江戸三座とよばれる芝居小屋は、(◽️)座・(◽️)座・(◽️)座である。中村
『偐紫田舎源氏』は(◽️◽️)作の(◽️)の代表作である。柳亭種彦
『春色梅児誉美』は(◽️◽️)作の(◽️◽️)の代表作である。為永春水
(◽️◽️)の『雨月物語』は(◽️◽️)の先がけ的作品である。上田秋成
『椿説弓張月』の作者は(◽️◽️)である。曲亭(滝沢)馬琴
随筆『北越雪譜』で、雪国の自然や生活・風俗を描いた越後出身の文人は(◽️◽️)である。鈴木牧之
(◽️)は、東北地方を巡歴し、『遊覧記』を著した。菅江真澄
(◽️◽️)は、『古今集』を重んじ、その門人たちは桂園派とよばれた。香川景樹
(◽️◽️)は、19世紀の越後の禅僧で、万葉調の童心にあふれる歌を多く残した。良寛
『東海道四谷怪談』の作者は(◽️◽️)である。鶴屋南北
幕末には、盗賊を主人公とする(◽️)物の作品を残した(◽️◽️)が現れた。白浪(しらなみ), 河竹黙阿弥
(◽️◽️)は、中国の明や清の南宗画に源流があり、日本では池大雅らにより大成された。文人画(南画)
蕪村と池大雅合作の文人画として『(◽️◽️)』が有名である。十便十宜図
(◽️◽️)は、写生を重んじ、『雪松図屏風』など、遠近法をとり入れた立体感のある作品を描いた。円山応挙
『浅間山図屏風』の作者は(◽️)である。亜欧堂田善(あおうどう でんぜん)
平賀源内は長崎で西洋画法を学び、その技法を秋田で( )に伝えた。小田野直武
(◽️)は、豊後出身の江戸末期の文人画家で、谷文晁に学びすぐれた画論も著した。田能村竹田
(◽️)は、(◽️)に学びながらも、彼から別れ、日本趣味の豊かな四条派をおこした。呉春(松村月渓)
[天保の]薪水給与令は( )年、老中(◽️◽️◽️)のもとで出された。1842
( )年、(◽️◽️)国王ウィレム2世は、日本に対して開国勧告を出した。1844
日米和親条約締結時の将軍は(◽️◽️)である。徳川家定
(◽️)は、勘定奉行として、日露和親条約の調印に奔走した。川路聖謨
阿部正弘は、越前藩主(◽️◽️)、薩摩藩主(◽️◽️)、宇和島藩主(◽️)らの協力を得た。松平慶永
日米通行通商条約では函館のほか、(◽️◽️)・(◽️◽️)・(◽️◽️)・(◽️◽️◽️)の開港が定められた。神奈川
日米通行通商条約で定められた関税制度を(◽️◽️◽️)制という。協定関税
1860年、外国奉行(◽️◽️◽️)は、日米修好通商条約の批准書交換のために正使として渡米した。新見正興
(◽️◽️)年に出された、五品江戸廻送令の五品とは、(◽️◽️◽️)・(◽️◽️◽️)・(◽️◽️◽️)・(◽️◽️◽️)・(◽️◽️◽️)である。1860
1861年、水戸脱藩士が外国公館を襲撃した事件のことを(◽️)という。東禅寺事件
徳川慶喜を将軍に擁立しようとした人物には、父の(◽️◽️)や、越前福井藩主の(◽️◽️◽️)、薩摩藩主島津斉彬などがいた。徳川斉昭
14代将軍に就任した(◽️◽️◽️)は、徳川( )の孫である。徳川家茂
井伊直弼が暗殺されたのちに、幕政の中心となった(◽️◽️◽️)は(◽️◽️)の政策を進めた。安藤信正
安藤信正の失脚後、1862年に薩摩藩の(◽️◽️)が求めた幕政改革を(◽️◽️)という。島津久光
八月十八日の政変前後の尊攘派の反乱に、中山忠光・吉村寅太郎による(◽️)、平野国臣による( )、藤田小四郎らによる天狗党の乱などがある。天誅組の変
列国は(◽️)年に兵庫沖まで艦隊を送って圧力をかけ、同年10月、(◽️◽️)を獲得し、(◽️)年に兵庫が開港された。1865
1866年に貿易協定である(◽️◽️◽️)を締結し、輸入品の税率を平均20%から、従量(◽️)%に改めた。改税約書
(◽️◽️◽️)はフランスの駐日公使として来日し、江戸幕府の15代将軍の幕政改革に協力した。ロッシュ
(◽️)年に行われた第二次長州征討は、将軍(◽️◽️)の病死を機に中止された。1866
薩長両藩は、朝廷内の(◽️◽️)と結んで、1867年10月14日に(◽️◽️)を受けた。岩倉具視
大政奉還の際、山内豊信が主張していた国家権力の構想を(◽️)という。公議政体論
王政復古の大号令で、(◽️◽️)・(◽️◽️)・(◽️◽️)の三職がおかれた。総裁
幕末期に盛んになり、のちに国家に公認された民間宗教を(◽️◽️)という。教派神道
川手文治郎は(◽️◽️)を、黒住宗忠は黒住教をおこした。金光教
大目付は( )年に柳生宗矩などが総目付に任ぜられたのが起源といわれる。1632
将軍が代がわりごとに、諸国の政情・民情を知るために派遣した役人を( )とよぶ。巡見使
禁中並公家諸法度には家康・秀忠と前関白( )が連署した。二条昭実
1663年[=寛文三年]に、武家伝奏を補佐するため、( )を設置した。議奏
流罪となった沢庵は1632年に許され、その後将軍家光の厚遇を得て、( )寺の開山となり、同寺に住した。東海
玉川庄右衛門・清右衛門が幕府に建議し、多摩川中流の羽村から江戸に引いた、神田上水と共に江戸二大上水として知られる上水を( )といい、( )年に完成した。玉川上水
江戸の米商人( )は、享保の飢饉との関連で、幕府の米価引き上げ政策に加担していたとして、1733年に打ちこわしにあった。高間伝兵衛
( )の松平定信への建言によって、朱子学が正学として位置づけられた。柴野栗山
( )は、高田屋嘉兵衛が幕命により1799年に開いた航路である。択捉航路
江戸三座とよばれる芝居小屋は、(◽️)座・(◽️)座・(◽️)座である。中村
『偐紫田舎源氏』は(◽️◽️)作の(◽️)の代表作である。柳亭種彦
『春色梅児誉美』は(◽️◽️)作の(◽️◽️)の代表作である。為永春水
(◽️◽️)の『雨月物語』は(◽️◽️)の先がけ的作品である。上田秋成
『椿説弓張月』の作者は(◽️◽️)である。曲亭(滝沢)馬琴
随筆『北越雪譜』で、雪国の自然や生活・風俗を描いた越後出身の文人は(◽️◽️)である。鈴木牧之
(◽️)は、東北地方を巡歴し、『遊覧記』を著した。菅江真澄
(◽️◽️)は、『古今集』を重んじ、その門人たちは桂園派とよばれた。香川景樹
(◽️◽️)は、19世紀の越後の禅僧で、万葉調の童心にあふれる歌を多く残した。良寛
『東海道四谷怪談』の作者は(◽️◽️)である。鶴屋南北
幕末には、盗賊を主人公とする(◽️)物の作品を残した(◽️◽️)が現れた。白浪(しらなみ), 河竹黙阿弥
(◽️◽️)は、中国の明や清の南宗画に源流があり、日本では池大雅らにより大成された。文人画(南画)
蕪村と池大雅合作の文人画として『(◽️◽️)』が有名である。十便十宜図
(◽️◽️)は、写生を重んじ、『雪松図屏風』など、遠近法をとり入れた立体感のある作品を描いた。円山応挙
『浅間山図屏風』の作者は(◽️)である。亜欧堂田善(あおうどう でんぜん)
平賀源内は長崎で西洋画法を学び、その技法を秋田で( )に伝えた。小田野直武
(◽️)は、豊後出身の江戸末期の文人画家で、谷文晁に学びすぐれた画論も著した。田能村竹田
(◽️)は、(◽️)に学びながらも、彼から別れ、日本趣味の豊かな四条派をおこした。呉春(松村月渓)
[天保の]薪水給与令は( )年、老中(◽️◽️◽️)のもとで出された。1842
( )年、(◽️◽️)国王ウィレム2世は、日本に対して開国勧告を出した。1844
日米和親条約締結時の将軍は(◽️◽️)である。徳川家定
(◽️)は、勘定奉行として、日露和親条約の調印に奔走した。川路聖謨
阿部正弘は、越前藩主(◽️◽️)、薩摩藩主(◽️◽️)、宇和島藩主(◽️)らの協力を得た。松平慶永
日米通行通商条約では函館のほか、(◽️◽️)・(◽️◽️)・(◽️◽️)・(◽️◽️◽️)の開港が定められた。神奈川
日米通行通商条約で定められた関税制度を(◽️◽️◽️)制という。協定関税
1860年、外国奉行(◽️◽️◽️)は、日米修好通商条約の批准書交換のために正使として渡米した。新見正興
(◽️◽️)年に出された、五品江戸廻送令の五品とは、(◽️◽️◽️)・(◽️◽️◽️)・(◽️◽️◽️)・(◽️◽️◽️)・(◽️◽️◽️)である。1860
1861年、水戸脱藩士が外国公館を襲撃した事件のことを(◽️)という。東禅寺事件
徳川慶喜を将軍に擁立しようとした人物には、父の(◽️◽️)や、越前福井藩主の(◽️◽️◽️)、薩摩藩主島津斉彬などがいた。徳川斉昭
14代将軍に就任した(◽️◽️◽️)は、徳川( )の孫である。徳川家茂
井伊直弼が暗殺されたのちに、幕政の中心となった(◽️◽️◽️)は(◽️◽️)の政策を進めた。安藤信正
安藤信正の失脚後、1862年に薩摩藩の(◽️◽️)が求めた幕政改革を(◽️◽️)という。島津久光
八月十八日の政変前後の尊攘派の反乱に、中山忠光・吉村寅太郎による(◽️)、平野国臣による( )、藤田小四郎らによる天狗党の乱などがある。天誅組の変
列国は(◽️)年に兵庫沖まで艦隊を送って圧力をかけ、同年10月、(◽️◽️)を獲得し、(◽️)年に兵庫が開港された。1865
1866年に貿易協定である(◽️◽️◽️)を締結し、輸入品の税率を平均20%から、従量(◽️)%に改めた。改税約書
(◽️◽️◽️)はフランスの駐日公使として来日し、江戸幕府の15代将軍の幕政改革に協力した。ロッシュ
(◽️)年に行われた第二次長州征討は、将軍(◽️◽️)の病死を機に中止された。1866
薩長両藩は、朝廷内の(◽️◽️)と結んで、1867年10月14日に(◽️◽️)を受けた。岩倉具視
大政奉還の際、山内豊信が主張していた国家権力の構想を(◽️)という。公議政体論
王政復古の大号令で、(◽️◽️)・(◽️◽️)・(◽️◽️)の三職がおかれた。総裁
幕末期に盛んになり、のちに国家に公認された民間宗教を(◽️◽️)という。教派神道
川手文治郎は(◽️◽️)を、黒住宗忠は黒住教をおこした。金光教
大目付は( )年に柳生宗矩などが総目付に任ぜられたのが起源といわれる。1632
将軍が代がわりごとに、諸国の政情・民情を知るために派遣した役人を( )とよぶ。巡見使
禁中並公家諸法度には家康・秀忠と前関白( )が連署した。二条昭実
1663年[=寛文三年]に、武家伝奏を補佐するため、( )を設置した。議奏
流罪となった沢庵は1632年に許され、その後将軍家光の厚遇を得て、( )寺の開山となり、同寺に住した。東海
玉川庄右衛門・清右衛門が幕府に建議し、多摩川中流の羽村から江戸に引いた、神田上水と共に江戸二大上水として知られる上水を( )といい、( )年に完成した。玉川上水
江戸の米商人( )は、享保の飢饉との関連で、幕府の米価引き上げ政策に加担していたとして、1733年に打ちこわしにあった。高間伝兵衛
( )の松平定信への建言によって、朱子学が正学として位置づけられた。柴野栗山
( )は、高田屋嘉兵衛が幕命により1799年に開いた航路である。択捉航路