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古墳時代
  • 問題数 40 • 4/17/2024

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  • 1

    弥生時代の後期にはすでに大きな墳丘をもつ墓が各地で営まれていたが 3世紀中頃から後半になると、より大規模な① をはじめとする古墳が②を中心に出現した。 これら出現期の古墳は、多くは③もしくは①で 長い木棺を④に収めた埋葬施設や、 多数の⑤を始めとする呪術的な⑥をもつなど 画一的な特徴を持っていた。

    前方後円墳, 西日本, 円墳, 竪穴式石室, 銅鏡, 副葬品

  • 2

    古墳は各地の①たちの共通の意識のもとにつくり出された墓制で、 その背景には古墳の出現に先立って 広域の②が形成されていたことが考えられる。 出現期の古墳の中で最も規模が大きいものは 奈良県(③)にみられ、この時期には ③地方を中心とする近畿中央部の勢力によって ②が形成されていた。 この大和地方を中心とする勢力を④という。 出現期…古墳時代前期の早い段階のこと。 大仙陵古墳は中期に造営された。

    豪族, 政治連合, 大和, ヤマト政権

  • 3

    古墳は遅くとも4世紀の中頃までに ①地方南部にまで波及したが、これも ②の広大な地域が ヤマト政権に組み込まれたことを示している。

    東北, 東日本

  • 4

    古墳時代前期の早い段階を①という。 この時期の古墳の中で最大規模をもつものは、 ②の③である。 ①の古墳は西日本では前方後円墳が多かったのに対し、東日本では④が多い。 ②には県名 ③には古墳名が入る。

    出現期, 奈良県, 箸墓古墳, 前方後方墳

  • 5

    古墳の墳丘上には①が並べられ、 斜面は②で覆われ、まわりに濠をめぐらせた ものも少なくない。

    埴輪, 葺石

  • 6

    埴輪は、前期には①や②、 盾・靫・蓋(たて・ゆき・きぬがさ)などの ③が用いられた。

    円筒埴輪, 家形埴輪, 器財埴輪

  • 7

    埋葬施設には、前期・中期には木棺や石棺を ①におさめたものや棺を粘土でおおった②など 竪穴系のものが営まれ、 後期になると③が多くなる。

    竪穴式石室, 粘土槨, 横穴式石室

  • 8

    副葬品も、 前期には鉄製の①や農工具などとともに、 ②をはじめとする多量の銅鏡や③など 呪術的・宗教的色彩の強いものがおおく、 この時期の古墳の被葬者である各地の 豪族たちは④的な性格をもっていたことを うかがわせる。 中期になると、副葬品の中に鉄製の①・武具が 多くなり、⑤なども加わって被葬者の ⑥的性格が強まったことを示している。

    武器, 三角縁神獣鏡, 腕輪形石製品, 司祭者, 馬具, 武人

  • 9

    最大の規模をもつ古墳は、中期に造営された ➀の②で、2~3重の③をめぐらしている。 また②は④の盟主的位置を占める。 ①には都道府県名 ②には古墳名 ④には古墳群名が入る。

    大阪府, 大仙陵古墳, 周濠, 百舌鳥古墳群

  • 10

    ①にある大仙陵古墳のまわりには 従属的な小型の古墳である②が営まれた。 大仙陵古墳に次いで第2位の規模をもつ ③にある④などは5世紀のヤマト政権の ➄の墓と考えられている。 ①③には都道府県名が入る。

    大阪府, 陪冢, 大阪府, 応神天皇陵古墳, 大王

  • 11

    前方後円墳は近畿中央部だけでなく 京都府北部や岡山県,宮崎県 群馬県などにも見られる。 古墳の中で第4位の規模を持つ①は ②にあり墳丘の長さが360mもある。 このことは大和政権において、 これらの地域の豪族が重要な位置を 占めていたことを示している。 ②は都道府県名が入る。

    造山古墳, 岡山県

  • 12

    中国では戦国時代のあと①が国内を統一したが 4世紀はじめには北方の②をはじめとする 諸民族の侵入を受けて南に移り、 南北分裂の③を迎えた。 このため、 周辺諸民族に対する中国の支配力は弱まり、 ④の諸地域は国家形成へと進んだ。

    晋, 匈奴, 南北朝時代, 東アジア

  • 13

    中国東北部からおこった①は朝鮮半島北部に 領土を広げ、②年には③を滅ぼした。 一方、朝鮮半島南部では馬韓・④・辰韓 というそれぞれ小国の連合が形成されていたが 馬韓から⑤が、辰韓から⑥がおこり 国家を形成した。 朝鮮半島南部の鉄資源を確保するために、 早くからかつての④の地の⑦諸国と 密接な関係を持っていた倭(ヤマト政権)は 4世紀後半に①が南下策を進めると ⑤や⑦とともに①と争うことになった。 ①の⑧の碑文には倭が ①と交戦したことが記されている。 朝鮮半島から⑨の風習を学び、 5世紀になると日本列島の古墳にも⑩が 副葬されるようになった。 この間、倭は⑤や⑦から様々な技術を学び、 また多くの⑪が海を渡って、 多様な技術や文化を日本列島に伝えた。

    高句麗, 313, 楽浪郡, 弁韓, 百済, 新羅, 伽耶, 好太王碑, 乗馬, 馬具, 渡来人

  • 14

    朝鮮半島南部をめぐる外交・軍事上の立場を有利にするため、 朝鮮半島の支配者を示す称号を求めた。 5世紀初めから約1世紀近くの間、①に讃・②・③・興・武と記された④が 相次いで中国の⑤に朝貢している。 ①には『』を使って ②,③は漢字一文字で ④は讃,②,③,興,武を総称した名称が入る。

    『宋書』倭国伝, 珍, 済, 倭の五王, 南朝

  • 15

    朝鮮半島や中国との盛んな交渉の中で、 より進んだ鉄器・①の生産、②・金属工芸・土木などの諸技術が、主として朝鮮半島からやってきた③から伝えられた。 ヤマト政権は③を④・⑤・錦織部・鞍作部 などと呼ばれる技術者集団に組織し、 各地に定住させた。 また⑥の使用も始まり、埼玉県の⑦出土鉄剣や 熊本県⑧出土鉄刀などに⑨大王と書かれている (このころから倭の人の名や地名などを書き表すようになった。) ④…鍛冶,銅工を行う集団 ⑤…陶器(須恵器)を作製する集団 錦織部(にしごりべ)…綿を織る集団 鞍作部(くらつくりべ)…馬具を作製する集団

    須恵器, 機織り, 渡来人, 韓鍛治部, 陶作部, 漢字, 稲荷山古墳, 江田船山古墳, ワカタケル

  • 16

    西文氏(かわちのふみうじ)の祖先は誰?

    王仁

  • 17

    東漢氏(やまとのあやうじ)の祖先は誰?

    阿知使主

  • 18

    秦氏の祖先は誰?

    弓月君

  • 19

    日本に漢字を伝えたのは①で②などの書物を 日本へ伝えた。 文筆に優れたのは③で東漢氏の祖先である。 日本に養蚕や機織りを伝えたのは④で 秦氏の祖先となった。

    王仁, 『論語』, 阿知使主, 弓月君

  • 20

    6世紀には百済から渡来した①により儒教が伝えられた。 また仏教も②から③天皇に伝えられた。 8世紀初めにできた歴史書である『④』や 『⑤』の元となった「帝紀」や「旧辞」も この頃にまとめられはじめたと考えられている 仏教公伝の年代については538年『⑥』 とする説と 552年『⑤』

    五経博士, 聖明王, 欽明, 古事記, 日本書紀, 上宮聖徳法王帝説

  • 21

    百済は倭に①を贈り、国交を結ぼうとした。 現在は物部氏の武器庫だったとされる ②に所蔵されている。(③県)

    七支刀, 石上神宮, 奈良

  • 22

    日本書紀や古事記のもとになったもので、 大王の系譜を中心とする伝承のものを① 朝廷の伝承・逸話などのものを②

    帝紀, 旧辞

  • 23

    古墳時代後期になると古墳自体にも大きな変化が現れた。 従来の竪穴系の埋葬施設にかわって 朝鮮半島から伝わった①が一般化し、 新しい葬送儀礼にともなう多量の②の副葬が始まった。 埴輪も円筒埴輪から人物埴輪や動物埴輪などの ③が盛んに用いられるようになる。 並べられた人物埴輪や動物埴輪の群像は 葬送儀礼または生前の首長が儀式をとりおこなう様子を再現したものであると予想されている

    横穴式石室, 土器, 形象埴輪

  • 24

    横穴式石室のうち、 死者をおさめる墓室のことを① ①と墳丘外部を結ぶ通路を②という。 横穴式石室は③が可能であることが竪穴式石室との違いである。

    玄室, 羨道, 追葬

  • 25

    九州北部のこふんには、石の埴輪である ①・石馬も立てられた。 さらに九州各地や茨城県・福島県などでは、 古墳や横穴の墓室に彩色あるいは線刻による 壁画をもつ②が作られるなど 古墳の地域的特色が強くなった。

    石人, 装飾古墳

  • 26

    ヤマト政権の変化と関連して、小型古墳の爆発的な増加があり、山間や小島にまで広く①と 呼ばれる小型古墳が数多く集まった古墳群が 営まれるようになった。 これは、古墳の造営など考えられなかった②層 までが、古墳をつくるようになったことの現れ 本来は豪族層だけで構成されていたヤマト政権の身分制度に、新たに台頭してきた②層を組み入れて、ヤマト政権が直接支配下におこうとしたものと考えられる。

    群集墳, 有力農民

  • 27

    古墳時代は支配者である豪族と被支配者である民衆の生活がはっきり分離した時代であった。 豪族は民衆の住む集落から離れた場所に、 周囲に濠や①をめぐらした②を営んだ。 これは豪族がまつりごとをとりおこなう場所で また、③の場でもあった。 余剰生産物を蓄える④もおかれた。

    柵列, 豪族居館, 生活, 倉庫群

  • 28

    民衆の住む建物にも変化が見られ、5世紀になると朝鮮半島の影響を受け、竪穴住居の壁に ①が設けられるようになった。 土器は、古墳時代前期から中期の初めまでは 弥生土器の系譜を引く赤焼きの②が用いられたが 5世紀になると朝鮮半島から硬質で灰色の③の 製作技術が伝えられ②とともに用いられるようになった。 当時の服装は④に表現されている。

    カマド, 土師器, 須恵器, 人物埴輪

  • 29

    農耕に関する祭祀は、古墳時代の人々にとって もっとも大切なものであり、中でも 豊作を祈る春の①や収穫を感謝する秋の②は 重要なものであった。 弥生時代の③にかわって、 古墳の副葬品にもみられる銅鏡や 鉄製の武器・農工具が重要な祭器になり、 5世紀になるとそれらの品々の模造品を 石などで大量につくって祭りに用いるようになった。

    祈年祭, 新嘗の祭り, 青銅製祭器

  • 30

    人々は、円錐形の整った形の山や高い樹木、 巨大な岩、絶海の孤島、川の淵などを 神のやどる所と考え、祭祀の対象とした。 それらの中には、現在も残る神社につながるものがある。 三輪山を神体とし、拝殿のみで本殿のない 奈良県①や 玄界灘の孤島②を神としてまつる福岡県③ などでは、いずれも古墳時代の 祭祀遺跡・祭祀遺物が発見されており 古墳時代以来の祭祀が続いていることが知られる。

    大神神社, 沖ノ島, 宗像大社

  • 31

    穢れをはらい、災いを免れるための①や祓、 鹿の骨を焼いてその割れ目から吉凶を占う② さらに裁判に際して、熱湯に手を入れさせ 手がただれるかどうかで 真偽を判断する神判の③などの呪術的な風習も行われた。

    禊, 太占の法, 盟神探湯

  • 32

    獲加多支鹵大王は 讃・珍・済・興・武のどれにあたるか。 また何天皇とされているか。

    武, 雄略天皇

  • 33

    ヤマト政権は5世紀から6世紀にかけて①と呼ばれる支配の仕組みをつくり上げていった。 豪族たちは血縁やその他の政治的関係をもとに構成された②と呼ばれる組織に編成され、 ②単位にヤマト政権の職務を分担し、 大王は彼らに③を与えた。

    氏姓制度, 氏, 姓

  • 34

    カバネとしては、地名を氏の名とした近畿の ①・平群・蘇我などの有力豪族に② 職掌を氏の名とした ③・物部などの有力豪族に④ 有力地方豪族に⑤ 地方豪族に⑥を与えた。 ①と③は氏の名前が入る。

    葛城, 臣, 大伴, 連, 君, 直

  • 35

    中央の政治は臣姓・連姓の豪族から ①・②が任じられてその中枢を担ったとされ、 その下の③が職務に奉仕する④やそれを支える 部と呼ばれる集団を率いて 軍事・財政・祭祀・外交や文書行政などの 職掌を分担した。 また新しい知識・技術を伝えた⑤たちも、 ③や④に編成され、品部の集団が支えた。

    大臣, 大連, 伴造, 伴, 渡来人

  • 36

    有力な豪族は、それぞれ私有地である①や 私有民である②を領有して それらを経済的な基盤とした。 また氏や氏を構成する家々には、奴隷として ③(奴婢)がいた。

    田荘, 部曲, ヤツコ

  • 37

    大王権力の拡大に対しては、地方豪族の抵抗もあった。 特に6世紀の初めには①と結んで②が 大規模な反乱をおこした(③)。 大王軍はこの③を2年がかりで制圧。 ヤマト政権はこうした地方豪族の抵抗を 排しながら彼らを従属させ列島各地に 直轄領としての④や、直轄民としての⑤の部を 設けていった。

    新羅, 筑紫国造磐井, 磐井の乱, 屯倉, 名代・子代

  • 38

    6世紀には地方豪族は①に任じられ、 その地方の支配権を大和政権から保証される一方、大王のもとにその子女を舎人・②として 出仕させ、地方の特産物を③し、 屯倉や名代・子代の部の管理を行い、 軍事行動にも参加するなどして ヤマト政権に奉仕するようになった。

    国造, 采女, 貢進

  • 39

    ヤマト政権の強力な規制 →各地の豪族の前方後円墳の造営が終わる。 時期が揃っているのはヤマト政権の統一性を表す。 この時期、中国では①が南北統一。 朝鮮半島にも進出する動き →東アジアの国際情勢の変化 →倭も大王を中心とする②的な国家形成を目指す。

    隋, 中央集権

  • 40

    前方後円墳の造営が停止されても100年ほど続いた。 かつて前方後円墳を造営していた豪族層は 大型の①や円墳を営むようになる。 (地方では国造に任じられた一部の有力な豪族のみ。) 7世紀中頃になると、近畿の大王の墓が②になった。 大王のみこの形の古墳を営んで、一般の豪族層を超越した存在であることを墳墓でも示そうとした。

    方墳, 八角墳