問題一覧
1
それまで、幕府は 1.( ・ )を有力な方針として、海岸防備の強化も図ってきた。しかし、幕末の深刻な対外的危機により、2.( ・ )を含めた幅広い議論が生じた。このことは、幕府自体に政治改革を促すとともに、3.(幕政にかかわることがなかった大名)や藩士たちが政治参加を要求し、朝廷の政治的影響力も増大するなど、従来の政治体制を変革、解体する契機となった。
鎖国・攘夷, 開国・和親
2
それまで、幕府は 1.( ・ )を有力な方針として、海岸防備の強化も図ってきた。しかし、幕末の深刻な対外的危機により、2.( ・ )を含めた幅広い議論が生じた。このことは、幕府自体に政治改革を促すとともに、3.(幕政にかかわることがなかった大名)や藩士たちが政治参加を要求し、朝廷の政治的影響力も増大するなど、従来の政治体制を変革、解体する契機となった。 3を指しているのは選択肢のうちどれか
親藩, 外様大名
3
清は( 1 )でイギリスに敗れて( 2 )を結び、上海など5港の開港、( 3 )の割譲、貿易の自由化などを認めさせられた。
アヘン戦争, 南京条約, 香港島
4
清の劣勢が日本に伝わると、幕府は( 1 )(天保13年)年、異国船打ち払い令を緩和していわゆる( 2 )を出し、漂着した外国船には燃料である薪や水・食料を与えることにした。
1842, 天保の薪水給与令
5
1853(嘉永6)年4月に琉球王国の那覇に寄港したアメリカインド艦隊司令長官( 1 )は軍艦「黒船」4隻を率いて6月に( 2 )沖に現れ、日本に開国を求めた。
ペリー, 浦賀
6
ペリーは翌1854年(安政元)年1月、7隻の艦隊を率いて再び浦賀に来航し、条約の締結を強硬にせまった。幕府はその威力に屈して3月に( 1 )を結んだ。またこの条約は( 2 )によって調印された。形式的な開国となった。しかし、幕府の者たちはこれで鎖国を放棄したと考えたわけではなかった。
日米和親条約, 阿部正弘
7
日米和親条約ではアメリカ船に物資を補給すること、難破船やその乗組員を救助すること、下田・( 1 )の2港を開いて領事の駐在を認めること、アメリカに一方的に最恵国待遇を与えることなどを取り決めた。ついで、幕府は 2. ( ・ ・ )とも類似の内容の和親条約を結んだ。 1の地名
箱館
8
日米和親条約ではアメリカ船に物資を補給すること、難破船やその乗組員を救助すること、下田・( 1 )の2港を開いて領事の駐在を認めること、アメリカに一方的に最恵国待遇を与えることなど絵を取り決めた。ついで、幕府は 2. ( ・ ・ )とも類似の内容の和親条約を結んだ。 2に含まれる3か国
イギリス・ロシア・オランダ
9
老中首座阿部正弘は、それまでの方針を変えて 1.朝廷への報告 2.諸大名や幕臣の意見も取り入れた この幕政改革
安政の改革
10
日米和親条約に基づき1856(安政3)年に来日した初代アメリカ総領事ハリスは、下田に駐在して通商条約の締結を強く求めた。しかし、朝廷・孝明天皇側は攘夷の考えであったために勅許は得られなかった。ところが1858(安政5)年、大老( 1 )は勅許を得られないまま、同年6月に( 2 )の調印を断行した。
井伊直弼, 日米修好通商条約
11
日米修好通商条約には5港の開港、江戸と大阪の開市、通商は自由貿易とすること、アメリカに( 1 )を認め、日本の関税については日本に税率の決定権がない( 2 )の欠如という不平等条約であった。 幕府はついで 、4.( ・ ・ ・ )とも類似の条約( 3 )を結んだ。
領事裁判権, 関税自主権, 安政の五カ国条約
12
日米修好通商条約には5港の開港、江戸と大阪の開市、通商は自由貿易とすること、アメリカに( 1 )を認め、日本の関税については日本に税率の決定権がない( 2 )の欠如という不平等条約であった。 幕府はついで 、4.( ・ ・ ・ )とも類似の条約( 3 )を結んだ。 4に含まれるアメリカ以外の4か国
オランダ, ロシア, イギリス, フランス
13
日米修好通商条約以降の主な日本からの輸出品は、( 1 )・茶・蚕卵紙・海産物などの農水産物やその加工品がとなり、主な輸入品は( 2 )・( 3 )などの繊維工業製品や鉄砲・艦船などの( 4 )が輸入された。日本の輸出品と輸入品を比較すると輸入品は加工度の高い品が多く、これは発展途上にみられる傾向と同じである。
生糸, 毛織物, 綿織物, 軍需品
14
貿易は大幅な輸出超過となり、それに刺激されて物価が(上昇 or 下落 )するとともに、国内産業に大きな変化が現れた。
上昇
15
(万延元)年、生糸・水油などの5品は( 1 )港への直送を禁じて必ず( 2 )の問屋を経由して輸出するように命じた。これを( 3 )という。また、江戸への経由を命じたのは江戸で( 4 )が起きていたためである。
横浜, 江戸, 五品江戸廻送令, 品不足
16
日本と外国との金銀比価が違ったため、多量の金貨が海外に流出した。幕府は金貨の重量を大幅に減らす改鋳を行って( 1 )を発行して流出を防いだ。この政策を( 2 )という。しかし、貨幣の実質的な価値が 3. (上がった or 下がった)ことで物価上昇に拍車をかけることになり、激しい攘夷運動がおこる一因となった。
万延小判, 万延貨幣改鋳, 下がった
17
1862(文久2)年に、神奈川宿に近い( 1 )で、江戸から帰る途中の島津久光の行列を横切った( 2 )人が殺傷された。これを( 1 )事件と呼ぶ。この事件はのちに( 3 )を招く原因となった。
生麦, イギリス, 薩英戦争
18
ハリスから通商条約の締結を迫られていたころ、幕府では13代将軍( 1 )に子がなかったため、将軍継嗣問題が起こった。幕政参画を目指す親藩の越前藩主( 2 )や、有力外様大名の薩摩藩主( 3 )らは、水戸藩主徳川斉昭の子で( 5 )家を継いだ( 4 )を推した。この派閥を( 5 )派と呼ぶ。
徳川家定, 松平慶永, 島津斉彬, 徳川慶喜, 一橋
19
血統の近い幼年の紀伊藩主( 1 )を推して現体制を維持しようとする譜代大名らと対立した。この派閥を( 2 )派と呼ぶ。1858(安政5)年、( 2 )派の彦根藩主井伊直弼が大老に就任すると、通商条約の調印を強行し、( 1 )を将軍の跡継ぎに決定した。また、( 1 )は将軍に就いたことで14代将軍( 3 )に改名した。
徳川慶福, 南紀, 徳川家茂
20
条約の( 1 )調印は孝明天皇の怒りと一橋派の大名や尊王と攘夷を唱える志士たちの強い反発をまねいた。これに対して直弼は強硬な態度で反対派の公家・大名をおさえ、その家臣ら多数を処罰、( 2 )をおこした。この厳しい弾圧に憤激した( 3 )脱藩の志士、1860(万延元)年、直弼を暗殺した。この事件を( 4 )という。
違勅, 安政の大獄, 水戸, 桜田門外の変
21
桜田門外の変ののち、幕政の中心となった老中安藤信正は、朝廷と幕府の融和をはかる( 1 )の政策をとり、孝明天皇の妹( 2 )を将軍家茂の妻に迎えた
公武合体, 和宮
22
家茂と孝明天皇の妹和宮の政略結婚は( 1 )の論者から批判され、老中安藤信正は1862(文久2)年、江戸城( 2 )で水戸脱藩士らに傷つけられて老中を退いた。この事件を( 2 )の変という。こうした事態の中で、朝廷と幕府の双方につながりの深い薩摩藩では、島津久光が朝廷に幕政改革を訴え、朝廷から過激派藩士の掃討を命じられた。さらに勅使を奉じて、幕府に幕政改革を迫った。幕府は越前藩主( 3 )を( 4 )に、徳川斉昭の子( 5 )を( 6 )に任命し、また天皇を守るために( 7 )をおいて会津若松藩主( 8 )をこれに任命するなど、幕政を改めた。
尊王攘夷, 坂下門外, 松平慶永, 政治総裁職, 徳川慶喜, 将軍後見職, 京都守護職, 松平容保
23
これら薩摩による公武合体を( 1 )という 1の改革
文久の改革
24
島津久光が去った京都では、( 1 )藩士が主張する尊王攘夷を藩論とする( 2 )が、急進派の公家と組み、攘夷の決行を幕府に迫った。幕府はやむなく諸藩に攘夷を命じ、( 2 )はその日から( 3 )の海峡を通過する諸外国船を砲撃した。
下級, 長州藩, 下関
25
長州藩に対して、薩摩・会津の両藩は1863(文久3)年( 1 )、朝廷内の公武合体派の公家とともに朝廷の実験を奪って、長州藩勢力と急進派の公家( 2 )らを京都から追放した。この事件を( 1 )の政変という。
八月十八日, 三条実美
26
長州藩は勢力を回復するために、1864年池田屋事件を契機に京都に攻め上ったが、会津・桑名・薩摩などの諸藩の兵に敗れて退いた。この事件を( 1 )という。幕府は長州藩を朝敵とみなし、直ちに諸藩を動員して( 2 )(第一次)を行った。
禁門の変, 長州征討
27
貿易の妨げになる攘夷派に打撃を与える機会を狙っていた列国は、イギリスを中心にフランス・アメリカ・オランダ4国の連合艦隊を編成して下関の砲台を攻撃した。この事件を( 1 )という。長州征討や諸外国の動きを受けて、長州藩の上層部は藩内の尊攘派を弾圧し、幕府に対し恭順な態度をとった。このため、長州征討の幕府軍は交戦しないまま撤退した。 1の事件
四国艦隊下関砲撃事件
28
薩摩藩は( 1 )の経験からかえって( 2 )に接近し、西郷隆盛・大久保利通ら下級藩士の革新派が幕政を掌握した。長州藩攘夷派の( 3 )・( 4 )らも、下関で四国艦隊に惨敗し、攘夷の不可能を悟った。いったんは幕府に屈状した長州藩だが、( 3 )・( 4 )らは先に組織した( 5 )を率いて藩論を恭順から倒幕へと転換させ、( 2 )に接近して軍事力の強化に努めた。
薩英戦争, イギリス, 高杉晋作, 桂小五郎, 奇兵隊
29
幕府は再び藩論を倒幕に変換させた長州藩に対して( 1 )(第2次)を宣言したが、すでに開国進取に転じていた薩摩藩は、ひそかに長州藩を支持する態度をとった。1866(慶応2)年には、土佐藩出身の( 2 )・中岡慎太郎らの仲介で薩摩藩は長州藩と軍事同盟の密約を結び、反幕府の態度を固めた。この同盟を( 3 )という。
長州征討, 坂本龍馬, 薩長連合
30
慶喜は1867(慶応3)年10月14日、( 1 )の上表を朝廷に提出した。同じ10月14日には、朝廷内の( 2 )らと結んだ薩長両藩が、いわゆる討幕の密勅を手に入れていた。( 1 )の上表で機先を制せられた討幕派は、12月9日、薩摩藩などの武力を背景に朝廷でクーデターを決行し、( 3 )を発して、天皇を中心とする新政府を樹立した。
大政奉還, 岩倉具視, 王政復古の大号令
31
王政復古の大号令では将軍はもちろん、朝廷の摂政・関白も廃止して、天皇のもとに新たに親王を( 1 )、公家を( 2 )、雄藩の藩士を( 3 )に入れた雄藩連合の形をとった、さらに、徳川慶喜に内大臣の辞退と朝廷への領地の一部返上などの( 4 )を命じる処分が決定された。この処分が( 5 )のきっかけとなった。
総裁, 議定, 参与, 辞官納地, 戊辰戦争
32
戊辰戦争が進む中で、新政府は政治の刷新を進めた。1868年3月には( 1 )を公布して、( 2 )の尊重と開国和親など新政府の国策の基本を示し、天皇が公卿・諸侯(江戸時代の大名)・諸々の官を率いて神々に誓約する形式をとって( 3 )を強調した。
五箇条の誓文, 公議世論, 天皇親政
33
1868年7月に江戸を東京と改め、8月には明治天皇が即位の礼をあげた。9月に年号を( 1 )と改元して( 2 )を採用し、翌年には京都から東京に首都を移した。一方で政府は、五箇条の誓文公布の翌日、全国の民衆に向けて( 3 )を掲げた。
明治, 一世一元の制, 五榜の掲示