の下旬には◯◯大接近があり、日々明るく輝いていたことでしょう。

    火星

  • 94

    「西ぞらのきんの一つめうらめしくわれをながめてつとしづむなり」がありますが、宵空に一番星としてあらわれることの多い◯◯は、まさしく「きん(金)の一つ目」です。

    金星

  • 95

    日没により突然消えてしまうことを「つとしづむなり」と書き、目をつむるという意味で「◯◯◯」とも書いています。

    瞑する