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中忍
  • 加藤拓也

  • 問題数 94 • 6/3/2024

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  • 1

    忍者は、〔恐れ・侮り・考えすぎ〕の三つの病に注意する事。何事にも影響されない鉄壁の心が必要とされる。その心とは何か。

    不動心

  • 2

    風魔忍者独特の「居すぐり 立ちすぐり」を使ったとされる合戦の名前は何か。

    黄瀬川の戦い

  • 3

    万川集海によると肥松・二十匁、抹茶・二匁、鼠糞・六匁、硝・百匁、硫黄・四十匁、樟脳・九匁五分、艾葉・十二匁、麻灰・十匁、松脂・六匁を粉末にして麻油で練り、竹筒に込め、筒をできる限り薄く削り、茶糊で貼り、火口に火を付ける。火器はどれか。

    卯花月夜の方

  • 4

    「志能便」と呼ばれる諜報員を使ったと言われる聖徳太子が、物部軍に追われて逃げて来た時に、杉原斎入という人物に匿われた との言い伝えがあるのは甲賀市の何処か。

    馬杉

  • 5

    真田太平記に書かれていることだが、武田軍を見限り、甲賀衆を一斉に撤退させようと命じられたが、信玄の魅力に魅かれ甲賀には帰郷せず寝返った者がいたが、その者の名は次の内どれか。

    馬杉市蔵

  • 6

    戦国時代、戦乱に荒れた全国の地域の中で、甲賀の地は比較的安泰で豊かであった。戦国末期から江戸時代初期にかけて多くの文化財が甲賀から流出していった。では甲賀から移設されたものでないのは次の内どれか。

    高野山根本大塔

  • 7

    忍術書「万川集海」の巻第1「序」には、兵は国にとって大事(重要)で、その「行く末」を決める道でもあると説いているが、この「行く末」という意味を実際の萬川集海ではどのような記述となっているか。

    死生存亡

  • 8

    甲賀の多くの部分は250万年前の古琵琶湖の湖底に堆積した粘土層に覆われている。隆起・浸食を受けてここに形成された浅い谷山を繰り返す地形を何と云うか。甲賀盆地と伊賀盆地をつなげる低い山々にそれを見ることが出来る。

    無従谷

  • 9

    昔の犬は番犬であり、忍者はとにかく吠えられて困った。「正忍記」には、犬のいる家に潜入の時は二三日前に焼飯一個にある物一分(0.37グラム)を混ぜて、犬の来そうな所に何個も撒いておくとある。このある物とは何と呼ばれているか。

    馬銭子

  • 10

    家康の軍師でもあった小笠原昨雲の著書『軍法侍用集』は刊行されたのは承応2年(1653)であるが元和4年(1618)頃には成立していたとされ、窃盗(しのび)に関する章も設けられ、いわゆる忍術三大秘書より古い忍術資料である。では、この中で「忍びに遣わすべき人=才覚ある人」の条件に挙げていないのはどれか。

    心正しき人

  • 11

    甲賀53家の一つで、織田信長に従い本能寺の変で討死したが、その遺児資則は安土城下に移住して、天正14年(1586)豊臣秀次が八幡山に城を築いた時に八幡に移り、刀剣を捨てて商人となった。では、本能寺の変で信長と共に討死したのは次の内誰か。

    伴太郎左衛門

  • 12

    万川集海では忍び上手として十一名の名が挙げられているが、野村の大炊孫大夫、新堂の小太郎、楯岡の道順、下柘植の木猿と小猿、上野の左、山田の八右衛門、神部の小南、音羽の城戸、甲山太郎四郎と○○○○○である。それは次の内どれか。

    太郎左衛門

  • 13

    近江守護の六角高頼によって寺社領の横領が進んでいた。そのため長享元年(1487)室町幕府の将軍足利義尚による六角氏征伐が行われた。この時、六角氏に加勢した甲賀衆の働きになどにより幕府軍は撤退を余儀なくされた。では、室町将軍が陣を張ったところは今は寺となっているが何という寺か。

    永正寺

  • 14

    軍法侍用集「第14窃盗に三のしるしといふ事」には、忍びには名しるし、道しるし、(  )しるし の三つのしるしがあると書かれている。走る者等を尋ねるとき、このしるしにはこぬかを撒くべし とされるが、(  )の中に入る言葉は次の内どれか。

    見付け

  • 15

    甲賀市には、国史跡として指定されているものが4件ある。それらは、紫香楽宮跡・垂水斎王頓宮・水口岡山城跡と、もう1件は何か。

    甲賀郡中惣遺跡群

  • 16

    甲賀では足利政権時代に幾人もの武将・将軍までもが逃亡生活を送った。甲賀者はただ匿うだけでなく加勢して政治的、武力的に京に凱旋させた武将がいる。足利将軍も二人いるが、足利義昭ともう一人は誰か。

    足利義植

  • 17

    甲賀三郎伝説で知られる、甲賀三郎兼家は、ある戦いで武功を挙げ、朝命により甲賀16村を贈られ赴任し、甲賀望月氏を興したが、そのきっかけとなったある戦いとは次の内どれか。

    承平の乱

  • 18

    能では観阿弥・世阿弥父子、華道の能阿弥、藝阿弥、銀閣寺の築庭を担当したと云う河原者、善阿弥などの同朋衆がいた。彼らは状況に応じて乱破、素破などの忍者もどきの情報活動をしていた。では、俗説に拠れば徳阿弥と称した祖父を持つと云われている武将は次の内誰か。

    徳川家康

  • 19

    甲賀武士山中氏は山中両惣領家が成立する以前は、山内村山中に居住していた。では、山中氏の先祖は山内村で何の任を任されていたか。

    鈴鹿山盗賊追補

  • 20

    神習文庫にある「伊賀路のしるべ」という冊子によれば、天正10年(1582)から34年に亘って家康が抱えた伊賀忍者は12回の合戦に参加した。延べ200人の伊賀組の内、討ち死にした忍者大体何%であったか。

    40%

  • 21

    甲賀郡志に、甲賀53家のうち、三雲、和田、隠岐、池田、青木、山中の六家は大身なる故、常にある城を固め合戦では一手の大将の軍代を務めるとある。ではその守り固めた城とは次のうちどれか。

    観音寺城

  • 22

    江戸幕府への嘆願書「寛政元年甲賀古士訴願」にも見られるように、上野八左衛門家は実質、甲賀古士惣代の地位にあった。この上野家は、甲賀伴家の流れを汲む伴四党の内の一家である。伴四党とは、伴・大原・上野ともう一つは何家か。

    多喜

  • 23

    本能寺の変直後、徳川家康が三河へ帰る際に、甲賀と伊賀の忍者が援護したおかげで家康は無事帰ることが出来た。家康はその恩に報いるため、伊賀棟梁服部半蔵には8千石与えたが、甲賀の棟梁山岡道阿弥にも旗本として知行を与えた。その額は如何ほどか。

    9千石

  • 24

    慶長5年(1600)上杉征伐のため徳川家康が大阪を出発し石部にさしかかった時、豊臣家臣水口岡山城主長束正家による家康暗殺計画を察知し、その危機を救った甲賀者は篠山理兵衛だが、その墓はどこにあるか。

    甲賀・多聞寺

  • 25

    甲賀忍者の修行の場であった飯道山の山頂に、慶長6年(1601)に隠居してこの山にきた「木食応其上人」(近江出身)の入定窟がある。ま 毎年秋に紫橙護摩を焚き法要が営まれる。では、応其上人は何処から隠居してこの山にきたのか。

    高野山

  • 26

    白洲正子ご近江山河抄で「秘境めく」と紹介し、松尾芭蕉が「山陰は 山伏村のひとかまえ」と詠んだ、江戸時代には大勢が山伏であったと言われる村は次のうちどれか。

    甲南町磯尾

  • 27

    慶長10年(1605)伊賀組同心達が幕府に対して、待遇改善と2代目伊賀組頭服部正就の罷免を要求して立て篭ったのは何処か。

    笹寺

  • 28

    「萬川集海」のはじめに述べられていることであるが、忍者にとって一番肝心な精神は何か、次の内から選べ。

    正心

  • 29

    中世の甲賀武士・甲賀忍者の心の一部に必ず神社が存在したという。甲賀忍者が多く誕生したと云われるのが、近江国甲賀郡の中でも杣谷とも呼ばれた杣川の流域である。では次の神社の内杣谷に存在しない神社はどれか

    田村神社

  • 30

    中国の兵法書「孫子」は、我が国の忍術書に影響を与えているところもみられる。その「孫子」の用間篇で、「間を用いるに五有り」と五種の間諜を駆使して、敵の実情を探知することを説いているが、それらは、因間・内間・反間・死間・ともう一つはなにか。

    生間

  • 31

    中世の飯道山には元々天台宗系の寺院が多かったが、そこへ真言宗系の正大先達寺院が進出して修験道の研修道場としての地位が強まった。それは次の内どの寺院か。

    梅本院

  • 32

    元亀元年(1570)、浅井長政の裏切りでボロボロになった信長軍は、一旦引き上げた京都から体制を立て直しの為に岐阜に戻った。その途中の鈴鹿山中千草峠で鉄砲の名手と言われた甲賀者杉谷善住坊に狙撃された。この善住坊を扇動して狙撃させたのは誰と云われているか。

    六角承禎

  • 33

    甲賀忍びの衆を名高くしたのは、室町将軍が近江へ侵攻した鈎の陣で非常な活躍があり、これを日本国中の兵達が見聞していたため、以来その名誉は国中に喧伝された。この時に使われた戦術は近江六角氏の秘軍法である亀六の法を甲賀衆に伝授したものであるとの記述がされている文書の名は何か。

    淡海温故録

  • 34

    甲賀忍者と尾張藩の関係は、山伏出身の甲賀者、木村奥之助が延宝7年(1679)に甲賀の修験者5人をスカウトし尾張藩に召し抱えられたことに始まる。奥之助は「甲賀忍之傳未來記」で将来の忍者の行く末を心配している。次の内、奥之助が心配していることでないのはどれか。

    甲賀忍者の不祥事が多い

  • 35

    天正13年(1585)大田城水攻めの際、担当した堤防工事の失敗を理由に、多くの甲賀武士が秀吉よって改易(取り壊し)されたが、秀吉は大田城攻防戦の戦後処理として、その他にも後世に影響する重大事を始めている。それは次のうちどれか。

    刀狩り

  • 36

    甲賀市の渡辺俊経家文書には甲賀忍者ご世代交代する際に尾張藩と交わした起請文が存在する。起請文とは神様に約束する形式の誓約書である。ではこの起請文において誓う相手の5柱の中に含まれていないのは次の内どの神様か。

    飯道大権現

  • 37

    山岡景友と云えば徳川家康から「甲賀組」を預けられ、その初代頭領となった事で知られる。では、豊臣秀吉に御伽衆として仕えていた時は何と名乗っていたか。

    道阿弥

  • 38

    天正13年(1585)秀吉が中村一氏に命じて築かせた水口岡山城は、前年の小牧長久手の戦の教訓から大阪城の東の出城として家康勢の侵入を防ぐ役割と、もう一つの目的があった。それは次のうちどれか。

    甲賀武士の監視抑制

  • 39

    渡辺俊経家文書には多くの武術書や兵法書と共に忍術書も存在する。では渡辺俊経家文書に存在しないものは次の内どれか。

    万川集海

  • 40

    『改正三河後風土記』によると、永禄5年(1562)松平元康は鵜殿一族を攻めるため、甲賀衆の支援を求め甲賀からは伴太郎左衛門以下80余人が参戦したという。結果は落城させたばかりか、城主の息子の生け取りも出来、その後元康の妻築山殿と長男との交換もできた。この戦いのあった城の名は何と云うか。

    上(の)郷城

  • 41

    現在では幻の存在ではあるが、甲賀産の火縄銃である「甲賀張り」には性能に特色があった。その一つが「矢倉」というものであると云う。では、この「矢倉」とは何か。

    仰角測定装置

  • 42

    信長公記によると、天正9年(1581)9月伊賀を平定した織田信長は、10月9日には伊賀国を視察するため、織田信忠・信澄を伴い安土を出発した。その日は飯道山に登り近江の国を展望したあと、どこに泊まったか。

    飯道寺

  • 43

    中世の甲賀では、村々は単独で或は複数の村が共同で同名中惣を結成し、村内の自治を行った。同名中にはその地域の中心的武士層の苗字を冠して「○○同名中」と呼ばれた。では、次の内甲賀郡内で同名中でなかったのはどれか。

    渡辺

  • 44

    甲賀町田堵野の大原本家は、数百年の間同じ場所に住み続けているが、萬川集海を江戸幕府に献上する等忍術の復興に貢献した。その後大原数馬を襲名して世襲してきた家業は何であったか。

    医者

  • 45

    元禄9年(1696)に成立し、平戸藩4代藩主松浦鎮信が天正から元和年間(1573〜1624)に活躍した武将についての逸話を雑記した全17巻からなる書物の第7巻に「甲賀は忍の者多し、人柄かいかい敷所なり」と云う記述がある。この書物とは次の内どれか。

    武功雑記

  • 46

    忍者は薬草の知識が豊富で身近な植物を上手く活用して薬に用いていた。忍術書には「忍び出で立ちには虫薬を第一とす」とあり、虫薬とは腹薬のことだった。さて、忍者が活動中の腹痛予防のため服薬としていたほか、煎じた汁で紙を染めて保存文書の虫よけにも使った植物は何か。

    キハダ

  • 47

    甲賀飯道山のふもとの村出身と云われ、比叡山で修行したが信長の焼き打ちにあって京に出て医業を学び秀吉の主治医にまで上り詰め、秀吉の信任を得て比叡山延暦寺の再建に貢献した人物は誰か。

    施薬院全宗

  • 48

    真田十勇士の中でも甲賀と縁のあるとされるのは望月六郎。「真田三代記」に記載され資料として残っているが、九度山にて幸村が蟄居中に次の戦のことを考えて望月六郎に特命を授けている。それは何か。

    大筒・地雷火の火薬爆発力の強化

  • 49

    戦国時代、種子島への鉄砲伝来から間もなく、2〜3年の内に甲賀へ鉄砲が伝わったと云われている。堺—国友ルート以外で甲賀へ鉄炮が持ち込まれた有力な推定ルートは次の内どれか。

    根来寺から飯道寺

  • 50

    甲賀屈指の鉄砲の名手、杉谷善住坊は千草峠で織田信長を狙ったが狙撃に失敗した。それから善住坊の逃避行が始まるわけだが、近江高島郡に逃れたと云われる。では近江高島郡で善住坊を匿ったのは次のうち誰だったか。

    鯰江香竹

  • 51

    家康がまだ松平元康と称していた頃、甲賀武士が忍びとして支援をしてある城を攻め城主鵜殿氏を討ち取り、その家族を生け捕りにした。そして人質交換で家康の妻子を取り戻した。ではこの鵜殿一族は次の誰の一族に属したか。

    今川氏真

  • 52

    忍者の得意とする火薬術に用いる材料には実に沢山の様々な物がいろいろな割合で混ぜられているが、次の中でその材料でない物はどれか。

    石灰

  • 53

    東京の千駄ヶ谷にある鳩森八幡神社にある稲荷社は、昔は青山の御鉄砲場付近に鎮座して、甲賀組組屋敷の武士などが崇敬していた。明治18年(1885)に青山練兵場設置の為当社境内に遷座・合祀され、戦災を経て昭和45年(1970)に社殿が復興された。この稲荷社の名前は何というか。

    甲賀稲荷社

  • 54

    百済からの渡来僧で、推古天皇に「天文楯甲の術」の書を献上し、甲賀の帰化人大伴村主高聡に取得させたのは誰か。

    観勒

  • 55

    関ヶ原の役の直前、徳川家康に味方して伏見城へ籠城した甲賀衆を裏切らせるため、石田三成方の水口岡山城主長束正家が取った行動は次の内どれか。

    籠城甲賀衆の家族を人質にとり脅した

  • 56

    滋賀県史跡に指定された甲賀市水口町の植遺跡はある建物で注目された。ではその古代建物群とは何か。

    大型倉庫建物群

  • 57

    江戸八百八町で1800年頃の人口は約110万人超で当時のヨーロッパの都市以上の人口を誇っていた。武家と町民がほぼ同数の50万人程で寺社関係者ご10万人程度であった。では、俗に「旗本八万騎」と云われる直参旗本は大体どのくらい居たか。

    5,000人

  • 58

    お水取りで知られる東大寺・二月堂の左奥には若狭の遠敷神が、右奥には鎮守神として甲賀に由来する神が祀られている。この甲賀の神は何か。

    飯道神

  • 59

    古来の山岳仏教と密教が結びついて成立したのが日本固有の宗教・修験道である。開祖は役小角(役行者)だが、「続日本記」によると、文武3年(699)「弟子の讒言により謀反の疑いをかけられ島流しにされた」とある。その島はどこか。

    伊豆大島

  • 60

    戦国期から活躍した甲賀武士も、豊臣政権に至りその領地と身分を剥奪され失うこととなった。この「甲賀ゆれ」に際し、唯一抵抗の姿勢を貫いた一族はどれか

    佐治氏

  • 61

    甲賀武士と深い関係にある佐々木六角家は北近江を領した京極家と同族で、鎌倉時代から信長に追われる迄約400年間南近江を治めた源氏の名門である。では、近江源氏佐々木氏の祖は次の内誰か。

    宇多天皇

  • 62

    信州の滋野氏は古代より朝廷左馬寮に属する官営牧場「牧」を経営し、毎年良馬を朝廷に献上すべく満月の夜ある場所を越えて都へ入ったので「望月」の姓を名乗ることになったという説がある。ではその場所は何処か。

    逢坂の関

  • 63

    甲賀忍者は同名中やそれが発展した自治組織甲賀郡中惣等を作っていたが、鉄砲の名手にして織田信長家臣である滝川一益は甲賀のどの同名中に属していたか。

    大原

  • 64

    尾張藩甲賀五人衆をつとめた渡辺善右衛門家に伝わる砲術で、渡辺平右衛門規俊が書き記した忍術書は何か

    甲賀流砲術秘書

  • 65

    甲賀衆も参戦した第2次天正伊賀の乱について、「神社仏閣はもとより民家までもことごとく焼き払われ・・・」と記述した興福寺の僧による書はどれか。

    多聞院日記

  • 66

    平成23年(2011)に公開された日本映画、監督は千葉誠治で、戦乱の世の伊賀と甲賀の忍者同士の争いの中で、超人的な肉体を持つ甲賀の女忍者「くノ一」如月(武田梨奈主演)の戦いを描いたアクション作品の題名は何か。

    女忍KUNOICHI

  • 67

    天正9年(1581)、甲賀武士が織田信長の伊賀攻めに従軍した(天正伊賀の乱)。この折、信長が飯道山に立ち寄り山頂より近江の国中を眺める。そして飯道寺に対して朱印状を発給した。では、その内容は次のうちどれか。

    領地

  • 68

    本能寺の変に際し、勢多の唐橋を焼き落として明智光秀の追撃を絶ち、急ぎ徳川家康を援護すべく宇治田原に駆けつけたとされるのは誰か。

    山岡景隆、景佐兄弟

  • 69

    甲賀の国人・土豪は惣領家を中心に同名中と呼ばれる同族集団を形成し、組織の意思決定は寄合と呼ばれる合議制を原則として、多数決が採用された。それでも決まらない場合はくじにより決定された。そしてその決定に基づき(  )が執行したと云う。(  )の中に入る言葉を次の内から選べ。

    奉行

  • 70

    幕末まで弘前藩の重臣として仕えた者の中に、杉山家という家があり、甲賀忍者を指揮下に置き活動した。その杉山家はある戦国武将の次男が津軽地方に落ち延び、名字を変えて生き延び、今日まで続いてきた家である。では、その戦国武将とは一体だれか次の内から選べ。

    石田三成

  • 71

    甲賀忍者の城郭群は今も多く残っている。殆どが方形の土塁で囲まれているが、石垣で囲まれているのは次の内どれか。

    三雲城跡

  • 72

    忍術秘伝書「正忍記」に「虫薬を第一とする」とあるが、これは腹痛止めの事である。戦国時代は衛生状態が現代より悪く、腹を下すこともしばしばあったが、キハダという山地に自生する植物の樹皮をそいで作ったある薬で下痢に対処していた。そのある薬とは次のうちどれか。

    黄柏(オウバク)

  • 73

    享保年間、尾張藩に仕えていた忍者の組頭である木村奥之助は、全国的に世代交代している忍者集団の状況に鑑み、「既に忍者の情報ネットワークは途絶えた」と記述した書物が残っている。それは次のうちどれか。

    甲賀忍之傳未來記

  • 74

    鈎の陣について、「世上普(あまね)く伊賀甲賀の忍者を称する事は足利将軍家の鈎御陣の時、神妙奇異の働きありしを日本国中の大軍眼前に見聞きする故に其以来名高し・・・・」と記述されている古文書は次の内どれか。

    近江輿地志略

  • 75

    天正10年(1582)神君甲賀・伊賀越えの際、家康は多羅尾氏から源頼朝ゆかりの勝軍地蔵を贈られたと伝わる。では、その地蔵さんは今何処にあるか。

    東京愛宕真福寺

  • 76

    伊賀忍者の頭、服部半蔵正成が一番槍の功名で「鬼の半蔵」の異名を得た合戦は何か。

    姉川の合戦

  • 77

    老中松平伊豆守信綱を総大将に島原の乱の鎮圧に向かったとき、甲賀忍者が志願して参戦し、天草では総合偵察隊として原城の守備陣容や兵糧の状態などをつぶさに報告して勝利に貢献した。この時、従軍した甲賀忍者は何人だったか。

    10人

  • 78

    足利幕府の最後の将軍となった足利義昭を奈良の興福寺一条院から救い出し、一時甲賀の地で保護したのは誰か。

    和田惟政

  • 79

    甲賀では往古より識字率が高かったと言われている。では、中世の時代、甲賀の地侍達の子弟達は主として何処で文字や天文や薬草や時には武術まで学んだと考えられるか。

    飯道寺

  • 80

    忍術書「万川集海」の巻第5「将知2」には、忍者を召抱える時の事で十カ条あげて基本資格としている。その第一として、ある五つ(漢字五文字)を備えていて心身壮健な者としているが、その五つとは何か。

    忠勇諜功信