問題一覧
1
1871年の廃藩置県では、知藩事をそのまま府知事・県令として中央集権体制を完成させた。
✕
2
1869年の版籍奉還では、領地や領民を新政府の支配下におき、旧藩主を知藩事に任命した。
〇
3
1876年、政府支出を削減するため秩禄支給を全面的に廃止し、金禄公債証書を交付した。これとともに華族・士族制度は廃止された。
✕
4
1872年、渋沢栄一が国立銀行条例を出し、全国に官営の国立銀行を設置した。 その後次々と民間銀行が設立されたため、紙幣供給が過剰になりインフレが進行した。
✕
5
1871年の新貨条例では、兌換紙幣による金本位制が制度化されたが、貿易では銀が使用されたため銀貨とも交換可能であり、実質的には金銀服本位制であった。
〇
6
地租改正により、田畑永代売買の禁を解禁し財産としての土地所有が認められた。 地価の一定割合を所有者に金納させることにより安定的な財源の確保が図られたほか、地主と小作人の関係にも変化が生じ多くの小作人が独立した。
✕
7
松方正義が大蔵卿に就任すると、日本銀行が設立し銀行券による銀兌換制が確立した。松方デフレによる自作農の没落により、寄生地主制が確立した。
〇
8
1872年、日本初の鉄道が〇〇間に開通した。1906年の鉄道国有法により、約9割の鉄道が国有化された。
新橋〜横浜
9
1870年に工部省が設置され、(1)が初代工部卿に就任した。1873年に内務省が設置され、(2)が初代内務卿に就任した。
(1)伊藤博文/(2)大久保利通
10
1872年に公布された学制は中央集権的な(1)式、1879年に公布された教育令は地方分権的な(2)式であった。
(1)フランス/(2)アメリカ
11
1879年に公布された学校令は、アメリカの教育制度を参考にしており中央集権的であった。
✕
12
1874年、制韓派の板垣退助らが愛国公党を結成し、これらは後に立志舎や愛国社という政党になった。
〇
13
板垣退助らの自由民権運動に対し、政府は立憲政体樹立の詔を出し、立憲制への緩やかな移行を示したとともに、讒謗律などで言論の自由を認めた。
✕
14
自由民権運動は主に士族層によって行われ、農民が参加することはなかった。
✕
15
愛国社は後に国会期成同盟に改称し、国会開設を政府に求めた。政府はこれに対し集会条例で結社制限を行った。
〇
16
政府内で急進派の大隈重信と慎重派の伊藤博文が対立し、開拓使官有物払い下げ事件をきっかけに大蔵卿の伊藤博文が罷免された。 この後、政府は国会開設の直諭により10年後の国会開設を公約した。
✕
17
国会開設に向けた政党では、自由党の板垣退助は(1)流の主権在民を、立憲改進党の大隈重信は(2)流立憲君主制を目指した。
(1)フランス/(2)イギリス
18
民権運動の激化により秩父事件などが起こったが鎮圧され、その後再び復活した民権運動では三大事件建白運動により地租軽減、言論集会の自由、外交失策挽回が要求された。
〇
19
1889年の大日本帝国憲法では、主権は天皇にあり二院制は採用されていない。
✕
20
1889年に衆議院議員選挙法が制定された。選挙権があったのは国税を〇〇円以上収める〇〇歳以上の男子であった。
15/25
21
立憲改進党を設立し初代党首に就任したのは大隈重信である。
○
22
明治の中央官庁では、鉄道や鉱山、造船、通信は○○省が担当した。
工部
23
立憲政友会を設立したのは○○である。
伊藤博文
24
原敬内閣は、立憲政友会による政党内閣であった。
○
25
日朝修好条規に基づいて、朝鮮に統監府がおかれた。
✕
26
日清戦争のきっかけとなったのは、○○である。
東学党の乱(甲午農民戦争)
27
立志社を設立したのは○○である。
板垣退助
28
山縣有朋、小村寿太郎、桂太郎らは(1)、伊藤博文や井上馨らは(2)を唱えた。 結局は(1)が政府の体制になった。
(1)日英同盟論/(2)日露協商論
29
日本海軍はバルチック艦隊に負けた。
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