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江戸時代幕末 まとめ
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  • 問題数 40 • 9/23/2023

    問題一覧

  • 1

    1850年代前半の外交は、老中[  ]が中心となって行われたが、ペリー来航のとき、朝廷への報告や諸大名・幕臣の意見を求めるなどしたため、公家や大名の政治介入の契機となった。

    阿部正弘

  • 2

    1858年、大老の井伊直弼は一橋派を押さえて、幼少の[  ]を14代将軍徳川家茂として継嗣させた。

    徳川慶福

  • 3

    開港後の最大の輸出品は[  ]である。

    生糸

  • 4

    開港後、在方(在郷)商人らによる商品の横浜直送が江戸の物資不足を招いているとして、流通の統制、物価の抑制と江戸の問屋商人の保護を目的として1860年に[  ]が出されたが、在方(在郷)商人や売込商、諸外国の反対で実効なく後退した。

    五品江戸廻送令

  • 5

    開港後に、金銀比価の違いから大量の金貨が海外に流出したため、幕府は重量が少なく純度も低いの[  ]を鋳造して対処した。

    万延小判

  • 6

    1842年の[  ]の影響を受けて、同年に意府は異国船打払令を撤回し、天保の薪水給与令を発令した。

    南京条約

  • 7

    1846年に、アメリカ東インド艦隊司令長官[  ]が浦賀に来航し通商を要求したが、幕府はこれを拒絶した。

    ビッドル

  • 8

    1853年に、ロシア使節プゥチャーチンが[  ]に来航し、開国と国境画定を要求した。

    長崎

  • 9

    1854年の日米和親条約は、アメリカに対する片務的な[  ]を承認したため、平等条約とは言いがたい。

    最恵国待遇

  • 10

    1854年の日露和親条約は、プゥチャーチンと[  ]との間で調印された。

    川路聖謨

  • 11

    1854年に締結された日露和親条約は、正しくは日露通好条約といい、別名を [  ]という。

    下田条約

  • 12

    1850年代前半、幕府は“安政の改革”の一環として、前水戸藩主の[  ]を海防参与として幕政に参加させ

    徳川斉昭

  • 13

    1850年代前半に、代官の[  ]は伊豆韮山に反射炉を築いた

    江川英龍

  • 14

    1858年に欧米各国と締結した修好通商条約を総称して[  ]という。

    安政の五ヶ国条約

  • 15

    1858年の日米修好通商条約の締結後、幕府は条約批准のため、外国奉行の [  ]をワシントンに派遣した。

    新見正興

  • 16

    日米修好通商条約批准のために外国奉行を派遣する際、幕府の護衛艦として随行した[  ]が初めて太平洋の横断に成功した。

    咸臨丸

  • 17

    井伊直弼暗殺後の1960年代初頭に 老中に就任した安藤信正は、孝明天皇の妹[  ]を徳川家茂に降嫁させることで“公武合体”を実現しようとした。

    和宮

  • 18

    [  ]のあとに、 薩摩藩の実権を握る島津久光が勅使である大原重徳を伴って江戸に入り、勅命として幕府に“文久の改革”を訴えた。

    坂下門外の変

  • 19

    “文久の改革”では、雄藩が幕政に参画することや、参勤交代を3年に1回とすることなどが決まった。また、越前福井藩主の松平慶永は[  ]として幕政に参画することになった。

    政事総裁職

  • 20

    “文久の改革”を幕府に迫った薩摩藩の島津久光の一行は、薩摩から江戸に上る途中、京都伏見の[  ]で、有馬新七ら尊王攘夷派の薩摩藩士を粛清した。

    寺田屋

  • 21

    1858年に大老井伊直弼とアメリカ総領事ハリスとの間で日米修好冬約を結んだ。しかし幕府が[  ]の許を待たずに条約を締結したことが問題視された。

    孝明天皇

  • 22

    1858年から1859年にかけて、大老井伊直弼は吉田松陰や橋本左内、梅田雲浜、頼三樹三郎らを捕らえ、処罰した。この大粛清を[  ]と呼ぶ。

    安政の大獄

  • 23

    1860年の桜田門外の変で、井伊直弼が水戸藩の浪士らに暗殺されると、幕府は[  ]を老中に任命し、公武合体論を推進して権力の回復に努めた。

    安藤信正

  • 24

    老中安藤信正は、皇族の和宮を14代将軍の徳川家茂と結婚させたが、尊王派の反発を買い、1862年に起きた[  ]で水戸藩の浪士に襲われ負傷し、失脚した。

    坂下門外の変

  • 25

    1862年、薩摩藩の実権を握る[  ]が 勅使大原重徳を伴って江戸に入り、勅命として幕府に“文久の改革”を訴えた。

    島津久光

  • 26

    “文久の改革”では、雄藩が幕政に参画することや、参勤交代を3年に1回とすることなどが決まった。また、このとき会津藩主の松平容保は[  ]として幕政に参画することとなった。

    京都守護職

  • 27

    “文久の改革”を幕府に迫った薩摩藩の島津久光の一行は、江戸から薩摩に下る途中、翌1863年夏に鹿児島で始まった薩英戦争の原因となる[  ]を起こした。

    生麦事件

  • 28

    薩摩藩の藩是は[  ]である。

    公武合体論

  • 29

    薩英戦争があった1863年8月18日、薩摩藩と[  ]藩は連携して政変を企て、三条実美や沢宣嘉ら尊王攘夷論の急進派の公家を京都から追放した。

    会津

  • 30

    難王攘東論者の平野国臣は、都落ちをした公家の沢宣嘉を擁し1863年に乱を起こしたが失敗した。これを[  ]と呼ぶ。

    生野の変

  • 31

    1863年5月10日、幕府は長州藩や急進派公家の要求をいれて攘夷決行命令を出すが、同年8月18日、薩摩・会津による政変で[  ]や沢宣嘉ら急進派の“七卿”が京都を追放され、長州に逃れた。

    三条実美

  • 32

    1864年夏、長州藩は挙兵・上京し、京都で薩摩・会津・桑名の藩兵と交戦した。この戦乱を[  ]という。

    禁門の変

  • 33

    1864年、朝廷は幕府に長州藩への攻撃を許した(いわゆる“第一次長州征討”)。 長州藩は幕府に降伏・恭順するが、のちに藩士の[  ]らが“奇兵隊”を組織し、藩内には討幕指向の諸隊が割拠した。

    高杉晋作

  • 34

    1864年、長州藩では第一次長州征討が行われている最中に、アメリカ・イギリス・フランス・[  ]の四が国の艦隊によって下関が攻撃され、占領された。

    オランダ

  • 35

    下関を攻撃した四国連合艦隊は、1865年9月[  ]沖に進出し、各国との修好通商条約への勅許と[ ]の早期開港を求めた。これに対して日本側は、同年10月に条約勅許を出すが、[ ]の開港は再び延期した。

    兵庫

  • 36

    1866年、兵庫の開港延期と引き換えに、輸入税を平均20%から5%とする内容の[  ]に調印した。

    改税約書

  • 37

    1866年、[  ]藩出身の坂本竜馬らの仲介で“薩長同盟”の密約が成った。

    土佐

  • 38

    いわゆる“第二次長州征計”の最中に急死した[  ]に代わって15代将軍に就任した徳川慶喜は、1867年10月14日、京都の二条城で“大政奉還”を上奏した 。

    徳川家茂

  • 39

    薩長同盟は1867年12月9日、“王政復古の大号令”を発し、総裁・議定・参与の三職の設置を決め、同日夜の[  ]では徳川慶喜の辞官納地を要求した。

    小御所会議

  • 40

    1868年1月から始まった戌辰戦争は、1869年5月の箱館戦争で[  ]が降伏して終結した。

    榎本武揚