問題一覧
1
国際連盟が国家間の紛争解決に十分な成果をあげることが出来なかったのは何故か。3つ
国際社会の主要国が国際連盟に加わらなかったこと。, 総会と理事会の表決が全会一致が原則であったこと。, 違反国に対する制裁が貿易や金融関連の経済制裁だけであったこと。
2
国際連盟の常任理事国は?
イギリス, フランス, 日本, イタリア
3
ソ連が国際連盟から除名されることになった原因は?
フィンランド侵攻
4
第二次世界大戦中の 1941年8月、アメリカの()大統領とイギリスの()首相は会談し、新しい国際平和機構の構想をもりこんだ()を発表した。
ローズヴェルト, チャーチル, 大西洋憲章
5
連合国のあいだで()が作成され、大戦終結後の 1945年10月24日、()が正式に発足した。
国連憲章, 国際連合
6
国際連合の常任理事国を全て答えろ
アメリカ, イギリス, フランス, ソ連, 中華民国
7
国際連合の安全保障理事会と総会の表決方式は()へと変更された。
多数決
8
アメリカが新しい国際通貨体制と経済復興の枠組みを提唱し、連合国のあいだで()が締結され、()と()が設立された。これを()という。
ブレトン=ウッズ協定, 国際通貨基金(IMF), 国際復興開発銀行(IBRD)=世界銀行(WB), ブレトン=ウッズ体制
9
これによりドルは()となり、日本では1ドル()円とされた。
基軸通貨, 360
10
関税と貿易に関する一般協定をなんという?
GATT
11
GATTはその後、何に移行したか。
WTO(世界貿易機関)
12
国際連盟の課題とその対策として国際連合ではどのようなことが行われたか説明しなさい。
国際連盟の課題は、第一にアメリカなどの国際社会の主要国が加盟しなかったこと、第二に総会と理事会の表決が全会一致であったこと、第三に違反国に対する制裁が経済制裁のみであったことだった。その対策として国連では平和および安全の維持、または回復に必要な場合には軍事力を行使する条項が加えられ、安全保障理事会と総会の表決方式が多数決へ変更された。
13
イギリス前首相の()は、()において次々と()が誕生していることに警鐘を鳴らした。
チャーチル, 東欧, 共産主義国家
14
アメリカは()を発表して、共産主義勢力の影響拡大を阻止する外交方針()を表明し、共産勢力との内戦状態にあった()と()に対して軍事的・経済的援助を実施した。
トルーマン=ドクトリン, 対ソ封じ込め政策, ギリシャ, トルコ
15
ついでヨーロッパの経済復興への援助計画()を発表した。
マーシャル゠プラン
16
()・()などがマーシャル=プランに関心を示していたが、()では共産党が一党独裁体制を敷いてこれを阻止した。
ポーランド
17
ソ連は反対を表明し、()には参加しないよう指示した。
東欧諸国
18
そして各国の共産党の連帯を深めるために()を設立し、1949年1月に東欧諸国を対象とした経済協力機構の()を結成した。
コミンフォルム, 経済相互援助会議(コメコン)
19
()率いる()は、ソ連の指導に反発してコミンフォルムから除名された。
ティトー
20
()・()と()はソ連に対抗する軍事協力を約して()を発足させ、()と()も参加した。
イギリス・フランス, ベネルクス三国, 北大西洋条約機構(NATO), アメリカとカナダ
21
これに対して 1955年、ソ連は東欧諸国とともに軍事同盟の()を発足させた。
ワルシャワ条約機構
22
連合国により分割占領されていたドイツは、ソ連による()などの事態を経て、1949年5月に()が、10月に()がそれぞれ誕生し、2つに分裂した。
ベルリン封鎖, ドイツ連邦共和国(西ドイツ), ドイツ民主共和国(東ドイツ)
23
チャーチルは1946年3月、外遊中のアメリカにおいて()大統領の了解のもと、「()から()にかけて、大陸を遮断する()が降ろされた」と演説した。
トルーマン
24
ソ連は()の実験に成功した。これに対し アメリカは()の開発を促進した。これ以降、核開発を中心をする()がはじまった。
原子爆弾, 水素爆弾, 軍備拡張競走
25
ソ連の原爆開発成功の背景には、()などソ連のスパイによるアメリカからの機密情報の漏洩があった。
ローゼンバーグ夫妻
26
アメリカを中心とする()と、ソ連を中心とする()の対立は、()とよばれた。
自由主義陣営(西側)
27
日本がポツダム宜言受諾にともなって放棄した()および()や()が、連合国の占領下に置かれた。
朝鮮半島
28
朝鮮半島は()より北はソ連軍が、南はアメリカ軍が軍政を敷き二分された。
北緯38度線
29
1948年8月15日、半島南部に()を首班とする()が誕生すると、同年9月9日、半島北部に()を首班とする()が成立した。
李承晩
30
中国大陸では小競り合いをくり返していた()と()が全面的に衝突し、内戦となった()。
国民党
31
ソ連の支援を受けた、()らの率いる中国共産党は()の樹立を宜言した。敗れた()率いる国民党軍は台湾へ逃れ、()を敷き政権を維持した。
毛沢東
32
()で毛沢東が中国の樹立を宣言した。
北京・天安門広場
33
1947年2月、国民党の政策に反発した住民に対し、台湾全土で弾圧がおこなわれ()、多くの住民が犠牲となった。
二・二八事件
34
日本敗戦後の東アジアの冷戦についてまとめなさい。
日本敗戦後、朝鮮半島は北緯38度線より北はソ連軍が、南はアメリカ軍が軍政を敷き二分された。その後、半島南部に李承晩を首班とする韓国が誕生すると、半島北部に金日成を首班とする北朝鮮が成立した。
35
ドイツは敗戦後、()のもと米英仏ソ4カ国の分割占領による直接統治が実施された。
連合国管理理事会
36
当初はドイツを()させる懲罰的な占領方針が敷かれた。また、東欧など各地から追放された()が流入し、凶作と相まって極度の食糧難に襲われ、1945年の冬には多大な犠牲者を出した。
農業国化
37
戦後処理を目的とする皇族の()内閣が1945年8月17日に成立し、陸海軍の復員や海外在留一般邦人660万人の引き揚げならびに連合国軍の進駐に対処した。
東久邇宮稔彦(ひがしくにのみやなるひこ)
38
マッカーサーを最高司令官とする()は、占領政策を実施した。
連合国軍最高司令官総司令部(GHQ/SCAP)
39
GHQはメディアなどを通じて、「」や「」などの情報宣伝を実施し、日本人に戦争に対する罪責意識を植えつけようとした。
太平洋戦争史
40
東久邇宮内閣が総辞職し()内閣が成立すると、マッカーサーは口頭による()を出した
幣原喜重郎
41
五大改革指令の内容は?
婦人参政権の付与
42
戦争中指導的な地位にあった多くの人々を排除する()を出した。さらには、戦争犯罪を処罰するため()が開延された。
公職追放令
43
アメリカの()の指示で、「日本の統治体制の改革」にもとづき、マッカーサーは幣原首相に法改正を示唆した。
国務・陸海軍三省合同委員会(SWNCC)
44
幣原首相は、()を設置して()を作成した。
憲法問題調査委員会
45
GHQとの折衝にあたった()は「カクノゴトクシテ戦最露出ノ憲法案ハ生マル、今二見テイロトノ思ヒ抑ヘキレズ密カニ涙ス」とメモを残している。
白洲次郎
46
教育の民主化は、1947年3月に()・()が公布された。
教育基本法
47
経済の民主化は、()、()、()により実施された。
農地改革
48
経済改革では財閥解体が促進され、()・()が制定された。
独占禁止法
49
日本の敗戦直後における政治状況やGHQ占領後の日本の改革についてまとめなさい。
日本は敗戦後、皇族の東久邇宮稔彦内閣が成立し、陸海軍の復員や海外在留一般人の引き上げ、連合国軍の進駐に対処した。また、マッカーサーを最高司令官とするGHQは日本を弱体化するという方針に基づき、非軍事化と民主化を推進する占領政策を開始した。教育の民主化では教育基本法・学校教育法が公布され、経済の民主化では、農地改革、労働改革、財閥解体が実施された。
50
()は「日本は共産主義の防壁」とサンフランシスコで演説した。
米陸軍長官のロイヤル
51
日本の占領目的を、経済復興と自立化へと転換することを決定した。このことは、()と呼ばれた。
逆コース
52
GHQは日本に対して「」を指令し、日本経済の自立化をはかった。
経済安定九原則
53
翌年、戦後のインフレの抑制や単一為替レートの設定などの経済政策を要求する()とともに、税制改革もうながした()。
ドッジ゠ライン
54
1950(昭和25)年6月、中ソの支援をうけた北朝鮮軍が38度線をこえて韓国へ侵攻し、朝鮮戦争が勃発した。北朝鮮軍は一時()にまで迫った。
対馬近くの釜山
55
日本に駐留していたアメリカ軍は、韓国を支援するため国連軍として朝鮮半島に派遣された。()に上陸して形勢は逆転し、中朝国境の()に迫った。
仁川
56
そこに北朝鮮を支援する()が参戦し、南北軍事境界線上の()で休戦協定が結ばれた。
中国人民義勇軍
57
アメリカが日本を早く独立させるべきだと判断したことをうけて、()内閣は講和条約締結にむけた外交交渉に着手した。
吉田茂
58
ソ連をふくむすべての交戦国と講和条約を結ぶべきだという()が東京大学総長の()や()らによって唱えられた。
全面講和論
59
()首相はアメリカをはじめとする自由主義陣営と先に交渉を進めなければ早期実現は困難という()に立った。
吉田茂
60
吉田茂首相は非現実的な全面講和論をさけぶ南原東大総長を「」とよび、物議を醸した。
曲学阿世の徒
61
1951年、アメリカで()が開催され、9月8日、日本をふくむ49カ国が講和条約に署名した()。
サンフランシスコ講和会議
62
()は講和会議に参加せず、()は参加したが署名しなかった。
インド
63
講和条約調印と同日、日本とアメリカは()に署名した。翌年2月には()が締結された。
日米安全保障条約(日米安保条約)
64
戦後のアメリカの対日政策について、時の国際情勢を踏まえ具体的にどういった対策が取られたか説明しなさい。
東アジアに2つの共産主義国家が誕生したことで日本を自由主義陣営の一員にしようという声が高まった。そこでGHQは日本に対して経済安定九原則を指令し、日本経済の自立化をはかった。翌年、戦後のインフレ抑制や単一為替レートの設定などの経済政策を要求するドッジ・ラインとともに、税制改革も促した(シャウプ勧告)
65
フランス領インドシナでは1945年、()を大統領とする社会主義の()が成立した
ホー=チ=ミン
66
植民地支配の回復をめざす()はこれを認めず、1946年に()がおこった。
フランス
67
フランスは南に()を建てて対抗したが、1954年に()で敗北したため、()で宗主権を放棄した。
ベトナム国
68
()が暫定の境界線とされ、2年後の南北統一選挙が約束された。しかし、1955年に共産主義勢力の拡大警戒するアメリカの支援で()が樹立され、選挙は実施されなかった。
北緯17度線
69
ホー=チ=ミンは「」とよばれた。
べトナム建国の父
70
オランダ領東インド諸島では1945年、()を指導者として()が独立を宜言した。再支配を狙う()はこれを認めなかった。
スカルノ
71
4年間にわたる独立戦争を経て、国連の調停により1949年に()が成立し、1950年、独立を達成した。
ハーグ協定
72
()は1946年にアメリカから独立した。インドでは、1947年にヒンズー教の()とイスラム教の()に分かれてイギリスから独立した。1948年には()と()がイギリスからそれぞれ独立した。
フィリピン
73
インドの()首相は、1954年に中国の()首相と()を確認し、東西冷戦で緊張する国際社会の共感をよんだ。
ネルー
74
1955年、東南アジア5カ国のよびかけで()が開かれ、国連憲章を発展させた()を発表し、アジア・アフリカ諸国の連帯を強めた。
アジア=アフリカ会議(バンドン会議)
75
アフリカでは、1950年代に()などが次々と独立した。1957年に()が独立し、1960年には17の新興国が一挙に生まれて「」といわれた。
リビア
76
()や()らのよびかけにより、ユーゴスラビアのベオグラードで、1961年に()が開かれ、25カ国が参加した。
ユーゴスラビアのティトー
77
非同盟主義を唱える()はその存在感を増すことになった。
第三世界
78
米ソ冷戦から距離を置く国々は、1950年〜60年代にかけてどういった活動を展開したか説明しなさい。
インドのネルー首相は周恩来首相と平和五原則を確認した。その後、東南アジア5カ国のよびかけでアジア=アフリカ会議が開かれ、平和十原則が発表された。アフリカでは1950年代にリビアやガーナ共和国が独立し、1960年はアフリカの年といわれた。また、ユーゴスラビアのティトーやエジプトのナセルのよびかけで非同盟諸国首脳会議が開かれた。
79
南ベトナム(ベトナム共和国)では政治が安定せず、1960年に結成された()の反政府ゲリラ活動が活発となった。
南ベトナム解放民族戦線(ベトコン)
80
アメリカは民族戦線を支援する北ベトナム(ベトナム民主共和国)を討つため、1965年、北ベトナムへの爆撃(北爆)を開始した。こうしてベトナム全土に戦争は拡大した()。
ベトナム戦争
81
多くの死傷者を出したアメリカでは国の内外で批判の声が高まり、大規模な()がおこるなど動揺した。1973年に()が結ばれ、アメリカ軍は撤退した。
反戦運動
82
1975年に()が陥落し、翌年、南北ベトナムが統一され、()が成立した。戦争の影響で多数の()が生まれ、大きな国際問題となった。
サイゴン
83
アメリカは、南ベトナムの政権が倒れれば、隣接する周辺諸国も連動して共産主義化すると考えた()。
ドミノ理論
84
ユダヤ人のあいだでは、19世紀末から故郷()に国家を建設しようとする運動()がおこっていた。第一次世界大戦後になると、パレスチナに移住するユダヤ人が増え、すでに居住していた()人(パレスチナ人)とのあいだで対立が生じた。
パレスチナ
85
国際連合の()に従い、ユダヤ人は1948年に()を建国した。アラブ諸国はこれに反発し、()がおきた。
パレスチナ分割案
86
ユダヤ人はかつて、みずからをイスラエル人と称し、他国人からは()人とよばれた
ヘブライ
87
()から武器を調達し、アメリカの支持を得たイスラエルが勝利し、アラブ諸国は多数の()を抱えることとなった。
イギリス
88
1956年にエジプトの()大統領が()の国有化を宜言すると、()・()・()がエジプトを攻撃した()。しかし、米ソをはじめとする国際世論の反対で3国は撤退した。
ナセル
89
1967年には、()と()・()・()とのあいだで第3次中東戦争が勃発し、大勝した()が広大な地域を占領した。
イスラエル
90
連合による和平交渉がおこなわれることになったが、パレスチナの回復をめざす()はゲリラ活動をつづけた。
パレスチナ解放機構(PLO)
91
パレスチナ解放機構は1964年にアラブ諸国により設立。()が議長に就任した。
アラファト