問題一覧
1
[富士山-信仰の対象と芸術の源泉] 文化遺産として世界遺産に登録された富士山は,古くから噴火を繰り返す火山として恐れられ,また富士山に住まうとされていた神仏への信仰から多くの人々に敬われてきた。人々は噴火を鎮めるために[ ① ]を建立するなど,神々に祈りを捧げる一方で,湧き水をはじめ富士山がもたらす自然の恵みを享受し,長年にわたってこの火山と共生してきた。平安時代後期になると富士山の噴火活動は沈静化し,[ ② ]や[ ③ ]などが結びついた[ ④ ]の霊場として,多くの修験者を集めるようになった。
浅間神社, 山岳信仰, 密教, 修験道
2
[日光の社寺] 東照宮と,東照宮以外の[ ① ]の建造物の総称である[ ② ],そして仏教関連の建造物を総称する[ ③ ]の2社1寺に属する103棟の建造物群と周辺の自然環境が『日光の社寺』として登録されている。[ ④ ]と周囲の[ ⑤ ]が調和した景観からは,日本古来の[ ① ]思想が色濃くあらわれていると評価された。
神道, 二荒山神社, 輪王寺, 建造物, 自然
3
[白川郷・五箇山の合掌造り集落] 共通点のひとつに,[ ① ]と呼ばれる相互扶助組織がある。白川郷と五箇山では,伝統的に隣人同士の結束力が強かった。これは[ ② ]への信仰心がもとになっているが,厳しい自然環境も大きく作用している。豪雪地帯での生活は家族だけでは成り立ちにくく,[ ① ]による協力体制が発展した。とりわけ茅葺き屋根のメンテナンスには多くの人手が必要で,30〜40年に一度行われる葺き替えに際しては,[ ① ]が必要不可欠だった。白川郷では村民100〜200人が総出となり,1日で葺き替えを終わらせたという。
「結」, 浄土真宗
4
[紀伊山地の霊場と参詣道] 和歌山県を中心に3県にまたがる紀伊山地には,古代から信仰を集めた霊場が点在している。世界遺産には,[ ① ],[ ② ],[ ③ ]の3つの霊場と,それらを結ぶ[ ④ ]が登録されている。
吉野・大峯, 熊野三山, 高野山, 参詣道
5
[百舌鳥・古市古墳群] 一方で,ヤマト王権は東アジアの国々と交易を行っており,この地域の古墳は巨大古墳が造られる[ ① ]があることを交易相手の国々に対して示すものでもあった。 そのため,古墳群は海上交易の窓口であった[ ② ]を望む台地の上に造られ,仁徳天皇陵古墳や履中天皇陵古墳などは交易船からよく見えるように墳丘の一番長い辺を[ ② ]に向けている。
権力構造, 大阪湾
6
[ル・コルビュジエの建築作品: 近代建築運動への顕著な貢献] 近代建築の3大巨匠に数えられるル・コルビュジエは[ ① ]や[ ② ]などの新たな概念を打ち出し,20世紀以降の建築へ大きな影響を与えた。また公共住宅や都市設計にも優れた手腕をみせた。五原則のひとつ[ ③ ]はフランス語で杭を意味し,建物の一階部分の柱で建物を支えて空中に浮くような軽やかな造形を生み出す工法。フランスにある代表作[ ④ ]に見られる他,日本の[ ⑤ ]本館にも採用されている。
「近代建築の五原則」, 「モデュロール」, 「ピロティ」, サヴォア邸, 国立西洋美術館
7
[『神宿る島』宗像・沖ノ島と関連遺産群] 構成資産の中心となる「沖ノ島」は,九州本土から約60㎞の玄界灘の海上に位置し,日本列島から朝鮮半島や中国大陸へと向かう航海上の目印となる島であった。そのため島自体が自然崇拝の信仰を集め,4世紀頃から約500年もの間,[ ① ]を祈る場所として国家的な祭祀が行われてきた。4世紀頃というのは,ヤマト王権と朝鮮半島の百済の結びつきが強まった時期である。沖ノ島には,そうした[ ② ]と[ ③ ]が残されている。
航海の安全, 交易の証拠, 祭祀祭祀の跡
8
[姫路城] 姫路城は,白漆喰の総塗籠の外壁が魅せる優美な姿から[ ① ]とも呼ばれる。その一方で極めて実用的で堅牢な城でもあり,[ ② ]状に構築された複雑で巧妙な縄張り(城の基本設計),姫山と呼ばれる自然の丘の地形をたくみに生かした曲輪や堀,数多く配された櫓や門などによって,高い防衛能力を兼ね備えている。また城内には,内部から弓矢や鉄砲を撃ちかけるための狭間,石や熱湯を浴びせかける石落としなどの仕掛けが随所に施されている。鉄砲狭間や弓狭間は,使用する武器に応じて使い分けるよう三角や四角などの幾何学的な形をしている。
「白鷺城」, 螺旋
9
[白川郷・五箇山の合掌造り集落] ◎登録基準
(iv), (v)
10
[法隆寺地域の仏教建造物群] この地域の建造物群は,日本に[ ]が伝わって間もない飛鳥時代の建築様式を示しており,中国や朝鮮の影響を受けながらも独自に発展した日本の[ ]文化の発展過程を知るうえでも貴重な史料となっている。
仏教
11
[法隆寺地域の仏教建造物群] ◎登録基準
(i), (ii), (iv), (vi)
12
[日光の社寺] 明治政府が,[ ① ]を国家宗教にすることを目指して発布した[ ② ]により,山内の建造物は東照宮と二荒山神社,輪王寺の2社1寺に分けられた。
神道, 神仏分離令
13
[厳島神社] 宮島のシンボルである海上の大鳥居は,4本の控え柱で支える[ ① ]である。これは風水害によってしばしば倒壊していた大鳥居を,1547年の再建で控え柱をもつ構造に改めたもの。また,現在の大鳥居は1850年に台風で倒壊したあと,1875年に再建されたものである。海底に延びる柱の根元は固定されておらず,自重で立っている。江戸時代に建てられた[ ② ]は,日本で唯一の海に浮かぶ[ ② ]である。他にも,1407年に[ ③ ],1523年に[ ④ ],1587年に末社[ ⑤ ](千畳閣)などが建造されている。
両部鳥居, 能舞台, 五重塔, 多宝塔, 豊国神社本殿
14
[富士山-信仰の対象と芸術の源泉] また,国内外を問わずさまざまな芸術作品に多大な影響を与えたことでも評価されており,19世紀には[ ① ]の「富嶽三十六景」や[ ② ]の「不二三十六景」など富士山をモチーフとした浮世絵が多く描かれた。また浮世絵は,[ ③ ]や[ ④ ]など[ ⑤ ]の画家にも影響を与え,日本の文化の象徴的存在としても広く認知されている。
葛飾北斎, 歌川広重, ゴッホ, モネ, 印象派
15
[法隆寺地域の仏教建造物群] 聖徳太子ゆかりの地である奈良県生駒郡斑鳩町にある法隆寺の47棟と,[ ① ]の1棟が世界遺産に登録されている。607年に厩戸王(聖徳太子)と推古天皇によって建立された[ ② ](斑鳩寺)を起源とする法隆寺は,西院と東院のふたつの伽藍群によって構成される。西院の[ ③ ]や[ ④ ]は現存する世界最古の木造建築としても知られる。
法起寺, 若草伽藍, 金堂, 五重塔
16
[『神宿る島』宗像・沖ノ島と関連遺産群] 9世紀に遣唐使が廃止されると,沖ノ島の重要性が薄れ,国家的な祭祀が行われなくなったが,その間も宗像三女神に対する信仰は続き,17世紀頃から社殿が作られ始めた。宗像大社は沖ノ島の「[ ① ]」,沖ノ島と九州本土の間にある大島の「[ ② ]」,九州本土の「[ ③ ]」の三社からなる。それぞれに天照大神が誓約で生み出した三女神を,[ ① ]が[ ④ ],[ ② ]が[ ⑤ ],[ ③ ]が[ ⑥ ]と祀っており,三社一体の信仰を作り上げている。
沖津宮, 中津宮, 辺津宮, 「田心姫命」, 「湍津姫命」, 「市杵島姫命」
17
[明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼,造船,石炭産業] [ ① ][ ② ][ ③]産業に関わる施設や遺構が中心となるが,現在も稼働中の資産が含まれており,[ ④ ]だけでなく[ ⑤ ]や[ ⑥ ]なども組み合わせて保護されているため,文化庁ではなく[ ⑦ ]の推薦によって登録が進められた。
「製鉄・製鋼」, 「造船」, 「石炭」, 文化財保護法, 港湾法, 景観法, 内閣官房
18
[小笠原諸島] ◎登録基準
(ix)
19
[厳島神社] 瀬戸内海に浮かぶ厳島(宮島)は,[ ① ]を擁する島全体が古来から神の宿る島として信仰を集めてきた聖域である。厳島に初めて社殿が創建されたのは593年とされ,現在のように海上に本殿や拝殿などの建物が立ち並ぶようになったのは,平安時代後期の1168年頃と考えられている。[ ② ]を祀る厳島神社を平家一門の守護神として位置づけ,篤い信仰を寄せる[ ③ ]によって社殿が整えられ,色鮮やか朱色の建造物が海にせり出した姿が完成した。
弥山, 宗像三女神, 平清盛
20
[長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産] [ ① ]は,潜伏キリシタンの信仰を続けるために,外海地域から,より信仰を隠すことができる[ ② ]の島々に移住していった時代。構成資産の⑦から⑪がこの時代を証明している。神道の聖地であった[ ③ ]では,神道の信者であることが当然とみなされたり,病人の療養地であった[ ④ ]では,人があまり訪れない閉ざされた場所であるなど,潜伏キリシタン達にとって信仰を隠しやすかった場所であると考えられる。また,五島への移住は藩の開拓移民政策と深く関係しており,共同体を維持したい潜伏キリシタン達と未開地に移民を進めたい五島藩と大村藩の共通の思惑から,開拓移民のキリスト教信仰が黙認されていた側面もあった。
「3.維持,拡大」, 五島列島, 「野崎島の集落跡⑧」, 「頭ヶ島の集落⑨」
21
[屋久島] 九州最南端から南方約70㎞の沖合に浮かぶ『屋久島』は,[ ① ]が隆起して誕生した総面積約500㎢の島である。島の西武海岸線から,標高1,936mの[ ② ]を含む山岳部にかけての約107㎢が世界遺産に登録されている。
花崗岩, 宮之浦岳
22
[琉球王国のグスク及び関連遺産群] 古くから,海のかなたに[ ① ]と呼ばれる神々の国があると信じられてきた琉球では,その信仰を基盤として,日本,中国などの影響を受けながらも,独特の文化が育まれた。なかでも[ ② ]によって築かれた[ ③ ](城砦)には,宗教的な聖地とされる拝所を備えたものもあり,琉球の文化が色濃く反映されている。
「ニライカナイ」, 按司, グスク
23
[『神宿る島』宗像・沖ノ島と関連遺産群] ICOMOSの事前勧告では,沖ノ島と[ ① ],[ ② ],[ ③ ]の4資産にのみ「登録」勧告が出されたが,世界遺産委員会では三社一体の信仰が評価され,8資産全体での登録となった。また世界遺産委員会では,緩衝地帯などでの開発の影響評価や,上陸が禁忌とされる沖ノ島への不法上陸対策,遺産の管理体系の明確化などが求められた。
小屋島, 御門柱, 天狗岩
24
[富士山-信仰の対象と芸術の源泉] 富士山に対する信仰は,遠くから拝む[ ① ]だけでなく,ご神体である富士山そのものに登ることが祈りとなる[ ② ]が古くから行われてきた点も特徴で,江戸時代には富士山を巡礼して登拝する[ ③ ]が民間信仰として広まった。
「遥拝」, 「登拝」, 「富士講」
25
[北海道・北東北の縄文遺跡群] ◎登録基準
(iii), (v)
26
[富岡製糸場と絹産業遺産] 江戸末期,鎖国政策を終えた日本は伝統的に生産されてきた[ ① ]を輸出品として貿易に乗り出していた。しかし,増える需要に対して品質基準を満たす[ ① ]の生産が追いつかない状態であった。明治維新を経て[ ② ]による「富国強兵」を掲げた明治政府は,[ ① ]を引き続き主要な輸出品とし,[ ① ]の品質改善と生産向上の技術革新に取り組んだ。
生糸, 「殖産興業」
27
[屋久島] ◎登録基準
(vii), (ix)
28
[平泉-仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群-] [ ① ],[ ② ],[ ③ ]跡,[ ④ ]跡,[ ⑤ ]の5資産からなる『平泉-仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群-』は,この地の豪族であった奥州藤原氏ゆかりの遺産。東北に極楽浄土を創り上げようとした[ ⑥ ]の思いが代々受け継がれ,11世紀後半から12世紀後半の約100年間にわたり平泉は文化の隆盛を誇った。[ ⑥ ]は[ ⑦ ]の勅命を受けて[ ① ]を再興し,金色堂を建立した。2代[ ⑧ ]は[ ② ]を再興。[ ③ ]は[ ⑧ ]の妻が建立し,[ ④ ]は3代[ ⑨ ]が造営している。
中尊寺, 毛越寺, 観自在王院, 無量光院, 金鶏山, 藤原清衡, 堀河天皇, 基衡, 秀衡
29
[白神山地] ブナ以外にも,固有種[ ① ]をはじめ約500種の植物が存在する。とくに希少な108種の植物は,「保護すべき植物」として採取や損傷が禁じられている。また特別天然記念物[ ② ]や[ ③ ]など14種の哺乳類,さらに絶滅危惧種[ ④ ]や[ ⑤ ]など84種の鳥類が生息している。
アオモリマンテマ, ニホンカモシカ, ツキノワグマ, クマゲラ, イヌワシ
30
[日光の社寺] 輪王寺は,勝道上人が766年に創建した[ ① ]を起源にもち,天海が復興した60棟あまりの建造物を含む。1653年には,家光の霊廟である[ ② ]が造営され,幕府の庇護を受けた。院内の[ ③ ]には1643年に没した天海が祀られている。また,本堂の三仏堂は日光山内最大の建造物で,[ ④ ],[ ⑤ ],[ ⑥ ]が祀られている。明治に入ってからの[ ⑦ ]によって現在の場所に移転された。
四本龍寺, 大猷院, 慈眼堂, 千手観音, 阿弥陀如来, 馬頭観音, 神仏分離令
31
[北海道・北東北の縄文遺跡群] 縄文人は,後の農耕社会のように土地を大規模に改変することなく,気候の変化に適応した生活を維持した。 食料を安定確保するため,[ ① ]が遡上する川の近くや,[ ② ]類を拾いやすい干潟の近く,[ ③ ]の群生地など多様な地に集落を築いた。立地に応じて,食料を得るための技術や道具類も発達させた。
サケ, 貝, クリ
32
[石見銀山遺跡とその文化的景観] 島根県の山間にある『石見銀山遺跡とその文化的景観』は,16〜17世紀初頭にかけて発展した銀山と,その周辺の景観を含めた文化遺産である。 遺産には,[ ① ]と呼ばれる小規模な手掘りの坑道や鉱山,集落や役所など,銀の生産に直接関わる「鉱山と鉱山街」,銀行石や物資を運搬する石見銀山街道などの「街道」,銀の積出港であった[ ② ]や[ ③ ],[ ④ ]などの「港と港街」が登録されている。遺跡群はかつて銀生産や住民生活で使用された薪炭材の供給源だった森に覆われ,銀鉱山が豊かな自然と共存していたことを示す文化的景観となっている。
間歩, 鞆ヶ浦, 沖泊, 温泉津
33
[富岡製糸場と絹産業遺産群] ◎登録基準
(ii), (iv)
34
[古都奈良の文化財] 奈良に点在する寺社は,天皇家や[ ① ]と密接に結びつくものが多い。どれも計画的に配置された木造建築物で,8世紀の文化,芸術,技術の水準の高さを示している。また平城京の中心であった平城宮跡は,当時の都市設計や生活様式を伝える重要な史料とされ,現在も発掘調査や建造物の復旧作業が進められている。こうした資産群からは,日本の文化が[ ② ]や[ ③ ]との交流によって大きく発展していったこと,また奈良時代が今日までつづく日本の[ ④ ]国家や文化の基礎を形成した,極めて重要な時代であったことを知ることができる。
藤原氏, 中国, 朝鮮, 律令
35
[富岡製糸場と絹産業遺産群] 同じ頃,周辺の地域では技術の研究が進められた。養蚕農家の田島弥平は自然の通風を重視した養蚕法である[ ① ]を確立した。越屋根をもつ[ ② ]は近代養蚕農家建築の原点とされる。また[ ③ ]は温度と湿度を管理する養蚕法である[ ④ ]を確立し,生家である[ ⑤ ]で研究と指導を行った。こうした技術革新により製糸業が発展すると繭の増産と安定供給が求められるようになり,天然の風穴の冷風を利用した国内最大規模の蚕種貯蔵施設である[ ⑥ ]が作られた。
「清涼育」, 「田島弥平旧宅」, 高山長五郎, 「清温育」, 「高山社跡」, 「荒船風穴」
36
[厳島神社] ◎登録基準
(i), (ii), (iv), (vi)
37
[知床] 豊富な栄養塩を含むこの海氷は春になると融解し,大量の植物プランクトンを供給する。それに伴い,植物プランクトンを餌とする動物プランクトン,さらに小魚,甲殻類や貝類が繁殖するといった,一連の[ ① ]が生まれる。海から始まるこの[ ① ]は,トドやアザラシといった海生哺乳類はもちろん,河川を遡上するサケやマスを捕食する[ ② ]にキタキツネなどの陸生哺乳類も含んだ,海と陸が連続する知床の特異な生態系を育んでいる。さらに知床には絶滅危惧種の[ ③ ]や[ ④ ]が生息し,天然記念物の[ ⑤ ]の越冬地でもある。[ ② ]の生息密度は世界で最も高い。
食物連鎖, ヒグマ, シマフクロウ, オジロワシ, オオワシ
38
[厳島神社] 建造物には,平安時代の貴族の住宅建築様式である[ ① ]が取り入れられている。[ ① ]はそれまでの神社建築には見られなかったもので,独立した各部屋を[ ② ]でつなぐことに特徴がある。厳島神社でも本社自体の建物配置に[ ② ]が使われている他,本社と能舞台は西回廊でつながっており,本社と客神社は東回廊でつながっている。
寝殿造り, 渡り廊下
39
[姫路城] 1615年の一国一城令,明治維新に際しての廃城令,そして第二次世界大戦の戦火も免れ,江戸時代初頭の姿をほぼそのままに留めている。1956年から8年間に及んだ「昭和の大修理」では,天守関の解体修理が行われ,かつてのままの美しい姿を残している。近年では2009〜2015年にかけて大天守の屋根瓦や漆喰壁の保存修理事業が行われ,修復を行いながら[ ]を保つという保存の取り組み方も評価された。この工期中には一部の修復作業が一般に公開された。
「真正性」
40
[北海道・北東北の縄文遺跡群] 北海道,青森県,岩手県,秋田県の関係自治体は,資産全体の普遍的価値を保全するための基本方針となる包括的保存計画を策定している。これに基づいて,[ ① ]世界遺産本部などを設置し,国の指導と関係機関との連携の下で,[ ② ]の構成資産の保存・管理に取り組んでいる。
縄文遺跡群, 17
41
[琉球王国のグスク及び関連遺産群] また,関連遺産群として,祭祀の場であった[ ① ]と[ ② ],陵墓の[ ③ ],王族の庭園である[ ④ ]が登録されている。これらは王族の陵墓や聖域,王族の別邸や祭政の場として利用されており,琉球王国の生活様式や価値観,独自の信仰形態を今に伝えている。
園比屋武御嶽の石門, 斎場御嶽, 玉陵, 識名園
42
[白川郷・五箇山の合掌造り集落] 岐阜県大野郡の白川村荻町(白川郷)と富山県南砺市の[ ① ]と[ ② ](五箇山)は,江戸末期から明治時代に建てられた伝統的な合掌造り家屋が多く残る集落群である。 荻町に残る合掌造り家屋113棟のうち59棟,[ ① ]では9棟,[ ② ]では20棟が世界遺産に登録されている。庄川流域に位置するこの地域は急傾斜の山と谷に囲まれ,かつ日本有数の[ ③ ]であるため,かつては周辺地域と隔絶されていた。そのため家屋の建築様式から産業,家族制度に至るまで独自の生活文化が育まれた。
相倉, 菅沼, 豪雪地帯
43
[白神山地] 青森県南西部と秋田県北西部をまたぐ約1,300㎢の範囲に広がる広大な山岳地帯の総称が白神山地であり,原生林の中心地170㎢が世界遺産に登録されている。白神山地には,約8,000年前に現在の分布域に達していたとされる[ ① ]などの[ ② ]が,比較的原生的な状態で残されている。現在世界に分布する[ ① ]は,日本のイヌブナを含め11種で,日本以外ではヨーロッパや北アメリカで確認できる。日本以外の[ ① ]は[ ③ ]期に大きく分布を変え生物多様性を減少させたが,日本の[ ① ]の分布地域は[ ③ ]に覆われることがなかったため,[ ① ]の原生林に息づく生物多様性が保たれているという点が高く評価されている。
ブナ, 落葉広葉樹林, 氷河
44
[姫路城] 池田輝政による5層7階建ての大天守は創建当時のままの姿で残る。白漆喰の総塗籠の外壁に,曲線を描く[ ① ]や,屋根にそのまま切妻破風をおく[ ② ]などの装飾が施された屋根が連なる。1階と2階には開閉できる特殊窓が設けられ,3階には[ ③ ](密室),4階には窓から攻撃できる[ ④ ]という設備があった。
唐破風, 千鳥破風, 武者隠し, 石打棚
45
[白川郷・五箇山の合掌造り集落] 一方,集落による相違点としては,[ ① ]の有無が挙げられる。五箇山の家屋には屋根に[ ① ]が設けられているが,白川郷には[ ① ]が見られない。雪下ろし作業の際に[ ① ]があると邪魔になるが,五箇山の集落では1年中囲炉裏の火を絶やさないため,[ ① ]がないと室内に煙が充満してしまう。また,入口にも「[ ② ]」と「[ ③ ]」の違いがある。白川郷では,屋根がある側に入口をもつ[ ② ]の家が主流。反対に五箇山,特に菅沼では,[ ④ ]側に入口をもつ[ ③ ]の家屋が多く,庇をつけた[ ⑤ ]風の外見の家屋が一般的である。
煙抜き, 「平入り」, 「妻入り」, 切妻, 入母屋
46
[長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産] 最後の[ ① ]は,約250年ぶりにキリスト教の信仰を公に告白し世界中を驚かせた[ ② ]から教会堂が築かれて行く時代である。この時代を証明するのが,国宝の[ ③ ]である。1865年に浦上地区の潜伏キリシタン達が[ ③ ]を訪れ信仰を告白した[ ② ]は,奇跡としてローマ教皇にも伝えられた。その後,潜伏キリシタン達は,カトリックに復帰する者や仏教や神道を信仰する者,禁教期の信仰を続ける者(かくれキリシタン)などへと分かれていき,カトリックに復帰した人が住む集落にも教会堂が築かれていった。
「4.変容,終わり」, 「信徒発見」, 「大浦天主堂⑫」
47
[平泉-仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群-] ◎登録基準
(ii), (vi)
48
[ル・コルビュジエの建築作品: 近代建築運動への顕著な貢献] ◎登録基準
(i), (ii), (vi)
49
[知床] 北海道北東端にある『知床』は,長さ約70㎞,基部の横幅約25㎞の細長い半島である。半島の中央を高さ1,200〜1,600mの知床連山が貫くが,この山々を挟んで[ ① ]に面した[ ② ]側と,[ ③ ]に面した[ ④ ]側では,気候や地形が大きく異なる。この気候の違いが住民の生活にも影響を与え,[ ② ]側は農業と観光業が主要産業に,[ ④ ]側は漁業が主要産業となっている。植生は多彩で,ミズナラなどの冷温帯性[ ⑤ ]と,エゾマツなどの亜寒帯性[ ⑥ ],そして両者の混交林が分布する。さらに湖沼や湿原,滝など,自然環境は変化に富む。
オホーツク海, ウトロ, 根室海峡, 羅臼, 落葉広葉樹林, 常緑針葉樹林
50
[富岡製糸場と絹産業遺産群] 新たな製糸場の建設が必要とされたため,高い製糸技術をもつフランスから技師[ ① ]が招聘され,工場建設地には広い土地と豊かな水を誇り,養蚕が盛んであったが富岡が選ばれた。 工場建設には日本の伝統技術も取り入れられ,日本古来の木造の柱からなる骨組みに西欧由来のレンガを組み合わせる[ ② ]など,和洋折衷の様式となっている。また,三角形の屋根組みをもつ[ ③ ]を採用し,少しでも多くの繰糸器を工場内に置けるよう中央に柱のない広い空間を確保する工夫がなされた。富岡製糸場は1872年に操業を開始すると,高品質な生系を輸出し世界中から高い評価を得た。
ポール・ブリュナ, 木骨レンガ造, トラス構造
51
[百舌鳥・古市古墳群] 構成資産は,日本最大の「[ ① ](大仙古墳)」や日本第3位の墳長を誇る「[ ② ](百舌陵山古墳)」のある百舌鳥エリアの23基,体積が日本一の「[ ③ ](誉田御廟山古墳)」や水鳥形埴輪などが発掘された「[ ④ ]」のある古市エリアの26基の,合計45件49基からなる。資産の件数と古墳の数が異なるのは,[ ① ]と[ ③ ]の周囲にある[ ⑤ ]と呼ばれる小さな古墳を,それぞれまとめて1件と数えているため。
仁徳天皇陵古墳, 履中天皇陵古墳, 応神天皇陵古墳, 津堂城山古墳, 陪冢
52
[長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産] 構成資産は大きく4つの時代に分けられる。[ ① ]は,1549年にフランシスコ・ザビエルが鹿児島に上陸し日本にキリスト教を伝えてから,1550年に平戸で不況を行い人々の間にキリスト教の教えが浸透していく一方,豊臣秀吉や徳川幕府によってキリスト教信仰が禁止され,キリシタン達が禁教の下でも密かに信仰を続けることを決意する時代。天草四郎を総大将とする島原半島と天草地方のキリシタン達が幕府軍と戦った「島原・天草一揆」の主戦場である構成資産[ ② ]の[ ③ ]が,この時代を証明している。この一揆が江戸幕府に大きな衝撃を与え,その後鎖国(海禁体制)が確立されるとともに,潜伏キリシタンの歴史が始まった。
「1.始まり」, ①, 「原城跡」
53
[日光の社寺] ◎登録基準
(i), (iv), (vi)
54
[古都奈良の文化財] 710年からの74年間,日本の都平城京として栄えた歴史を伝える歴史的遺構が『古都奈良の文化財』である。[ ① ]によって唐の[ ② ]をモデルに造営された平城京は,道が碁盤の目状に配された計画都市。 当時の推定人口は10万人で,日本の政治,経済の中枢であるとともに,同時代に花開いた天平文化の中心地であった。世界遺産には,[ ③ ],[ ④ ],[ ⑤ ](極楽坊),[ ⑥ ],[ ⑦ ],[ ⑧ ]の6つの寺社と,奈良時代をしのばせる特別史跡の[ ⑨ ],特別天然記念物の[ ⑩ ]の8資産が登録されている。これらは各資産の個別の価値が認められたのに加えて,8資産全体で奈良時代の歴史と文化を物語っていることも評価された。
元明天皇, 長安, 東大寺, 興福寺, 元興寺, 薬師寺, 唐招提寺, 春日大社, 平城宮跡, 春日山原始林
55
[姫路城] 天守の他,[ ① ],[ ② ],[ ③ ],イ・ロ・ハ・ニの渡櫓4棟の計8棟が国宝指定を受け,その他の櫓や塀など計74棟が重要文化財に,そして石垣も含めた全体が特別史跡に指定されている。また,西の丸に御殿は現存しないが,[ ④ ]や[ ⑤ ](百間廊下)などが残る。[ ④ ]は本多忠政が息子の忠刻,妻の千姫のために建てた居住空間で,千姫が男山の天満宮を遥拝する際に化粧を直した場所と伝わる。
東小天守, 西小天守, 乾小天守, 化粧櫓, 長局
56
[北海道・北東北の縄文遺跡群] ステージ3「定住の成熟」の「共同の祭祀場と墓地の進出」にあたるのが秋田県の 「[ ]」である。 最大径52mの万座と最大径44mの野中堂の2つの環状列石からなり,大小の川原石を組み合わせたいくつもの配石遺構を環状に配置して作られている。
大湯環状列石
57
[古都京都の文化財] 京都は794年,[ ① ]が[ ② ]からの遷都を行い平安京が誕生して以来,およそ1,000年にわたり,日本の首都として繁栄した。今も各時代の歴史と文化が息づき,日本の伝統文化を世界に発信する古都である。
桓武天皇, 長岡京
58
[白川郷・五箇山の合掌造り集落] 大集落([ ① ]),中集落([ ② ]),小集落([ ③ ])といった規模の異なる遺産が登録されているため,それぞれの集落の共通性と独自性を確認することができる。
白川郷, 五箇山・相倉, 五箇山・菅沼
59
[石見銀山遺跡とその文化的景観] 14世紀初頭に大内氏が発見したとされる石見銀山は,16世紀に発展期を迎える。博多の商人神屋寿禎が朝鮮半島から呼び寄せたふたりの技術者によって,新しい精錬技術[ ① ]が伝えられた。 鉱石を一度鉛に溶かし,銀を効率よく取り出す[ ① ]の導入などによって,良質な銀の大量生産が可能になった石見銀山の産出量は増加の一途をたどった。最盛期の17世紀初頭には推計で年間約40tの銀を産出していた。当時,日本は全世界の[ ② ]に相当する量を産出しており,そのほとんどが,石見銀山でまかなわれていたとされる。
「灰吹法」, 3分の1
60
[明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼,造船,石炭産業] ◎登録基準
(ii), (iv)
61
[白川郷・五箇山の合掌造り集落] 要因のひとつに,[ ① ]に適した土地が少ないことが挙げられる。明治期までこの地域では農地の分散をさけるため,住民20人〜30人で暮らす[ ② ]が守られていた。またこの屋内空間を利用して行われていた[ ③ ]や[ ④ ],[ ⑤ ](火薬の原料)の生産などの[ ⑥ ]は,[ ① ]に代わる貴重な収入源であった。
農耕, 大家族制, 養蚕, 紙漉, 塩硝, 家内制手工業
62
[厳島神社] また,本社本殿と客神社本殿には,[ ① ]という建築様式が用いられ,切妻屋根の平側入口屋根を延ばした[ ② ]を背面にも設けている。 厳島神社は一時荒廃したり,度重なる風水害にあいながらも,戦国時代の武将[ ③ ]など時の権力者の援助によって再興された。明治維新以降は,政府によって保護・改修がなされている。
両流造り, 「向拝」, 毛利元就
63
[法隆寺地域の仏教建造物群] 西院の金堂や五重塔,中門は7世紀から8世紀に建立され,[ ① ]の時代の影響が確認できる。また,8世紀に建立された東院の[ ② ],[ ③ ]などは,[ ④ ]の影響がよくあらわれている。このように法隆寺地域の仏教建造物群からは大陸と日本の交流の様子がうかがえる。
北魏, 夢殿, 伝法堂, 唐
64
[百舌鳥・古市古墳] 古市エリアには,百舌鳥エリアの東側の羽曳野市と藤井寺市にまたがる半径2㎞ほどの範囲に4世紀後半から6世紀前半に造られた古墳が広がっている。5世紀前半に造られた「応神天皇陵古墳(誉田御廟山古墳)」は三段の墳丘をもち,二重の濠と堤が囲っている。造られた当時は大きな円筒埴輪が2万本以上も並べられていたと考えられている。同時期に造られた方墳の[ ① ]と[ ② ],[ ③ ]の発掘調査では,木製の修羅が見つかっている。 世界遺産委員会では,都市における開発圧力や自然現象による古墳への影響が懸念点として挙げられ,墳丘に影響しない定期的なモニタリングや地域コミュニティの保存・管理体制への参加が求められた。
「助太山古墳」, 「中山塚古墳」, 「八島塚古墳」
65
[紀伊山地の霊場と参詣道] このように紀伊山地は古くから聖地としてあがめられてきたため,各霊場の神社や仏教寺院などの建造物と,周辺の森林や小川,滝といった自然環境とが一体となった景観を形成している。この景観が1,000年以上保存されている点が高く評価され,日本で初めて[ ]が認められる遺産となった。つまりこの遺産は単なる「社寺と道」ではなく,あくまで「山岳信仰の霊場と山岳修行の道」であり,紀伊山地の自然があってこそ成立しているのである。
文化的景観
66
[紀伊山地の霊場と参詣道]
熊野本宮大社, 熊野速玉大社, 熊野那智大社, 那智大滝, 青岸渡寺, 補陀洛山寺, 那智原始林
67
[琉球王国のグスク及び関連遺産群] グスク跡は,他に[ ① ],[ ② ],[ ③ ],[ ④ ]が登録されている。今帰仁城の城壁は,丘の斜面を利用して築かれており,うねるような曲線を描く。高さ3〜8m,厚さ平均3mで,総延長は1,500mにもなる。[ ② ]は小規模なグスクだが,沖縄最古といわれるアーチ型の城門や城壁が良好な状態で残っている。[ ③ ]は垂直に曲線を設けているのが特徴で,優美な平面的曲輪配置をとる[ ④ ]とは対照的である。このように石積みの技術や曲輪の形状を見ても,それぞれの特色がよくあらわれている。
今帰仁城跡, 座喜味城跡, 勝連城跡, 中城城跡
68
[『神宿る島』宗像・沖ノ島と関連遺産群] 九州北部の福岡県宗像市と福津市にある『「神宿る島」宗像・沖ノ島と関連遺産群』は,[ ① ]と[ ② ][ ③ ]の3つの要素で構成される[ ④ ]資産からなる。この3つの要素が一体となって,宗像・沖ノ島の信仰の歴史を証明している。
「沖ノ島」, 「宗像大社」, 「古墳群」, 8
69
[長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産] [ ① ]は,潜伏キリシタン達が神道の信者や仏教徒などを装いながら,密かにキリスト教信仰を続ける方法を作り上げていった時代。構成資産の②から⑥がこの時代を証明している。[ ② ]は,キリスト教伝来以前から続く山岳や島への自然崇拝にキリスト教の聖地を重ね合わせた場所,[ ③ ]は,漁業を生業とする漁村独特の方法で,アワビ貝の模様を聖母マリアに見立てて信仰した場所,[ ④ ]は古くから地元にある神社の氏子を装いながら信仰を続けた場所である。
「2.形成」, 「平戸の聖地と集落(②③)」, 「天草の崎津集落④」, 「外海の大野集落⑥」
70
[北海道・北東北の縄文遺跡] ステージ1「定住の開始」の「居住地の形成」にあたるのが青森県の「[ ① ]」である。ここからは旧石器時代の終わりごろの特徴をもつ石器群とともに,土器片が出土している。北海道の「[ ② ]」は「定住開始」の「集落の成立」にあたる遺跡で,耐久性があり長期間居住できる竪穴建物の出現を示している。
大平山元遺跡, 垣ノ島遺跡
71
[長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産] 『長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産』は,日本の遺産としては初めて,諮問機関である[ ① ]と[ ② ]を結び推薦書の作成を行った。[ ① ]のアドバイスにより,[ ③ ]を中心とした構成資産から,潜伏キリシタン達が生活をした[ ④ ]へと変更され,遺産名も「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」から『長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産』へと変更された。
ICOMOS, アドバイザー契約, 「教会」, 「集落」
72
[石見銀山遺跡とその文化的景観] 戦国時代には大内,尼子,毛利氏の間で石見銀山の領有をめぐって激しい争奪戦が繰り広げられたが,関ヶ原の戦いに勝利した[ ① ]がここを接収して直轄地とし,奉行を置いた。銀は幕府の重要な財源のひとつとなった。 江戸時代の[ ② ]により,海外で発展した新技術の導入が遅れ,石見銀山は休山。伝統的な鉱山開発の全体像を伝える遺構が残されることとなった。
徳川家康, 鎖国政策
73
[富岡製糸場と絹産業遺産群] 『富岡製糸場と絹産業遺産群』は明治期の日本における技術革新と近代化を示す産業遺産群である。「富岡製糸場」と[ ① ],[ ② ],[ ③ ]の4資産からなる。日本初の官営器械製糸場である富岡製糸場は,西欧の技術を取り入れ,技術者を養成することで日本の絹産業の近代化を大きく牽引した。
「田島弥平旧宅」, 「高山社跡」, 「荒船風穴」
74
[北海道・北東北の縄文遺跡群] ステージ2「定住の発展」の「拠点集落の出現」にあたるのが青森県の「[ ① ]」である。集落には計画的に,[ ② ]や[ ③ ],列状に並んだ土坑墓,埋設土器,盛土,貯蔵穴,道路,大型建物などが配置されている。また,いくつも形成された大規模な盛土からは,日本で最も多い2,000点を超える[ ④ ]などの道具が出土しており,[ ⑤ ]が長期間にわたり行われていたことを示している。
三内丸山遺跡, 竪穴建物, 掘立柱建物, 土偶, 祭祀・儀礼
75
[富岡製糸場と絹産業遺産群] 近代的な設備と技術を用い,良質な繭から生糸を生み出していったのは,製糸場で働く[ ]たちであった。多くは全国の士族の子女であり,技術を身につけた[ ]らはやがて各地に戻り製糸の技術指導を行った。
工女
76
[小笠原諸島] 日本列島から約1,000㎞離れた太平洋上にある『小笠原諸島』は,これまでに日本列島や大陸と陸続きになったことがない海洋島のため,多くの固有動植物が独自の進化を遂げながら生息しており,進化は今も続いている。同じく海洋島に属する火山島のガラパゴス諸島やハワイ島とは異なり,小笠原諸島は[ ① ]から誕生した[ ② ]である。[ ③ ]では,プレートの活動により島が誕生した際に地上に露出した[ ④ ]を見ることができる。
プレートの沈み込み, 「海洋性島弧」, 父島, ボニナイト
77
[百舌鳥・古市古墳群] ◎登録基準
(iii), (iv)
78
[『神宿る島』宗像・沖ノ島と関連遺産群] 巨岩の上で祭祀を行う[ ① ]から,庇状になった岩の陰で行う「岩陰祭祀」へ,そこから「半岩陰・半露天祭祀」を経て,平らな場所で祭祀を行う[ ② ]へと,祭祀の形態が変化して行ったことがよくわかる証拠が残されている。それぞれの場所で「銅鏡」や「金製指輪」,「カットグラス碗片」,[ ③ ],[ ④ ]など,約8万点もの各時代の貴重な奉献品が発見され,その全てが国宝に指定されている。沖ノ島が,人の訪れにくい海上の島であることや,島自体をご神体とする信仰の中で上陸が禁忌とされてきたことなどにより,奉献品が「祭祀の証拠」として残されたと考えられる。
「岩上祭祀」, 「露天祭祀」, 「雛形五弦琴」, 「富寿神宝」
79
[奄美大島,徳之島,沖縄島北部及び西表島] ◎登録基準
(x)
80
[平泉-仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群-] 建築・庭園群の理念や意匠などには,仏国土(浄土)が三次元的に表現され,浄土思想を直接的に反映している。また,宗教儀式や民俗芸能等の[ ]の諸要素も受け継がれている。
無形
81
[古都京都の文化財] 三方を囲む[ ① ],[ ② ],[ ③ ]といった山々の自然と調和したこの歴史都市には,平安から江戸までの各時代を象徴する建造物や文化財が数多く残されている。平安遷都から1,200年の節目であった[ ④ ]年,寺社と城の[ ⑤ ]資産が,『古都京都の文化財』として世界遺産に登録された。 京都府京都市の14資産,同じ宇治市の2資産の他,滋賀県大津市の[ ⑥ ]が含まれる。
東山, 西山, 北山, 1994, 17, 延暦寺
82
[平泉-仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群-] 構成資産は,8〜12世紀に日本に広まった仏教の[ ① ]思想の宇宙観に基づいている。6世紀に日本へと伝来した仏教は,日本古来の[ ② ]崇拝と結びついて,独特の展開を見せた。11世紀末には末法思想が広がり,[ ① ]思想が興隆したことで,人々は現世の心の平和はもちろん,死後に仏国土([ ① ])に行き成仏することを切望するようになった。
浄土, 自然
83
[富岡製糸場と絹産業遺産群] 富岡製糸場とこれらの施設は[ ① ]交流を行うことで養蚕技術を発展させ,高品質の生糸を輸出する日本は20世紀初頭には世界一の生糸輸出国となった。 富岡製糸場と3つの関連遺産は,[ ② ]から東アジアへ計画的な技術移転が行われ,日本で改良・発展した製糸技術が世界の服飾産業や文化に大きな影響を与えた点が評価された。
技術, 西欧
84
[ル・コルビュジエの建築作品: 近代建築運動への顕著な貢献] 国立西洋美術館は,実業家の[ ① ]が1920年代までに収集し,戦後フランスに押収されていた[ ② ]と呼ばれる西洋美術品を展示する目的で建設された。専用の美術館建設が,フランスからの寄贈返還の条件であったため,日本政府はル・コルビュジエに建築を依頼し,1959年に国立西洋美術館が開館した。
松方幸次郎, 「松方コレクション」
85
[ル・コルビュジエの建築作品: 近代建築運動への顕著な貢献] 『ル・コルビュジエの建築作品』は,スイス出身の建築家ル・コルビュジエが手がけた7ヵ国に点在する17の建築作品からなる。ル・コルビュジエの提唱する近代建築の概念が,全世界規模に広がり実践されたことを表す[ ① ]であり,複数の大陸にまたがる世界で初めての[ ② ]でもある。
トランスバウンダリー・サイト, トランス・コンチネンタル・サイト
86
[日光の社寺] いっぽう二荒山神社は,日光の[ ① ]信仰の中心を担い,中世には数多くの社殿が建設された。祭神は[ ② ],[ ③ ],[ ④ ]の三神。山内にある神道系の建物のうち,東照宮以外の建造物群の総称が二荒山神社である。社伝によると850年には現在の東照宮鐘楼付近に社殿が移転され,新宮と呼ばれていたという。東照宮の造営に伴い,現在の本殿をはじめとする諸社殿が造営された。[ ⑤ ]で建てられた本社社殿は,寛永の大造替の前から残る貴重な建造物である。
山岳, 大己貴命, 田心姫命, 味耜高彦根命, 八棟造り
87
[百舌鳥・古市古墳群] ヤマト王権が交易を行っていたことは、古市エリアの応神天皇陵古墳の陪冢「誉田丸山古墳」から出土した[ ① ]や,安閑天皇陵古墳(構成資産ではない)から出土した[ ② ]製ガラスの白瑠璃碗などの他,鉄製の馬具や金銅製の装身具などの出土品からも伺える。
竜紋透彫鞍金具, ペルシア
88
[紀伊山地の霊場と参詣道] ◎登録基準
(ii), (iii), (iv), (vi)
89
[百舌鳥・古市古墳群] 現在の古墳は,木に覆われて森のように見えるが,造られた当時は墳丘の斜面には川原石の[ ① ]が敷き詰められ,平らな場所には円筒[ ② ]などが並べられていた。この[ ① ]は日の光りを反射して構造物の偉大さを示すとともに,雨水などから古墳の盛り土を守る意味もあった。また古墳は,円形や三角形,方形などを組み合わせて幾何学的に設計されており,[ ① ]や[ ② ]で装飾され幾何学的にデザインされた古墳は,葬送儀礼の舞台であった。
葺石, 埴輪
90
[広島平和記念碑(原爆ドーム)] ◎登録基準
(vi)
91
[白神山地] ◎登録基準
(ix)
92
[広島平和記念碑(原爆ドーム)] その後,廃墟となっていた建物は「原爆ドーム」と呼ばれるようになった。崩壊の危険性に加え,悲惨な出来事を思い出したくないという意見もあり,取り壊しも検討されたが,被爆の惨状を後世に伝えるための保存運動が起こり,広島市議会は1966年に原爆ドームの永久保存を決定した。さらに,日本が[ ① ]を締結した[ ② ]年以降,原爆ドームを世界遺産にしようとする世論が盛り上がると,1994年には国会請願が採択され,翌年,国の史跡に指定された。
世界遺産条約, 1992
93
[琉球王国のグスク及び関連遺産群] 琉球には,およそ300余りのグスクや関連遺産が残されており,そのうちの[ ① ]のグスク跡と関連する[ ② ]の遺産が世界遺産に登録されている。その中で最大のものは,琉球王国の成立以来,国王の居城かつ政治の中心地であった[ ③ ]である。1945年にアメリカ軍が進攻した沖縄戦で壮麗な建造物群はすべて焼失し,城壁と建物の基壇である地下遺構だけが当時のまま残されている。戦後復元された城内では正殿が西を向かって建ち,その前に[ ④ ]と呼ばれる儀式の場がある。その周囲を1,000m以上もある城壁が地形に合わせた曲線を描きつつ囲んでいる。
5つ, 4つ, 首里城跡, 御庭
94
[紀伊山地の霊場と参詣道]
吉野山, 金峯山寺, 大峰山寺, 吉野水分神社, 吉水神社, 金峯神社
95
[古都奈良の文化財] ◎登録基準
(ii), (iii), (iv), (vi)
96
[富士山-信仰の対象と芸術の源泉] ◎登録基準
(iii), (vi)
97
[小笠原諸島] 世界遺産の登録範囲は小笠原諸島の陸域(ただし父島・母島の集落近郊,硫黄島,沖ノ鳥島,南鳥島を除く)と,父島および母島周辺などの海域の一部で,その面積は79.39㎢に及ぶ。これらの島々の生態系は,島によって大きく異なる。ある生態系が島に定着するには,その起源となる種が島に到着することが不可欠であるが,当然,島ごとにばらつきが出てくる。また,島に定着した生物は,他の地域の生物と交わることがないため,独自に進化し種分化が起こる。このように起源が同じ生物群が,異なる環境に適応して生理的または形態的に分化することを[ ① ]という。とりわけ小笠原諸島においては,[ ② ]と[ ③ ]が高い固有率を示しており,[ ② ]では,葉の表に棲むか裏に棲むかといった違いで,異なる進化を遂げた例もある。小笠原諸島の面積の狭さを考えると異例ともいえる。小笠原諸島で自然に分布している昆虫の約25%,[ ② ]の約95%が固有種であるのに対し,哺乳類の固有種は絶滅危惧種の[ ④ ]のみである。
適応放散, 陸産貝類, 維管束植物, オガサワラオオコウモリ
98
[紀伊山地の霊場と参詣道]
吉野・大峯, 熊野三山, 高野山