問題一覧
1
[北海道・北東北の縄文遺跡群] ◎登録基準
(iii), (v)
2
[平泉-仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群-] ◎登録基準
(ii), (vi)
3
[日光の社寺] ◎登録基準
(i), (iv), (vi)
4
[富岡製糸場と絹産業遺産群] ◎登録基準
(ii), (iv)
5
[ル・コルビュジエの建築作品: 近代建築運動への顕著な貢献] ◎登録基準
(i), (ii), (vi)
6
[富士山-信仰の対象と芸術の源泉] ◎登録基準
(iii), (vi)
7
[白川郷・五箇山の合掌造り集落] ◎登録基準
(iv), (v)
8
[古都京都の文化財] ◎登録基準
(ii), (iv)
9
[古都奈良の文化財] ◎登録基準
(ii), (iii), (iv), (vi)
10
[法隆寺地域の仏教建造物群] ◎登録基準
(i), (ii), (iv), (vi)
11
[紀伊山地の霊場と参詣道] ◎登録基準
(ii), (iii), (iv), (vi)
12
[百舌鳥・古市古墳群] ◎登録基準
(iii), (iv)
13
[姫路城] ◎登録基準
(i), (iv)
14
[石見銀山遺跡とその文化的景観] ◎登録基準
(ii), (iii), (v)
15
[広島平和記念碑(原爆ドーム)] ◎登録基準
(vi)
16
[厳島神社] ◎登録基準
(i), (ii), (iv), (vi)
17
[『神宿る島』宗像・沖ノ島と関連遺産群] ◎登録基準
(ii), (iii)
18
[長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産] ◎登録基準
(iii)
19
[明治日本の産業革命遺産 製鉄・製鋼,造船,石炭産業] ◎登録基準
(ii), (iv)
20
[琉球王国のグスク及び関連遺産群] ◎登録基準
(ii), (iii), (vi)
21
[知床] ◎登録基準
(ix), (x)
22
[白神山地] ◎登録基準
(ix)
23
[小笠原諸島] ◎登録基準
(ix)
24
[屋久島] ◎登録基準
(vii), (ix)
25
[奄美大島,徳之島,沖縄島北部及び西表島] ◎登録基準
(x)
26
[北海道・北東北の縄文遺跡群] 北海道,青森県,岩手県,秋田県に位置する,人類の農耕社会以前の生活の在り方を示す,17の考古遺跡で構成されている。 縄文時代と呼ばれる紀元前13,000年から紀元前400年の長期にわたり日本において継続した[ ① ]・[ ② ]・[ ③ ]による[ ④ ]の開始と発展,成熟を示している。
狩猟, 漁労, 採集, 定住
27
[北海道・北東北の縄文遺跡群] 縄文人は,後の農耕社会のように土地を大規模に改変することなく,気候の変化に適応した生活を維持した。 食料を安定確保するため,[ ① ]が遡上する川の近くや,[ ② ]類を拾いやすい干潟の近く,[ ③ ]の群生地など多様な地に集落を築いた。立地に応じて,食料を得るための技術や道具類も発達させた。
サケ, 貝, クリ
28
[北海道・北東北の縄文遺跡群] 縄文人は定住生活の初期段階から精緻で複雑な[ ① ]を発展させていた。[ ② ]を作ったり,祭祀や儀礼のために使われたと推測される[ ③ ]や[ ④ ],[ ⑤ ]を築き,世代間や集落間で社会的なつながりを確認した。
精神文化, 墓, 環状列石, 盛り土, 貝塚
29
[北海道・北東北の縄文遺跡群] 『北海道・北東北の縄文遺跡群』では,縄文時代を定住の[ ]・[ ]・[ ]の過程を示す3つの大きなステージに区分。さらにそれぞれを2つに小区分することで6つのステージに分け,構成資産を位置づけている。
開始, 発展, 成熟
30
[北海道・北東北の縄文遺跡] ステージ1「定住の開始」の「居住地の形成」にあたるのが青森県の「[ ① ]」である。ここからは旧石器時代の終わりごろの特徴をもつ石器群とともに,土器片が出土している。北海道の「[ ② ]」は「定住開始」の「集落の成立」にあたる遺跡で,耐久性があり長期間居住できる竪穴建物の出現を示している。
大平山元遺跡, 垣ノ島遺跡
31
[北海道・北東北の縄文遺跡群] ステージ2「定住の発展」の「拠点集落の出現」にあたるのが青森県の「[ ① ]」である。集落には計画的に,[ ② ]や[ ③ ],列状に並んだ土坑墓,埋設土器,盛土,貯蔵穴,道路,大型建物などが配置されている。また,いくつも形成された大規模な盛土からは,日本で最も多い2,000点を超える[ ④ ]などの道具が出土しており,[ ⑤ ]が長期間にわたり行われていたことを示している。
三内丸山遺跡, 竪穴建物, 掘立柱建物, 土偶, 祭祀・儀礼
32
[北海道・北東北の縄文遺跡群] ステージ3「定住の成熟」の「共同の祭祀場と墓地の進出」にあたるのが秋田県の 「[ ]」である。 最大径52mの万座と最大径44mの野中堂の2つの環状列石からなり,大小の川原石を組み合わせたいくつもの配石遺構を環状に配置して作られている。
大湯環状列石
33
[北海道・北東北の縄文遺跡群] 北海道,青森県,岩手県,秋田県の関係自治体は,資産全体の普遍的価値を保全するための基本方針となる包括的保存計画を策定している。これに基づいて,[ ① ]世界遺産本部などを設置し,国の指導と関係機関との連携の下で,[ ② ]の構成資産の保存・管理に取り組んでいる。
縄文遺跡群, 17
34
[平泉-仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群-] [ ① ],[ ② ],[ ③ ]跡,[ ④ ]跡,[ ⑤ ]の5資産からなる『平泉-仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群-』は,この地の豪族であった奥州藤原氏ゆかりの遺産。東北に極楽浄土を創り上げようとした[ ⑥ ]の思いが代々受け継がれ,11世紀後半から12世紀後半の約100年間にわたり平泉は文化の隆盛を誇った。[ ⑥ ]は[ ⑦ ]の勅命を受けて[ ① ]を再興し,金色堂を建立した。2代[ ⑧ ]は[ ② ]を再興。[ ③ ]は[ ⑧ ]の妻が建立し,[ ④ ]は3代[ ⑨ ]が造営している。
中尊寺, 毛越寺, 観自在王院, 無量光院, 金鶏山, 藤原清衡, 堀河天皇, 基衡, 秀衡
35
[平泉-仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群-] 藤原氏は政治の主体が貴族政治から武家政治へ転換していく時代のなか,奥州で産出される[ ]の力を背景に,軍事に頼らない平和的な政治をこの地に実現させた。この遺産は,平泉が東北地方の行政の中心地であり,さらには京都と肩を並べるほどの都市であったことを今に伝えている。
金
36
[平泉-仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群-] 構成資産は,8〜12世紀に日本に広まった仏教の[ ① ]思想の宇宙観に基づいている。6世紀に日本へと伝来した仏教は,日本古来の[ ② ]崇拝と結びついて,独特の展開を見せた。11世紀末には末法思想が広がり,[ ① ]思想が興隆したことで,人々は現世の心の平和はもちろん,死後に仏国土([ ① ])に行き成仏することを切望するようになった。
浄土, 自然
37
[平泉-仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群-] 浄土思想は日本人の死生観の醸成に重要な役割を果たし,当時の建築や庭園にもその思想があらわれている。[ ① ]は,[ ② ]の仏国土(浄土)を表現した仏堂建築であり,自然崇拝と仏教の融合は,庭園設計と造園によって仏国土(浄土)を現世に創り上げるという,日本独自の方法を編み出した。
金色堂, 阿弥陀如来
38
[平泉-仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群-] 建築・庭園群の理念や意匠などには,仏国土(浄土)が三次元的に表現され,浄土思想を直接的に反映している。また,宗教儀式や民俗芸能等の[ ]の諸要素も受け継がれている。
無形
39
[平泉-仏国土(浄土)を表す建築・庭園及び考古学的遺跡群-] 仏教とともに[ ① ]造営や作庭の技術も伝来したが,これが日本古来の水辺の祭祀場における水景の理念と結びついて,独自の[ ② ]を完成させた。このような[ ② ]は,東アジアにおける建築・作庭技術の価値観の交流を示している。
伽藍, 浄土庭園
40
[日光の社寺] 東照宮と,東照宮以外の[ ① ]の建造物の総称である[ ② ],そして仏教関連の建造物を総称する[ ③ ]の2社1寺に属する103棟の建造物群と周辺の自然環境が『日光の社寺』として登録されている。[ ④ ]と周囲の[ ⑤ ]が調和した景観からは,日本古来の[ ① ]思想が色濃くあらわれていると評価された。
神道, 二荒山神社, 輪王寺, 建造物, 自然
41
[日光の社寺] [ ① ]の霊場である日光山の始まりは,修験者の[ ② ]が開山した8世紀末にさかのぼる。室町時代には,数百の僧坊が立ち並ぶ霊場としてにぎわいを見せたが,戦国時代に[ ③ ]と対立したことで衰退した。
神仏習合, 勝道上人, 豊臣秀吉
42
[日光の社寺] 江戸時代,徳川家康の側近であった僧[ ① ]が家康の神霊を祀るため,日光山に東照宮の前身となる[ ② ]を建設した。この際,[ ① ]は荒廃していた寺社の再興にも尽力し,日光は徳川幕府の聖地として再び信仰を集めることとなった。[ ② ]はその後,江戸幕府3代将軍の徳川家光の時代に1年5ヵ月に及ぶ[ ③ ]と呼ばれる大改修を受け,現在のような[ ④ ]を主体とする姿となった(1645年,東照宮に改称)。この大造替で[ ⑤ ]や[ ⑥ ]で知られる[ ⑦ ]など,当時最高の技術を用いた芸術性の高い建物がつくられた。[ ⑤ ]は東照宮を代表する建築物で,高さ11.1m,横幅7mの大きさを誇り,500を超える彫刻で飾られている。
天海, 東照社, 「寛永の大造替」, 権現造り, 陽明門, 三猿, 神厩舎
43
[日光の社寺] いっぽう二荒山神社は,日光の[ ① ]信仰の中心を担い,中世には数多くの社殿が建設された。祭神は[ ② ],[ ③ ],[ ④ ]の三神。山内にある神道系の建物のうち,東照宮以外の建造物群の総称が二荒山神社である。社伝によると850年には現在の東照宮鐘楼付近に社殿が移転され,新宮と呼ばれていたという。東照宮の造営に伴い,現在の本殿をはじめとする諸社殿が造営された。[ ⑤ ]で建てられた本社社殿は,寛永の大造替の前から残る貴重な建造物である。
山岳, 大己貴命, 田心姫命, 味耜高彦根命, 八棟造り
44
[日光の社寺] 輪王寺は,勝道上人が766年に創建した[ ① ]を起源にもち,天海が復興した60棟あまりの建造物を含む。1653年には,家光の霊廟である[ ② ]が造営され,幕府の庇護を受けた。院内の[ ③ ]には1643年に没した天海が祀られている。また,本堂の三仏堂は日光山内最大の建造物で,[ ④ ],[ ⑤ ],[ ⑥ ]が祀られている。明治に入ってからの[ ⑦ ]によって現在の場所に移転された。
四本龍寺, 大猷院, 慈眼堂, 千手観音, 阿弥陀如来, 馬頭観音, 神仏分離令
45
[日光の社寺] 明治政府が,[ ① ]を国家宗教にすることを目指して発布した[ ② ]により,山内の建造物は東照宮と二荒山神社,輪王寺の2社1寺に分けられた。
神道, 神仏分離令
46
[富岡製糸場と絹産業遺産群] 『富岡製糸場と絹産業遺産群』は明治期の日本における技術革新と近代化を示す産業遺産群である。「富岡製糸場」と[ ① ],[ ② ],[ ③ ]の4資産からなる。日本初の官営器械製糸場である富岡製糸場は,西欧の技術を取り入れ,技術者を養成することで日本の絹産業の近代化を大きく牽引した。
「田島弥平旧宅」, 「高山社跡」, 「荒船風穴」
47
[富岡製糸場と絹産業遺産] 江戸末期,鎖国政策を終えた日本は伝統的に生産されてきた[ ① ]を輸出品として貿易に乗り出していた。しかし,増える需要に対して品質基準を満たす[ ① ]の生産が追いつかない状態であった。明治維新を経て[ ② ]による「富国強兵」を掲げた明治政府は,[ ① ]を引き続き主要な輸出品とし,[ ① ]の品質改善と生産向上の技術革新に取り組んだ。
生糸, 「殖産興業」
48
[富岡製糸場と絹産業遺産群] 新たな製糸場の建設が必要とされたため,高い製糸技術をもつフランスから技師[ ① ]が招聘され,工場建設地には広い土地と豊かな水を誇り,養蚕が盛んであったが富岡が選ばれた。 工場建設には日本の伝統技術も取り入れられ,日本古来の木造の柱からなる骨組みに西欧由来のレンガを組み合わせる[ ② ]など,和洋折衷の様式となっている。また,三角形の屋根組みをもつ[ ③ ]を採用し,少しでも多くの繰糸器を工場内に置けるよう中央に柱のない広い空間を確保する工夫がなされた。富岡製糸場は1872年に操業を開始すると,高品質な生系を輸出し世界中から高い評価を得た。
ポール・ブリュナ, 木骨レンガ造, トラス構造
49
[富岡製糸場と絹産業遺産群] 近代的な設備と技術を用い,良質な繭から生糸を生み出していったのは,製糸場で働く[ ]たちであった。多くは全国の士族の子女であり,技術を身につけた[ ]らはやがて各地に戻り製糸の技術指導を行った。
工女
50
[富岡製糸場と絹産業遺産群] 同じ頃,周辺の地域では技術の研究が進められた。養蚕農家の田島弥平は自然の通風を重視した養蚕法である[ ① ]を確立した。越屋根をもつ[ ② ]は近代養蚕農家建築の原点とされる。また[ ③ ]は温度と湿度を管理する養蚕法である[ ④ ]を確立し,生家である[ ⑤ ]で研究と指導を行った。こうした技術革新により製糸業が発展すると繭の増産と安定供給が求められるようになり,天然の風穴の冷風を利用した国内最大規模の蚕種貯蔵施設である[ ⑥ ]が作られた。
「清涼育」, 「田島弥平旧宅」, 高山長五郎, 「清温育」, 「高山社跡」, 「荒船風穴」
51
[富岡製糸場と絹産業遺産群] 富岡製糸場とこれらの施設は[ ① ]交流を行うことで養蚕技術を発展させ,高品質の生糸を輸出する日本は20世紀初頭には世界一の生糸輸出国となった。 富岡製糸場と3つの関連遺産は,[ ② ]から東アジアへ計画的な技術移転が行われ,日本で改良・発展した製糸技術が世界の服飾産業や文化に大きな影響を与えた点が評価された。
技術, 西欧
52
[ル・コルビュジエの建築作品: 近代建築運動への顕著な貢献] 『ル・コルビュジエの建築作品』は,スイス出身の建築家ル・コルビュジエが手がけた7ヵ国に点在する17の建築作品からなる。ル・コルビュジエの提唱する近代建築の概念が,全世界規模に広がり実践されたことを表す[ ① ]であり,複数の大陸にまたがる世界で初めての[ ② ]でもある。
トランスバウンダリー・サイト, トランス・コンチネンタル・サイト
53
[ル・コルビュジエの建築作品: 近代建築運動への顕著な貢献] 近代建築の3大巨匠に数えられるル・コルビュジエは[ ① ]や[ ② ]などの新たな概念を打ち出し,20世紀以降の建築へ大きな影響を与えた。また公共住宅や都市設計にも優れた手腕をみせた。五原則のひとつ[ ③ ]はフランス語で杭を意味し,建物の一階部分の柱で建物を支えて空中に浮くような軽やかな造形を生み出す工法。フランスにある代表作[ ④ ]に見られる他,日本の[ ⑤ ]本館にも採用されている。
「近代建築の五原則」, 「モデュロール」, 「ピロティ」, サヴォア邸, 国立西洋美術館
54
[ル・コルビュジエの建築作品: 近代建築運動への顕著な貢献] 国立西洋美術館は,実業家の[ ① ]が1920年代までに収集し,戦後フランスに押収されていた[ ② ]と呼ばれる西洋美術品を展示する目的で建設された。専用の美術館建設が,フランスからの寄贈返還の条件であったため,日本政府はル・コルビュジエに建築を依頼し,1959年に国立西洋美術館が開館した。
松方幸次郎, 「松方コレクション」
55
[ル・コルビュジエの建築作品: 近代建築運動への顕著な貢献] [ ① ]という概念が採用され,巻貝が中心から外側に向かうように,展示作品が増えても外側に展示室を追加できる構造になっている。天井の高さや柱の間隔,外壁のタイルのサイズなどはル・コルビュジェ独自の寸法[ ② ]に則っており,美的な調和と快適性をあわせもつ展示空間が実現した。
「無限成長美術館」, 「モデュロール」
56
[富士山-信仰の対象と芸術の源泉] 文化遺産として世界遺産に登録された富士山は,古くから噴火を繰り返す火山として恐れられ,また富士山に住まうとされていた神仏への信仰から多くの人々に敬われてきた。人々は噴火を鎮めるために[ ① ]を建立するなど,神々に祈りを捧げる一方で,湧き水をはじめ富士山がもたらす自然の恵みを享受し,長年にわたってこの火山と共生してきた。平安時代後期になると富士山の噴火活動は沈静化し,[ ② ]や[ ③ ]などが結びついた[ ④ ]の霊場として,多くの修験者を集めるようになった。
浅間神社, 山岳信仰, 密教, 修験道
57
[富士山-信仰の対象と芸術の源泉] 富士山に対する信仰は,遠くから拝む[ ① ]だけでなく,ご神体である富士山そのものに登ることが祈りとなる[ ② ]が古くから行われてきた点も特徴で,江戸時代には富士山を巡礼して登拝する[ ③ ]が民間信仰として広まった。
「遥拝」, 「登拝」, 「富士講」
58
[富士山-信仰の対象と芸術の源泉] また,国内外を問わずさまざまな芸術作品に多大な影響を与えたことでも評価されており,19世紀には[ ① ]の「富嶽三十六景」や[ ② ]の「不二三十六景」など富士山をモチーフとした浮世絵が多く描かれた。また浮世絵は,[ ③ ]や[ ④ ]など[ ⑤ ]の画家にも影響を与え,日本の文化の象徴的存在としても広く認知されている。
葛飾北斎, 歌川広重, ゴッホ, モネ, 印象派
59
[富士山-信仰の対象と芸術の源泉] 構成資産は登山道や神社,湖や池に滝,遺跡や旧跡などの[ ① ]資産で,富士山を望む景勝地として,静岡市の[ ② ]も登録された。
25, 「三保松原」
60
[白川郷・五箇山の合掌造り集落] 岐阜県大野郡の白川村荻町(白川郷)と富山県南砺市の[ ① ]と[ ② ](五箇山)は,江戸末期から明治時代に建てられた伝統的な合掌造り家屋が多く残る集落群である。 荻町に残る合掌造り家屋113棟のうち59棟,[ ① ]では9棟,[ ② ]では20棟が世界遺産に登録されている。庄川流域に位置するこの地域は急傾斜の山と谷に囲まれ,かつ日本有数の[ ③ ]であるため,かつては周辺地域と隔絶されていた。そのため家屋の建築様式から産業,家族制度に至るまで独自の生活文化が育まれた。
相倉, 菅沼, 豪雪地帯
61
[白川郷・五箇山の合掌造り集落] 合掌造り家屋の最大の特徴である[ ① ]の大屋根は,積雪を防ぐため45〜60度の傾斜をもつ。また雪の重みと風の強さに耐えるため部材の結合には釘などの金属は一切使用せず,[ ② ]でしばって固定する工法が用いられるなど,厳しい自然環境から家屋を守る工夫が随所に施されている。家屋の構造は3〜5階建てと,一般の日本家屋に比べて規模が大きい。
茅葺き, 縄
62
[白川郷・五箇山の合掌造り集落] 要因のひとつに,[ ① ]に適した土地が少ないことが挙げられる。明治期までこの地域では農地の分散をさけるため,住民20人〜30人で暮らす[ ② ]が守られていた。またこの屋内空間を利用して行われていた[ ③ ]や[ ④ ],[ ⑤ ](火薬の原料)の生産などの[ ⑥ ]は,[ ① ]に代わる貴重な収入源であった。
農耕, 大家族制, 養蚕, 紙漉, 塩硝, 家内制手工業
63
[白川郷・五箇山の合掌造り集落] 大集落([ ① ]),中集落([ ② ]),小集落([ ③ ])といった規模の異なる遺産が登録されているため,それぞれの集落の共通性と独自性を確認することができる。
白川郷, 五箇山・相倉, 五箇山・菅沼
64
[白川郷・五箇山の合掌造り集落] 共通点のひとつに,[ ① ]と呼ばれる相互扶助組織がある。白川郷と五箇山では,伝統的に隣人同士の結束力が強かった。これは[ ② ]への信仰心がもとになっているが,厳しい自然環境も大きく作用している。豪雪地帯での生活は家族だけでは成り立ちにくく,[ ① ]による協力体制が発展した。とりわけ茅葺き屋根のメンテナンスには多くの人手が必要で,30〜40年に一度行われる葺き替えに際しては,[ ① ]が必要不可欠だった。白川郷では村民100〜200人が総出となり,1日で葺き替えを終わらせたという。
「結」, 浄土真宗
65
[白川郷・五箇山の合掌造り集落] 一方,集落による相違点としては,[ ① ]の有無が挙げられる。五箇山の家屋には屋根に[ ① ]が設けられているが,白川郷には[ ① ]が見られない。雪下ろし作業の際に[ ① ]があると邪魔になるが,五箇山の集落では1年中囲炉裏の火を絶やさないため,[ ① ]がないと室内に煙が充満してしまう。また,入口にも「[ ② ]」と「[ ③ ]」の違いがある。白川郷では,屋根がある側に入口をもつ[ ② ]の家が主流。反対に五箇山,特に菅沼では,[ ④ ]側に入口をもつ[ ③ ]の家屋が多く,庇をつけた[ ⑤ ]風の外見の家屋が一般的である。
煙抜き, 「平入り」, 「妻入り」, 切妻, 入母屋
66
[古都京都の文化財] 京都は794年,[ ① ]が[ ② ]からの遷都を行い平安京が誕生して以来,およそ1,000年にわたり,日本の首都として繁栄した。今も各時代の歴史と文化が息づき,日本の伝統文化を世界に発信する古都である。
桓武天皇, 長岡京
67
[古都京都の文化財] 三方を囲む[ ① ],[ ② ],[ ③ ]といった山々の自然と調和したこの歴史都市には,平安から江戸までの各時代を象徴する建造物や文化財が数多く残されている。平安遷都から1,200年の節目であった[ ④ ]年,寺社と城の[ ⑤ ]資産が,『古都京都の文化財』として世界遺産に登録された。 京都府京都市の14資産,同じ宇治市の2資産の他,滋賀県大津市の[ ⑥ ]が含まれる。
東山, 西山, 北山, 1994, 17, 延暦寺
68
[古都京都の文化財] 平等院など平安時代の遺産からは[ ① ]社会の,鎌倉時代の高山寺からは[ ② ]社会の文化がうかがえる。つづく室町時代には[ ① ]文化と[ ② ]文化が融合し,天龍寺や慈照寺(銀閣)などに見られる[ ③ ]の美意識が重視された。その後建てられた本願寺は,華麗な[ ④ ]文化を代表する建造物である。教王護国寺(東寺)や延暦寺などのように,災害や戦災で一度は焼失した建造物も多い。しかし時の権力者や,[ ⑤ ]と呼ばれる有力市民らの手で再建・保存され,創建当時に近い姿を残すことから,世界的にも極めて高い評価を得ている。各時代を代表する建築様式は,のちに全国各地に伝わり,日本建築の発展に多大な影響を及ぼした。また西芳寺などに見られる「[ ⑥ ]」や「[ ⑦ ]」など,自然と調和した美を追求する日本独自の庭園様式は,国内のみならず海外の庭園設計にも影響を与えた。
公家, 武家, 「わび」「さび」, 桃山, 町衆, 池泉回遊式庭園, 枯山水
69
[古都奈良の文化財] 710年からの74年間,日本の都平城京として栄えた歴史を伝える歴史的遺構が『古都奈良の文化財』である。[ ① ]によって唐の[ ② ]をモデルに造営された平城京は,道が碁盤の目状に配された計画都市。 当時の推定人口は10万人で,日本の政治,経済の中枢であるとともに,同時代に花開いた天平文化の中心地であった。世界遺産には,[ ③ ],[ ④ ],[ ⑤ ](極楽坊),[ ⑥ ],[ ⑦ ],[ ⑧ ]の6つの寺社と,奈良時代をしのばせる特別史跡の[ ⑨ ],特別天然記念物の[ ⑩ ]の8資産が登録されている。これらは各資産の個別の価値が認められたのに加えて,8資産全体で奈良時代の歴史と文化を物語っていることも評価された。
元明天皇, 長安, 東大寺, 興福寺, 元興寺, 薬師寺, 唐招提寺, 春日大社, 平城宮跡, 春日山原始林
70
[古都奈良の文化財] 奈良に点在する寺社は,天皇家や[ ① ]と密接に結びつくものが多い。どれも計画的に配置された木造建築物で,8世紀の文化,芸術,技術の水準の高さを示している。また平城京の中心であった平城宮跡は,当時の都市設計や生活様式を伝える重要な史料とされ,現在も発掘調査や建造物の復旧作業が進められている。こうした資産群からは,日本の文化が[ ② ]や[ ③ ]との交流によって大きく発展していったこと,また奈良時代が今日までつづく日本の[ ④ ]国家や文化の基礎を形成した,極めて重要な時代であったことを知ることができる。
藤原氏, 中国, 朝鮮, 律令
71
[古都奈良の文化財] 文化財として世界遺産に登録された春日山原始林は,春日大社の[ ① ](神社の森)として古くから聖域として守られてきた。 841年に神域となって以来,1,000年以上にもわたって人の手が加えられていない自然が残されている。[ ② ]に根ざした日本固有の宗教観をあらわす例として,その価値が認められている。
社叢, 自然崇拝
72
[古都奈良の文化財]
東大寺, 興福寺, 元興寺, 薬師寺, 唐招提寺, 春日大社, 春日山原始林, 平城宮跡
73
[法隆寺地域の仏教建造物群] 聖徳太子ゆかりの地である奈良県生駒郡斑鳩町にある法隆寺の47棟と,[ ① ]の1棟が世界遺産に登録されている。607年に厩戸王(聖徳太子)と推古天皇によって建立された[ ② ](斑鳩寺)を起源とする法隆寺は,西院と東院のふたつの伽藍群によって構成される。西院の[ ③ ]や[ ④ ]は現存する世界最古の木造建築としても知られる。
法起寺, 若草伽藍, 金堂, 五重塔
74
[法隆寺地域の仏教建造物群] 西院伽藍は,東に金堂,西に五重塔が並び,この伽藍配置を[ ① ]と呼ぶ。高さ31.6mの五重塔は,上に行くほど屋根が小さく塔身も細くなっている。この姿は視覚的にも安定感があり,デザイン性に対する評価も高い。また五重塔の中心を通るヒノキの[ ② ]は,屋根から独立しており,揺れに強い耐震設計となっている。西院の入口にあたる法隆寺中門の左右には,阿形と吽形2体の[ ③ ]が置かれている。阿形像は塑像による現存最古の力士像として知られる。
「法隆寺式伽藍配置」, 「心柱」, 金剛力士像
75
[法隆寺地域の仏教建造物群] 西院の金堂や五重塔,中門は7世紀から8世紀に建立され,[ ① ]の時代の影響が確認できる。また,8世紀に建立された東院の[ ② ],[ ③ ]などは,[ ④ ]の影響がよくあらわれている。このように法隆寺地域の仏教建造物群からは大陸と日本の交流の様子がうかがえる。
北魏, 夢殿, 伝法堂, 唐
76
[法隆寺地域の仏教建造物群] また一部の建築では,遠く[ ① ]を渡って伝来したと考えられる様式も確認できる。西院の金堂や五重塔の柱には,パルテノン神殿などのギリシャ建築にも多く見られる,柱の中ほどを太くした[ ② ]と呼ばれる技法が用いられている。これは視覚的な安定感を与えるもので,飛鳥時代の日本に[ ③ ]文化が伝わっていたとも考えられる。
シルク・ロード, 「エンタシス」, ヘレニズム
77
[法隆寺地域の仏教建造物群] 一方,太子の遺言で建立された寺院を起源とする[ ① ]の境内には,706年に創建された日本最古の[ ② ]が,創建当時のままの姿で残されている。また[ ① ]の伽藍配置は,金堂と塔の配置が法隆寺の伽藍配置と逆になったものである。
法起寺, 三重塔
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[法隆寺地域の仏教建造物群] この地域の建造物群は,日本に[ ]が伝わって間もない飛鳥時代の建築様式を示しており,中国や朝鮮の影響を受けながらも独自に発展した日本の[ ]文化の発展過程を知るうえでも貴重な史料となっている。
仏教
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[紀伊山地の霊場と参詣道] 和歌山県を中心に3県にまたがる紀伊山地には,古代から信仰を集めた霊場が点在している。世界遺産には,[ ① ],[ ② ],[ ③ ]の3つの霊場と,それらを結ぶ[ ④ ]が登録されている。
吉野・大峯, 熊野三山, 高野山, 参詣道
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[紀伊山地の霊場と参詣道] これらの霊場と参詣道は,日本古来の自然崇拝から生まれた神道と,大陸伝来の仏教が融合した[ ① ]の思想をよくあらわしている。古来紀伊山地は神々が宿る特別な地と考えられてきたが,大陸から仏教が伝来して以来,紀伊山地の山々は浄土に見立てられ,特殊な能力を得るための[ ② ]の霊場となった。
神仏習合, 山岳修行
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[紀伊山地の霊場と参詣道] [ ① ],[ ② ],[ ③ ]を中心とする熊野三山は神仏習合の典型の地で,平安時代には天皇や貴族による[ ④ ]が行われ,以降も歴代天皇や貴族の崇拝を受けてきた。江戸時代以降は庶民の間にも広まった。また[ ⑤ ]や[ ⑥ ]などがある吉野・大峯には山岳修行者が集まり,次第に[ ⑦ ]の聖地となっていった。高野山は9世紀初め,真言密教を日本にもたらした僧空海によって開かれた。山上には金剛峯寺を中心に多くの子院が立ち並び,宗教都市としての性格を帯びるようになった。
熊野本宮大社, 熊野速玉大社, 熊野那智大社, 「熊野詣」, 金峯山寺, 大峰山寺, 修験道
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[紀伊山地の霊場と参詣道] このように紀伊山地は古くから聖地としてあがめられてきたため,各霊場の神社や仏教寺院などの建造物と,周辺の森林や小川,滝といった自然環境とが一体となった景観を形成している。この景観が1,000年以上保存されている点が高く評価され,日本で初めて[ ]が認められる遺産となった。つまりこの遺産は単なる「社寺と道」ではなく,あくまで「山岳信仰の霊場と山岳修行の道」であり,紀伊山地の自然があってこそ成立しているのである。
文化的景観
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[紀伊山地の霊場と参詣道]
吉野・大峯, 熊野三山, 高野山
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[紀伊山地の霊場と参詣道]
吉野山, 金峯山寺, 大峰山寺, 吉野水分神社, 吉水神社, 金峯神社
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[紀伊山地の霊場と参詣道]
熊野本宮大社, 熊野速玉大社, 熊野那智大社, 那智大滝, 青岸渡寺, 補陀洛山寺, 那智原始林
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[紀伊山地の霊場と参詣道]
金剛峯寺, 丹生都比売神社, 慈尊院
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[紀伊山地の霊場と参詣道]
大峯奥駈道, 熊野参詣道, 高野参詣道
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[百舌鳥・古市古墳群] 3世紀中頃から6世紀後半にかけて,日本各地で土を高く盛り上げた墳丘をもつ古墳が造られた。中でも,大阪府の百舌鳥エリア(堺市)と古市エリア(羽曳野市,藤井寺市)の辺りには,4世紀後半から6世紀前半頃にかけて,日本最大の古墳を含む様々な大きさや形の古墳が造られ,当時の[ ]の権力の大きさを今に伝えている。
ヤマト王権
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[百舌鳥・古市古墳群] 構成資産は,日本最大の「[ ① ](大仙古墳)」や日本第3位の墳長を誇る「[ ② ](百舌陵山古墳)」のある百舌鳥エリアの23基,体積が日本一の「[ ③ ](誉田御廟山古墳)」や水鳥形埴輪などが発掘された「[ ④ ]」のある古市エリアの26基の,合計45件49基からなる。資産の件数と古墳の数が異なるのは,[ ① ]と[ ③ ]の周囲にある[ ⑤ ]と呼ばれる小さな古墳を,それぞれまとめて1件と数えているため。
仁徳天皇陵古墳, 履中天皇陵古墳, 応神天皇陵古墳, 津堂城山古墳, 陪冢
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[百舌鳥・古市古墳群] 現在の古墳は,木に覆われて森のように見えるが,造られた当時は墳丘の斜面には川原石の[ ① ]が敷き詰められ,平らな場所には円筒[ ② ]などが並べられていた。この[ ① ]は日の光りを反射して構造物の偉大さを示すとともに,雨水などから古墳の盛り土を守る意味もあった。また古墳は,円形や三角形,方形などを組み合わせて幾何学的に設計されており,[ ① ]や[ ② ]で装飾され幾何学的にデザインされた古墳は,葬送儀礼の舞台であった。
葺石, 埴輪
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[百舌鳥・古市古墳群] 一方で,ヤマト王権は東アジアの国々と交易を行っており,この地域の古墳は巨大古墳が造られる[ ① ]があることを交易相手の国々に対して示すものでもあった。 そのため,古墳群は海上交易の窓口であった[ ② ]を望む台地の上に造られ,仁徳天皇陵古墳や履中天皇陵古墳などは交易船からよく見えるように墳丘の一番長い辺を[ ② ]に向けている。
権力構造, 大阪湾
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[百舌鳥・古市古墳群] ヤマト王権が交易を行っていたことは、古市エリアの応神天皇陵古墳の陪冢「誉田丸山古墳」から出土した[ ① ]や,安閑天皇陵古墳(構成資産ではない)から出土した[ ② ]製ガラスの白瑠璃碗などの他,鉄製の馬具や金銅製の装身具などの出土品からも伺える。
竜紋透彫鞍金具, ペルシア
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[百舌鳥・古市古墳群] 百舌鳥エリアには,堺市内の半径2㎞ほどの範囲に4世紀後半から5世紀後半に造られた古墳が広がっている。「仁徳天皇陵古墳(大仙古墳)」は,5世紀前半に造られた三重の濠をもつ前方後円墳で,周囲には10基以上の陪冢があり,ヤマト王権の強力な権力構造を証明している。 仁徳天皇陵古墳の南東にある5世紀前半に造られた[ ① ]からは,[ ② ]が出土した。[ ① ]は1955年に開発によって取り崩される危機にあったが,市民を中心とした保護運動によって守られた経緯があり,古墳保存のシンボルともなっている。
「いたすけ古墳」, 冑形埴輪
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[百舌鳥・古市古墳] 古市エリアには,百舌鳥エリアの東側の羽曳野市と藤井寺市にまたがる半径2㎞ほどの範囲に4世紀後半から6世紀前半に造られた古墳が広がっている。5世紀前半に造られた「応神天皇陵古墳(誉田御廟山古墳)」は三段の墳丘をもち,二重の濠と堤が囲っている。造られた当時は大きな円筒埴輪が2万本以上も並べられていたと考えられている。同時期に造られた方墳の[ ① ]と[ ② ],[ ③ ]の発掘調査では,木製の修羅が見つかっている。 世界遺産委員会では,都市における開発圧力や自然現象による古墳への影響が懸念点として挙げられ,墳丘に影響しない定期的なモニタリングや地域コミュニティの保存・管理体制への参加が求められた。
「助太山古墳」, 「中山塚古墳」, 「八島塚古墳」
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[姫路城] 兵庫県姫路市にある姫路城は,現存する日本の木造城郭建築の最高傑作とされる。城郭としての起源は,1333年に[ ① ]が姫山に築いた砦であると伝えられている。16世紀末,[ ② ]はこの城を毛利氏攻略の拠点に定め,新たに3層の天守閣を建設した。1600年の関ヶ原の戦いののち,城主となった[ ③ ]は9年間にも及ぶ大改修を実施し,姫路城の象徴である外観5層の大天守を中心とする天守閣を築いた。つづく[ ④ ]の時代には,長男の忠刻とその妻の千姫が住居とした[ ⑤ ]も整備されている。
赤松則村, 羽柴秀吉, 池田輝政, 本多忠政, 西の丸
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[姫路城] 姫路城は,白漆喰の総塗籠の外壁が魅せる優美な姿から[ ① ]とも呼ばれる。その一方で極めて実用的で堅牢な城でもあり,[ ② ]状に構築された複雑で巧妙な縄張り(城の基本設計),姫山と呼ばれる自然の丘の地形をたくみに生かした曲輪や堀,数多く配された櫓や門などによって,高い防衛能力を兼ね備えている。また城内には,内部から弓矢や鉄砲を撃ちかけるための狭間,石や熱湯を浴びせかける石落としなどの仕掛けが随所に施されている。鉄砲狭間や弓狭間は,使用する武器に応じて使い分けるよう三角や四角などの幾何学的な形をしている。
「白鷺城」, 螺旋
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[姫路城] 1615年の一国一城令,明治維新に際しての廃城令,そして第二次世界大戦の戦火も免れ,江戸時代初頭の姿をほぼそのままに留めている。1956年から8年間に及んだ「昭和の大修理」では,天守関の解体修理が行われ,かつてのままの美しい姿を残している。近年では2009〜2015年にかけて大天守の屋根瓦や漆喰壁の保存修理事業が行われ,修復を行いながら[ ]を保つという保存の取り組み方も評価された。この工期中には一部の修復作業が一般に公開された。
「真正性」
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[姫路城] 池田輝政による5層7階建ての大天守は創建当時のままの姿で残る。白漆喰の総塗籠の外壁に,曲線を描く[ ① ]や,屋根にそのまま切妻破風をおく[ ② ]などの装飾が施された屋根が連なる。1階と2階には開閉できる特殊窓が設けられ,3階には[ ③ ](密室),4階には窓から攻撃できる[ ④ ]という設備があった。
唐破風, 千鳥破風, 武者隠し, 石打棚