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世界史 後期①考査 Part2 五代十国〜モンゴル帝国
  • ギル

  • 問題数 90 • 10/10/2023

    問題一覧

  • 1

    五代の後唐の都はどこに置かれていたか

    洛陽

  • 2

    遼王朝を建てた、遼河上流域に居住していたモンゴル系遊牧狩猟民をなんというか

    契丹(キタイ)

  • 3

    926年に渤海を滅ぼし、936年に後晋の建国を助けた代わりに燕雲十六州を獲得し、華北の一部をも領有した、契丹人がモンゴル東部から中国東北地方に建てた王朝とは何か

  • 4

    <ゴミ問> 遼の都はどこに置かれていたか

    上京臨潢府(じょうけいりんこうふ)

  • 5

    926年にら渤海国を滅ぼしたが、帰国途上に病死した、遼の創建者・初代皇帝は誰か

    耶律阿保機(太祖)

  • 6

    936年に契丹が後晋の建国を援助した報酬としてこれらの地域を獲得した、現在の北京・大同などの長城付近地域をなんというか

    燕雲十六州

  • 7

    主な内容は宋兄遼弟の関係とすること、宋が遼に毎年銀・絹などの歳幣を送ることなどがある、1004年に宋と遼が結んだ和議をなんというか

    澶淵の盟

  • 8

    北面官が部族制で遊牧民を、南面官が中国的な州県制で農耕民をそれぞれ統治する、遊牧民と農耕民とを分けて統治した遼や金の国家体制をなんというか

    二重統治体制

  • 9

    1132年に遼の王族の耶律大石が中央アジアに建てた国をなんというか

    西遼(カラ=キタイ)

  • 10

    遼の滅亡直前にモンゴルで自立して王を称し、遊牧民を率いて西進し、1132年に中央アジアで西遼を建国した、遼の王族で西遼の建国者は誰か

    耶律大石

  • 11

    遼の二重統治体制下で、軍政と遊牧民の民籍を担った官庁及び官吏をなんというか

    北面官

  • 12

    遼の二重統治体制下で農耕民の民政を担った官庁および官吏をなんというか

    南面官

  • 13

    華北に進出した金に服属しながら中継貿易で栄え、仏教文化を基調とする独自の文化を発達させたが、1227年チンギス=ハンに滅ぼされた、オルドス地方を中心にチベット系タングート族が建てた国をなんというか

    西夏

  • 14

    西夏の都はどこに置かれていたか

    興慶府

  • 15

    父の死後、1032年に平西王を継ぎ、官制や兵制を整え、西夏文字を制定した、西夏の初代皇帝は誰か

    李元昊

  • 16

    主な内容は北宋を君、西夏を臣とし、北宋が歳賜(さいし)として、毎年銀・絹・茶を西夏に贈るというものであった、1044年に北宋と西夏の間で結ばれた和約をなんというか

    慶暦の和約

  • 17

    1125年に遼を、27年に北宋を滅ぼし、南宋から臣下の礼と歳幣を受けたが、やがて漢化に伴う女真族の弱体化と財政悪化が進むなか、1234年にモンゴルと南宋の攻撃を受けて滅んだ、ツングース系女真族の王朝とは何か

  • 18

    金の遷都前の都と遷都後の都はそれぞれどこに置かれていたか

    会寧府→燕京

  • 19

    1115年に皇帝を称して金を建国し、猛安・謀克の編制や女真文字を制定したが、遼の天祚帝(てんそてい)を追討する途中に病死した、金の初代皇帝とは誰か

    完顔阿骨打(太祖)

  • 20

    二元制度の一つで女真族や契丹人に適用された、金の行政・軍事組織及びその長官名とは何か

    猛安・謀克

  • 21

    7世紀にソンツェン=ガンポがチベットの諸王国を統一して建国し、安史の乱の際には一時長安を占領した、7〜9世紀のチベット古代王朝に対する中国名とは何か

    吐蕃

  • 22

    7世紀にラサに進出してチベットを統一して、インド・中国の仏教文化を導入して国の基礎を作り、チベット文字を制定した吐蕃の建国者は誰か

    ソンツェン=ガンポ

  • 23

    五代十国の混乱を統一し、元のフビライに滅ぼされるまでの中国王朝をなんというか

  • 24

    宋の都はどこに置かれていたか

    開封(汴京)

  • 25

    部下に推されて即位し、中国統一を進め、文人官僚制など君主独裁、中央集権化を推進して、宋の政治体制の基礎を築いた、宋の建国者・初代皇帝は誰か

    趙匡胤(太祖)

  • 26

    趙匡胤の弟で、979年に全国統一を完成し、節度使の行政権を取りあげ、文官による州県支配で中央集権化を確立した、北宋の第2代皇帝は誰か

    太宗

  • 27

    皇帝を師、上位合格者をその門下生とみなすことで君主権が強化されることを目指し趙匡胤が導入した、省試合格者に対して皇帝自ら行った科挙の最終試験をなんというか

    殿試

  • 28

    武力によらず、儀礼・法制・教化によって社会の安定を維持しようとする政治をなんというか

    文治主義

  • 29

    宋(北宋)の皇帝直属軍(近衛軍)で、枢密院の管轄下にあった軍隊をなんというか

    禁軍

  • 30

    宋代に禁軍を管轄していた軍事機関をなんというか

    枢密院

  • 31

    唐末から大地主として勢力をのばした新興の富農・有力官人階層をなんというか

    形勢戸

  • 32

    収穫物の半分を小作料として地主に納めた中国の小作人をなんというか

    佃戸

  • 33

    王安石を登用して新法により、官僚の過剰や軍事費増大などで悪化した財政の回復をはかった、北宋の第6代皇帝は誰か

    神宗

  • 34

    文人としては唐宋八大家の一人に数えられる、神宗の下で1070年ごろから新法による改革を実行したが、保守派官僚の反対もあり、宰相辞任後に改革は瓦解した、北宋の政治家・文人は誰か

    王安石

  • 35

    王安石の改革のうち、貧農救済を目的とした植え付け時の金銭や穀物の低利貸し付け策をなんというか

    青苗法

  • 36

    王安石の改革のうち、中小商人への低利融資策をなんというか

    市易法

  • 37

    王安石の改革のうち、物価の安定と物資の流通円滑化を目的とした、政府による買い上げ及び転売策をなんというか

    均輸法

  • 38

    王安石の改革のうち、農民に対する労役を免除する代わりに免役銭を納めさせ、それをもとに労役に従事するものを募集した政策をなんというか

    募役法

  • 39

    王安石の改革のうち、傭兵制にかわる兵農一致の強兵策をなんというか

    保甲法

  • 40

    王安石の改革のうち、軍馬の不足を補い、財政負担を少なくするために農家に馬と馬料を与えて飼育させ、平時の使役を許し、戦時に徴発した政策をなんというか

    保馬法

  • 41

    北宋で王安石の改革を支持した政治勢力をなんというか

    新法党

  • 42

    司馬光らを中心とした王安石の改革に反対した保守派勢力をなんというか

    旧法党

  • 43

    英宗の命で史書『資治通鑑(しじつがん)』を編纂し、王安石の辞職後、宰相に就任し王安石の改革を悉く廃した、北宋の政治家・学者は誰か

    司馬光

  • 44

    宋が金と連携して遼を滅ぼしたあと、宋の違約を理由に金軍が攻め入り、徽宗や欽宗など3000人余りが捕虜となった、金が2度開封を攻撃し、北宋が滅んだ出来事をなんというか

    靖康の変

  • 45

    政治面では王安石の新法を推進し、金と遼を挟撃し、その後靖康の変で欽宗に譲位して退避したが、他の皇族とともに金の捕虜となった、北宋の第8代皇帝は誰か

    徽宗

  • 46

    金軍の開封攻撃直前に徽宗から譲位され、1127年、徽宗らと共に金の捕虜となった北宋の最後の皇帝は誰か

    欽宗

  • 47

    文治主義を採用し、科挙制の確立によって中央集権的な君主独裁体制を構築したが、1127年、金によって開封を追われた、趙匡胤による建国から靖康の変で一時滅びるまでの宋朝をなんというか

    北宋

  • 48

    経済が発展し、儒学では宋学が朱熹により体系化された、靖康の変の直後、高宗が江南に再建した宋朝をなんというか

    南宋

  • 49

    欽宗の弟で、靖康の変のとき拉致を逃れて南京で即位し、淮河を境界として金の進出を食い止め、1142年に紹興の和議を成立させた南宋の初代皇帝は誰か

    高宗

  • 50

    南宋の都はどこに置かれていたか

    臨安

  • 51

    和平派の中心として1142年に紹興の和議を成立させたが、主戦派から金に対する臣下の礼を激しく批判され、死後売国奴とみなされた、南宋の政治家は誰か

    秦檜

  • 52

    宋の再建を志し、高宗らと淮河の線で金の進出を食い止めたが、主戦派の中心として秦檜に弾圧され獄死した南宋の武将は誰か

    岳飛

  • 53

    主な内容は、淮河を国境とし、南宋が毎年歳幣として銀・絹を金に贈ることなどであった、1142年に南宋と金との間で結ばれた和議をなんというか

    紹興の和議

  • 54

    13世紀はじめにモンゴル全部族を統一し、ホラズムを攻略して中央アジアに領域を広げ世界帝国の礎を築いたが、西夏征服の途中で病没した、モンゴル帝国の建国者は誰か

    チンギス=ハン(テムジン、成吉思汗)

  • 55

    帝国各地から王族や貴族が招集され、君主の推戴や対外戦争などの重大事を協議・決定した、モンゴル帝国の最高議決機関をなんというか

    クリルタイ

  • 56

    13世紀初めチンギス=ハンによって創建され、ユーラシアの東西に広がった世界帝国をなんというか

    モンゴル帝国

  • 57

    チンギス=ハンの血統者のみが名乗ることができるとされた、従来遊牧民が用いていた君主の称号であるカガン(可汗)に由来する語をなんというか

    ハン(カン)

  • 58

    1204年にテムジンに敗れた際に、王子が中央アジアに逃れて西遼を乗っとったが、1218年にチンギス=ハンの派遣軍に滅ぼされたアルタイ山脈付近に王国を築いていた遊牧系トルコ部族をなんというか

    ナイマン

  • 59

    セルジューク朝のトルコ人奴隷が建て、13世紀初めに全盛期を迎えたが、モンゴルの使節を殺害したため1220年にチンギス=ハンの侵攻を受けその後滅亡した、アム川下流に成立したトルコ系イスラーム王朝をなんというか

    ホラズム=シャー朝

  • 60

    1234年に金を滅ぼし、その後首都カラコルムの建設、駅伝制の整備、中央行政機構の創設など帝国の基礎を整えた、チンギス=ハンの第3子でモンゴル帝国第2代皇帝は誰か

    オゴタイ(オゴデイ)

  • 61

    オゴタイの命で建造され、帝国の首都として繁栄したモンゴル帝国の都はどこか

    カラコルム

  • 62

    チンギス=ハンの長子ジュチの次子で、1242年、ハンガリーでオゴタイの訃報に接し引き返す途中、ジュチ家一門と共に南ロシアにとどまりキプチャク=ハン国を建てた、モンゴルのヨーロッパ遠征の総司令官は誰か

    バトゥ

  • 63

    1242年、現ポーランド領のリーグニッツ近郊でバトゥ率いるモンゴル軍がドイツ・ポーランド連合軍を破った戦いをなんというか

    ワールシュタットの戦い

  • 64

    バトゥの後押しとトゥルイ家の軍事力を背景に即位し、即位後フラグに西アジア遠征を命じ、オゴタイ家とチャガタイ家を厳しく弾圧して帝国再編をはかった、モンゴル帝国第4代皇帝は誰か

    モンケ(憲宗)

  • 65

    土地や領域といった側面は薄く、人間の集団が国を意味していた、ユーラシア中央部に位置していた遊牧民を中心とする国家を指すモンゴル語をなんというか

    ウルス

  • 66

    モンケの命で西アジア遠征を行い、1258年にバグダードを陥落させアッバース朝を滅ぼし、西アジアにイル=ハン国を建てた、イル=ハン国の初代君主は誰か

    フラグ

  • 67

    首都をタブリーズに置き、元朝を宗主と認めていたが、ハン位争いと有力貴族の専横などで衰え、1353年にチンギス=ハンの王統が途絶えた、フラグがイラン高原に建てた国とは何か

    イル=ハン国(フラグ=ウルス)

  • 68

    イル=ハン国の都はどこか

    タブリーズ

  • 69

    ロシア諸侯国を支配し、イスラーム文化が盛んであったが、ティムールの攻撃やモスクワ大公国の自立などにより衰退して、クリム=ハン国の攻撃を受け滅亡した、バトゥが南ロシアに建てた国をなんというか

    キプチャク=ハン国(ジョチ=ウルス)

  • 70

    キプチャク=ハン国の都はどこか

    サライ

  • 71

    ネストリウス派を信仰するも早くからイスラーム化し、14世紀半ばに東西に分裂したあと、西部から自立したティムールによって滅亡した、都をアルマリクに成立した国をなんというか

    チャガタイ=ハン国(チャガタイ=ウルス)

  • 72

    チャガタイ=ハン国の都はどこか

    アルマリク

  • 73

    フビライの即位に反対し、不満勢力を糾合して中央アジアで自立した、オゴタイの孫をなんというか

    ハイドゥ

  • 74

    フビライの即位とオゴタイ家弾圧に反対して起こった内紛をなんというか

    ハイドゥの乱

  • 75

    モンケの死後即位し、1276年に南宋を滅ぼし中国統一を完成し、高麗や東南アジア、日本などに遠征軍を派遣した、モンゴル帝国第5代皇帝で元の初代皇帝は誰か

    フビライ=ハン

  • 76

    1264年にフビライ=ハンによって遷都されて置かれた元の首都はどこか

    大都

  • 77

    次の図はモンゴル人第一主義の階級を表した図である。空欄に当てはまる語句を上から順に答えよ

    モンゴル人、色目人、漢人、南人

  • 78

    モンゴル帝国でチンギス=ハンが導入した、支配地域の主要街道に一定の距離ごとに宿駅を設け、宿泊施設や交通手段を提供した制度をなんというか

    駅伝制(ジャムチ制)

  • 79

    モンゴル人の間接支配がロシアの発展を遅らせたというロシア人の後世の主張でもある、キプチャク=ハン国によるロシア諸侯の支配を例えた言葉をなんというか

    タタールのくびき

  • 80

    納税や俸給、軍事調達などに使用されていた、元で基本通貨である銀の補助通貨として使われた紙幣をなんというか

    交鈔

  • 81

    寺院の建立や仏事供養にかかった莫大な費用は元の財政難の一因になった、元の下で保護されて栄えた大乗仏教をなんというか

    チベット仏教(ラマ教)

  • 82

    1351年〜66年にかけて起こった、元末に白蓮教などの宗教結社がおこした農民反乱をなんというか

    紅巾の乱

  • 83

    元末に弥勒仏(みろくぶつ)が救世主としてあらわれるという下生信仰と結びつき紅巾の乱を起こした、仏教色の強い中国民間の宗教結社をなんというか

    白蓮教

  • 84

    貧農出身の流浪僧であったが、黄巾の乱に参加して頭角をあらわし、群雄を抑えて南京で帝位につき明を建国し、漢・唐王朝への復帰を掲げて皇帝独裁体制を強化していった、明の初代皇帝は誰か

    朱元璋(洪武帝、太祖)

  • 85

    1274年に日本に来攻した元との一度目の戦いをなんというか

    文永の役

  • 86

    初め東路軍が対馬、壱岐を侵し、のちに江南軍と合して博多湾に侵入したが、暴風雨と幕府軍の反撃によって敗退した、1281年に日本に来攻した元との二度目の戦いをなんというか

    弘安の役

  • 87

    朱全忠が建国した、五代最初の王朝は何か

    後梁

  • 88

    後唐末の後継争いで、石敬瑭が契丹の協力を得て、汴京に都を定めた、五代3番目の王朝は何か

    後晋

  • 89

    後漢の節度使、郭威(かくい)が汴州に都を定め、第2代の世宗は対外積極策・禁軍改革などで版図を拡大した、五代最後の王朝とは何か

    後周

  • 90

    五代のうち後唐以外の王朝の都はどこに置かれたか

    汴州(べんしゅう)