問題一覧
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1.(イ) (1315-1358):百年戦争期のパリ市長。ジャクリーと結託して王権に対して反乱を起こした。当時の市長は商人会頭が務める習わしとなっており、「たゆたえども沈まず」という市の標語とあわせて、(ロ)河の水運業で栄えた同市の成り立ちを物語っている。
エティエンヌ・マルセル, セーヌ
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2. (ハ) (1781-1869):七月王政期のセーヌ県知事。国王ルイ·フィリップの命を受けて1832年のコレラ流行の直後に知事に就任し、公衆衛生の改善に努めた。彼の任期中、エトワール広場の凱旋門やコンコルド広場のオベリスクといった記念建造物の設営が進んだ。
ランビュトー
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3. (ニ) (1808-1873):フランス最初の大統領にして最後の君主。ウジェニー·ド·モンティジョを皇后に迎える際、 「私はよく知らない女性よりも、私が愛し、尊敬できる女性を望む」と述べた逸話で知られる。1852年12月2日の皇帝即位後、セーヌ県知事に(ホ)を起用してパリ大改造の礎を築いた。
ナポレオン3世, ウジェーヌ・オスマン
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4. (ホ) (1809-1891): 第二帝政期におけるセーヌ県知事。パリ大改造において練腕を振るう。エミール・ゾラ『パリの胃袋』の舞台にもなった中央市場の設計に際して建築家(へ)を起用し、鋳鉄とガラスから成る建築様式を実現させた。この中央市場の遺構は今日、横浜·山手にある港の見える丘公園の「フランス山」と称される区域に移築され、「パビリオン·(ヘ)」と名付けられている。
ウジェーヌ・オスマン, バルタール
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5. (ト) (1814-1879): 建築家。 ヴェズレーやカルカソンヌといった中世都市の修復で名をあげる。シテ島のゴシック建築である(チ)大聖堂を修復した際、独自解釈による尖塔の復元が物議を醸した。なお、この修復は文豪(リ)の手による(チ)大聖堂に取材し た作品が契機となったものである。(ト)の後世への影響としては、例えばアール·ヌーヴォー様式によるメトロ駅入口の装飾を手掛けた人物として知られる(ヌ)も彼の建築理論を参照していた。また、建築家(ル)は彼をして「近代建築のルーツはフランスで あり、(ト)にある」と評した。
ヴィオレ・ル・デュク, ノートルダム, ヴィクトル・ユゴー, エクトール・ギマール, ル・コルビュジエ
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6.(ヲ)(1819-1880): 第二帝政時代に活躍した作曲家。『地獄のオルフェ』『パリの生活』といったリュドヴィク·アレヴィの手によるリブレットに曲を付し、オペラ·ブッファ(オペレッタ)と呼ばれる新しい舞合芸術の様式を確立した。彼が次々に発表するオベラ·ブッファの作品は第二帝政下、万国博覧会に沸く大衆の人気を博した。
ジャック・オッフェンバック
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7.(ル) (1887-1965):本名シャルル=エドゥアール·ジャヌレ近代建築の祖とされる。当初は画家として、キュビスムを刷新する芸術運動である(ワ)を提唱したが、次第に建築へと活動の中心を移す。駆け出しの頃、シャルル・モニエやフランソワ・エヌビックと並び鉄筋コンクリートの実用化に貢献した(カ)の事務所に時所属している。サヴォワ邸のような実作だけでなく都市計画の分野においても積極的に活動し、高層建築と歩車分離を通じて都市機能を改良する「輝く都市」の構想に基づき、 パリ都心部を改造する(ヨ)計画を提唱した。
ル・コルビュジエ, ピュリスム, オーギュスト・ペレ, ヴォワザン
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8. (タ)(1880-1918):前衛的な作風で知られる詩人。詩行で図形を描く「カリグラム」のような実験的な作品を多く残した。同時代に活躍した画家の(レ)とー時恋仲にあり、彼女との別れの後に書かれた「ミラボー橋」は十音節詩句の代表作とされる。この詩は後にレオ·フェレが曲を付し、今日まで歌われている。「ミラボー橋の下をセーヌ河が流れ、われ、 らの恋が流れる」という堀口大による訳詞も有名である。
ギヨーム・アポリネール, マリー・ローランサン
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(ソ) (1977-): 現職の共和国大統領。2017年に39歳の若さで就任する。経済の規制緩和を強権的に推進したことが国民の不満を招き、 2018年にはガソリン価格高騰を発端とする(ツ)運動が勃発した。
エマニュエル・マクロン, 黄色いベスト
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(ネ) (1959-):現職のパリ市長。社会党所属。1977年に初代市長に就任した(ナ)から数えて4代目であり、初の女性市長。市内の緑化や自転車専用道の設置といった環境政策を積極的に推進している。
アンヌ・イダルゴ, ジャック・シラク
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(ラ):ルーヴル宮の北側に隣接する旧王宮。オルレアン公による所有後、1780年にフィリップ·エガリテ(平等公)が中座や回廊の開発を行ったことで、劇場やレストランなどが軒を連ねる繁華街となった。
パレ=ロワイヤル
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イタリア座大通り:(ラ)に代わって1830年前後からパリの繁華街の中心となった(ム)の一角に所在する通り。格式の高い「ユニオン」や、馬主協会を母体とする「(ウ)」といったセルクルが軒を連ね、ダンディスムを標務する名士たちの社交場となった。
パレ=ロワイヤル, グラン・ブルヴァール, ジョッキー・クラブ
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タンプル城外区: (ム)の東端に所在するタンプル大通りの外側にある民衆街区。(ム)と(キ)の壁に挟まれた地区は「城街区」と呼ばれ、とりわけ市内東側は民衆層の居住が進んだ。19世紀前半、(キ)の壁の外側には(ノ)と呼ばれる安価な飲食店が点在し、ここで週末に痛飲した庶民たちが翌週の頭も仕事を無断で休む(オ)という習慣が存在した。
グラン・ブルヴァール, 徴税請負人, 関の酒場, 聖月曜日
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ペール・ラシェーズ墓地:市内東部、ベルヴィルやサンタントワーヌ城街区といった民衆街区の付近に位置する墓地。ショパンや(タ)といった著名な芸術家もここに眠っている。1871年に勃発した民衆暴動である(ク)において最後の激戦区となった場所でもある。この出来事の後、人々は故人への感傷を、(ヤ)が1868年に作詩した「(マ)」というシャンソンに託して歌い続けた。
ギヨーム・アポリネール, パリ・コミューン, ジャン=バティスト・クレマン, さくらんぼの実る頃
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(ケ):ブシコー夫妻が創業した初の百貨店(デパート)。フランス革命後に発展した新物店を母体とし、購買欲を刺激する販売手法によって消費社会の発展を促した。
ボン・マルシェ
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(フ)塔: 1889年の万国博覧会に際して会場となったシャン=ド=マルスに建進された鋳鉄製の塔。(タ)はこの塔に取材したカリグラムも残している。
エッフェル, ギヨーム・アポリネール
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(コ):パリの北端に位置し、19世紀末より繋華街の中心となった地区。丘の上に建造されたサクレ=クール寺院を中心に、 ロドルフ・サリスが経営する個性的なキャバレーである(エ)や、赤い風車を目印とし、フレンチ・カンカンなどの見世物で好評を博した(テ)などが店を構えた。この地に集った若い芸術家たちは「(ア)」と名付けられたアトリエに共同で居住した。(コ)が栄えた時代は「(サ)」と呼ばれ、19/20世紀転換期に相当する。この時代、「緑の妖精」とも呼ばれた(キ)などのような粗悪なアルコールによる風紀の乱れが社会問題化した。
モンマルトル, シャ・ノワール, ムーラン・ルージュ, 洗濯船, ベル・エポック, アブサン
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(ユ):「狂騒の時代」と呼ばれた1920年代、(コ)に代わってパリの繁華街となる。この街区の中心である(メ)交差点には、ル·ドームやラ·クポール、 ラ·ロトンドといったカフェが軒を連ね、若い芸術家たちの溜まり場となった。その中には、30歳の若さでパリに客死した佐伯祐三や、パリの画壇で「フーフー(Foufou)」と練名された(ミ)のような日本人画家も含まれる。
モンパルナス, モンマルトル, ヴァヴァン, 藤田嗣治
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(シ)宮:1937年の万国博覧会に際してトロカデロ宮の跡地に造られた(ヱ)様式の建築。この様式は1925年の国際博覧会を機に流行したもので、 優美で幾何学的な装飾様式を特徴とする。(シ)宮はセーヌ河を挟んで(フ)塔の対岸に位置することから、(フ)塔を望む最高の立地として今日までパリ有数の観光名所であり続けている。
シャイヨ, アール・デコ, エッフェル
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(ヒ)の城壁:1841年に市防衛の目的から建造が進む。1860年にはこの市壁に沿う形で市域が拡張され、行政区画が従来の12区から新たに(モ)区へと再編された。1919年より解体が進み、跡地にHBMと呼ばれる低廉住宅や、 留学生寮地区である(セ)、 ペリフェリックと呼ばれる外郭高速道路などの建設が進んだ。
ティエール, 20, 国際大学都市
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(ス):二次大戦後、パリの西郊外に開発されたビジネス·金融の中心地区。フランソワ·ミッテラン政権下で実施されたパリ改造計画である(白)に際して、1989年、フランス革命200周年を記念する趣旨から、この地区に(發)が建設された。なお同年、(白)に基づき、(中)美術館の中庭にイオ·ミン·ペイの設計によるガラス製のピラミッドが建設されている。
ラ・デファンス地区, グラン・プロジェ, グラン・ダルシュ, ルーヴル