問題一覧
1
アジアの大交易時代のインドの主要な輸出品は
綿布
2
アジアの大交易時代の東南アジアの主要な輸出品は
コメ, 砂糖, 香辛料
3
.交易の発達とともに中継地として発達した交易港と政治の場であることが一体化した政治空間
港市国家
4
マレー半島とスマトラ島を隔てる海峡に位置した上記3の代表的な王国は
マラッカ
5
中国の儀礼的な貿易の形態は
朝貢
6
15世紀から17世紀はアジアも大交易時代と呼ばれ、貿易が盛んに行われていたが、この交易に変化をもたらしたのはヨーロッパ勢力の登場であった。まず( 1)がやってきて(2)を占拠した。次に、(3)がやってきて(4)を占拠した。ヨーロッパ勢力は自国とアジアの間で貿易を行っていただけでなく、アジア域内やアジアとその他の地域の間で行われる貿易に従事した。このような貿易の代表は、フィリピンとメキシコの間の貿易で(5)貿易と呼ばれる。
ポルトガル, マラッカ, スペイン, マニラ, ガレオン
7
・17世紀にアジアの海で覇権を握ったのは、
オランダ東インド会社
8
航海がもつ② 性と③が世界で で初の株式会社である①の設立につながった。
長期, リスク
9
会社化により、長期的な視野での経営が可能になった①は、陸の支配に乗り出し、ジャワやスマトラで④ の栽培を開始した。これを行った制度は、 ⑤ 制度と呼ばれる。
コーヒー, 強制栽培
10
18世紀に入ると、イギリス東インド会社はプラッシーの戦いの功績に対し、ムガール 皇帝より① を授与され、インドの植民地支配を開始した。
ディーワーニー
11
東インド会社は数回の戦争を経て徐々にインドに領土を拡張し、その財政基盤を固めるために地租査定を行った。地租査定のやり方は時代により異なり、早くに植民地化されたベンガル地方では② 制、北西部では村ごとに地税が課された
ザミンダーリー
12
③ 制、比較的植民地化が遅かったマドラス地方では個々の 農民が土地所有者と認定される④ 制と呼ばれる方式で地租 査定が行われた。
マハールワーリー, ライヤートワーリー
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イギリスは地租査定により、インドの広大な土地をくまなく測量し、課税対象とする土地所有者の確定を行った。これにより、インドの在地社会は⑤ 体制(またはジャジマーニー制)と呼ばれる村の農民や職人が市場を介さずに生産物やサービスを分配するシステムから私的土地所有を基礎とする社会へと変化させられた。
ミーラース
14
イギリス東インド会社は、当初インドから(①)を輸入していたが、これが大ブームになり、本国で産業革命が起こると(①)は逆にインドへの輸出品となった。一方、新たな輸入品として、中国からの(②)が増大し、イギリスは大幅な赤字を負うようになそこでイギリスはインドで(③ )を購入して中国へ輸出することでインドに対 する黒字と中国に対する赤字を相殺した。
①綿布, ②茶, ③アヘン
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しかし当時、中国では(④)政策を採っており、自由な貿易を認めていなかった。そこでイギリスは中国に戦争を仕掛け、講和条約を結び、開港を迫った。このようにイギリスが自由貿易を求めて開港を迫り、それが経済的支配につながった思想をギャラハーとロビンソンは(⑤)主義と呼んだ。
海禁, 自由貿易帝国
16
欧米で産業革命が完了した19世紀の後半にはアジアの分割、植民地支配が一気に進行した。東南アジアにおいてイギリスが足掛かりにしたのは、1819年にラッフルズがスルタンと契約を結び建設した(① )であった。当初は人も少ない寂れた漁港であったが、イギリス支配ので貿易の結節点として成長し、現在では世界有数の金融都市となっている。(① )は、1826年にはペナン、マラッカと共に(② )と呼ばれる行政単位にまとめられた。
シンガポール, 海峡植民地
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その後、イギリスはマレー半島への関与をさらに強化し、現地の治安の悪化に介入、親英的なスルタンを選出し、スルタンに政治のアドバイスをする理事官(イギリス人が就く)という役職を認めさせる(③)条約を結び、保護国化する方法で植民地化を進めフランスやオランダも同様に東南アジアに進出し、複数回の長期にわたる戦争や条約を経て、フランスは現在のベトナム、ラオス、カンボジア地域を、オランダはインドネシアにあたる地帯を植民地化した。フランスの植民地をまとめて、日本語では略して( ④ )、オランダの植民地を日本語では略して(⑤)と呼んでいる。
パンコール, 仏印, 蘭印
18
9世紀後半には、スエズ運河が開通し、時開発されたばかりの(① )がアジアに及ぶと、投資の様相は急変した。東南アジアでもとりわけ投資額が大きかったのは( ② )で、東南アジアへ の直接投資の約6割が(②)に対して行われた。
海底電線, 蘭印
19
20世紀初頭の蘭印とフィリピンの主要輸出品は(③ )であり、フィリピンでは(④ )と呼ばれる大農園で栽培された。(④ )は独立後も長らく残存し、農地改革は近年まで課題であり続けてきた。蘭印におけるサトウキビ(甘蔗)栽培は強制栽培制度、後にはオランダ企業による半ば強制的な農地の借り上げによって行われ、農民に多大な犠牲を強いた。実証的には否定されているが、クリフォード・ギアツはこの時期のジャワの農民の適応方法を( ⑤ )と評した。
砂糖, アシエンダ, インボリューション
20
19世紀後半の植民地化が進んだ時期は、第一のグローバル化の時代であった。そのような中でマラヤは多民族国家となっていた。まず(①)系移民を引き付けたのはマラヤの錫鉱山だった。錫鉱山は20世紀には、アメリカの電気産業や( ② )産業の盛隆に より需要が高まり、マラヤは世界の1/3の錫を供給した。
華人, 自動車
21
③系移民労働者は、④(作物の名前)のプランテーションに向かった。プランテーションは経営代理店によって、経営されていたが、その中でも⑤社は現在はマレーシアを代表する地場企業になっている。
インド, ゴム, サイム・ダービー
22
東南アジア大陸部のデルタ地帯では、プランテーション地帯への食料供給地帯として、輸出用の( ① )の生産に特化するモノカルチャー経済が形成された。
コメ
23
この過程では植民地社会に様々な問題がもたらされた。例えば下ビルマでは農民が土地を喪失し、小作人や農業労働者に転落したことが問題になった。特に下ビルマでは、農民に対して厳しいとされる定額の小作料を納める制度ができ、これにより生存を脅かされた農民は反乱に立ち上がった。そのような農民の心性を( ② )は、(③)論とし て説明しようとした。
スコット, モラルエコノミー
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また英領下ではインドからの移民も増大し、経済的な役割が各民族ごとに担われ、一体性や共通の目標に欠ける社会が出現した。農民の憎悪の対象は移民に向けられ、社会問題は民族間対立として現れた。このような社会を、ビルマでキャリアをスタートした植民地官僚である(④)は、(⑤)と呼び、これはイギリス本国の植民地政策にも影響を与えた。
ファーニバル, 複合社会
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日本もイギリスと同様に、朝鮮、台湾の植民地支配の開始にあたっては、財源を確保し、在地の社会を資本主義に適合する体系に変更するために地租査定を行った。その際、台湾では重畳的な権利関係の処理が問題となったが(①)に所有権を認めた。
小祖戸
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19世紀、台湾の特産品は砂糖であり、勃興したばかりの日本の製糖業も政府に請われて進出した。1901年には三井物産を中心として資本を提供し、(② )が設立された。日本政府は、様々な方法で台湾における日本の製糖業を保護した。そのための政策の核となったのは(③)が提言した「糖業改良意見書」である。また(④)制度を設けて、工場の間で買い取り価格の競争が起こるのを防いだ。しかし第一次世界大戦後の1920年代には、蓬莱米の開発とも相まって米価が高騰し、米を植えるか、甘蔗を栽培するかという問題が発生した。この問題は、二択ではなくどちらも克服しなければという意味で⑤と呼ばれた
台湾製糖, 新渡戸稲造, 原料採取区域, 糖米相克
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この時期のアジアは、対欧米諸国との間だけではなく、アジア域内での貿易関係も緊密化させた。その一つの鍵となったのは日本の工業化であった。日本は(①)から綿花を輸入し、中国へ(②)を輸出した。日本が欧米との競争に勝ち、中国に( ② )を輸出できた理由の一つは、中国における(②)の(③)が欧米の製品とは異なっていたという事情が存在した。
インド, 綿糸, 使用価値
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こうした貿易関係は後方連関効果を持ち、東南アジアはインドへ(④)や砂糖を、インドは東南アジアへ(⑤)や綿布の輸出を拡大した。アジア間貿易の拡大を支えた要因は、アジア的商品の(⑥)化であった。
米, ジュート, 大衆消費