問題一覧
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ハイデガーは『存在と時間』において、西洋哲学史のなかでこれまで問われずにいた、存在一般の「意味」を明らかにしようとする。したがってその問いは、あれやこれやの存在者についての問いではない。そうではなく、「存在者の存在」についての問いである。このように、ハイデガーの思想においては「存在者(Seiende)」と「存在(Sein)」は異なるものとして把握される。これを「( )」という。「存在」概念は、「存在者」が「存在している」ことの根拠として位置づけられる。しかし、「存在者」の「存在」は、通常わたしたちには見えず、隠されている状態にある。ハイデガーは、これを見えるようにする方法を「現象学」に見る。ハイデガーにとって、「現象学(Phanomenologie)」は「現れてくるもの(Phanomen)」を「言葉で見えるようにする(logos)」学問だからである。現象学は、問われるべき「現象(事象そのもの)/存在」を「見えるようにさせる」のである。
存在論的差異
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存在一般の意味を「問う(fragen)」ということは、その意味を何かに「問いかける(befragen)」ことが必要になるわけだが、この問いかけられるべき「存在者」が「人間」であるが言い換えれば、人間しか存在の意味を問うことができない)。ハイデガーは、人間を「( )(Dasein)」とよぶ。
現存在
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ハイデガーは、人間を「現存在(Dasein)」とよぶ。「現存在」という言葉によってハイデガーが言おうとしているのは、人間が、「現にそこで漠然としてではあれ存在が開示されている存在者」である、ということである。『存在と時間」は、個々の現存在の具体的な存在状態、つまり「実存」を 分析の対象とし、そこから存在の意味を明らかにしようとする。これを 「( )」とよぶ
実存論的分析
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ハイデガーは、人間を「現存在(Dasein)」とよぶ。「現存在」という言葉によってハイデガーが言おうとしているのは、人間が、「現にそこで漠然としてではあれ存在が開示されている存在者」である、ということである。『存在と時間」は、個々の現存在の具体的な存在状態、つまり「実存」を 分析の対象とし、そこから存在の意味を明らかにしようとする。これを 「実存論的分析」とよぶ。したがって、ハイデガーの『存在と時間』は 「( )」であると言える。
現存在の現象学
5
ハイデガーは、人間を「現存在(Dasein)」とよぶ。「現存在」という言葉によってハイデガーが言おうとしているのは、人間が、「現にそこで漠然としてではあれ存在が開示されている存在者」である、ということである。『存在と時間」は、個々の現存在の具体的な存在状態、つまり「実存」を分析の対象とし、そこから存在の意味を明らかにしようとする。これを「実存論的分析」とよぶ。したがって、ハイデガーの『存在と時間』は「現存在の現象学」であると言える。また同時に、ひとが日常的に抱いている先入観を破壊しながら、実存を分析・解釈していく「( )」でもある。
解釈学
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ハイデガーは、人間を「現存在(Dasein)」とよぶ。「現存在」という言葉によってハイデガーが言おうとしているのは、人間が、「現にそこで漠然としてではあれ存在が開示されている存在者」である、ということである。『存在と時間」は、個々の現存在の具体的な存在状態、つまり「実存」を分析の対象とし、そこから存在の意味を明らかにしようとする。これを「実存論的分析」とよぶ。したがって、ハイデガーの『存在と時間』は「現存在の現象学」であると言える。また同時に、ひとが日常的に抱いている先入観を破壊しながら、実存を分析・解釈していく「解釈学」でもある。 以上のようなハイデガーの存在論は「( )」とよばれる。
基礎的存在論
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では、現存在の具体的な存在の仕方とはどのようなものなのか。ハイデガーはこれを、「( )」を具体例にして分析していく。
道具
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では、現存在の具体的な存在の仕方とはどのようなものなのか。ハイデガーはこれを、「道具」を具体例にして分析していく。わたしたちの身の回りには、さまざまな「道具」が存在する。ハイデガーにしたがえば、「道具」はわたしたちに対して二つの存在の仕方を示す。メガネを例にして説明しよう。メガネは、それが壊れていない限りにおいて、それを装着しているときにはその存在がそこまで意識されず、違和感なくそこに(顔面上に)存在する。これを「( ❶ )(Zuhandenheit)」という。これに対して、例えばメガネが壊れたとき、あるいはメガネを科学的に眺めるときなどは、メガネの存在が際立って現れてくる。このようなあり方を「( ❷ (Vorhandenheit)」という。ハイデガーが注目するのはこの「❶」のほうである。「❶」の状態にある事物・道具は、どんなものでもただ一つで存在することがなく、全体として一つのネットワークを構築している。これを「( ❸ )」という。
手許存在性, 手前存在性, 道具連関
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世界は、諸々の存在者のあいだの相互関係のネットワークとしてあり、それによって存在者はそのあり方を親定されている。大工の仕事場とそこにある諸々の道具は、現存在を「大工」として規定する。この事態は「自分自身」や「他の人間」についても同様である。たとえば、大工は仕事場で大工道具を用いて仕事をすることにおいて大工となり、道具を配慮的に気遣い(Besorgen)、同僚のことを顧慮的に気遣う(Fursorge)ことができるようになる。現存在は、一方において、存在理解をもち、諸存在のあり方のみならず、自らのあり方へも関与しつつある。だが他方において、存在者としては世界のなかに投げ込まれ、そのことを引き受けつつ存在する。この現存在のあり方を「( )」という。
世界内存在
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世界は、諸々の存在者のあいだの相互関係のネットワークとしてあり、それによって存在者はそのあり方を親定されている。大工の仕事場とそこにある諸々の道具は、現存在を「大工」として規定する。この事態は「自分自身」や「他の人間」についても同様である。たとえば、大工は仕事場で大工道具を用いて仕事をすることにおいて大工となり、道具を配慮的に気遣い(Besorgen)、同僚のことを顧慮的に気遣う(Fursorge)ことができるようになる。現存在は、一方において、存在理解をもち、諸存在のあり方のみならず、自らのあり方へも関与しつつある。だが他方において、存在者としては世界のなかに投げ込まれ、そのことを引き受けつつ存在する。この現存在のあり方を「世界内存在」という。そしてさらに、世界内存在の当事者たる自分=現存在は、つねに何らかの「気分」のうちにある。これを 「( )」という。この( )においてのみ、現存在は自らが世界内存在していることに自覚的になるのである。というのも、気分は誰かに代わってもらうことのできない自らの状態であり、自分自身が引き受けねばならない存在の様態であるからだ。
情態性
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「世界」自体は存在者ではない。したがって、ハイデガーの思想においては、世界は存在しない(世界という存在者は存在しない)。「世界」は、道具連関や世界内存在というあり方で構成され、与えられるものにすぎない。左の写真にもあるように、世界とは、人間(現存在)、道具(井戸、バケツなど)、事物(森、石、霧など自然物も含む)、過ごされる時間、そうした諸々の事柄が関係しあって成立している。この「世界」成立の条件を 「( )」とよぶ。
世界の世界性
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すでに述べたように、現存在は、普段から「世界の世界性」一一道具連関や世界内存在の構造に自覚的になっているわけではない。目の前にある世界のなかで、他人の言動に合わせて「( )」を生きている
標準
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すでに述べたように、現存在は、普段から「世界の世界性」一一道具連関や世界内存在の構造に自覚的になっているわけではない。目の前にある世界のなかで、他人の言動に合わせて「標準」を生きている。こうした状態にある現存在を「( )(das Man)」とよぶ。( )はいかなる意味でも具体的な人間ではない。( )とは、わたしたちがそれぞれに従っている一連の「ひとは・・・・・・するものだ」という規範の別名である。
世人
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世人とは、わたしたちがそれぞれに従っている一連の「ひとは・・・・・・するものだ」という規範の別名である。他者や道具や自分自身をつねに気遣いながら他の存在者との「ズレ」を気にしている。こうした状態を 「( )(Verfallen)」という。これは現存在にとって非本来的なあり方であるとされる。
頽落
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現存在は、日常的に「頽落」の状態を生きているわけだが、ハイデガーによれば、こうした日常性=情態性のなかで、突如として「不安」がおとずれる。この「不安」は、このわたしの「( )」という可能性を前にした「不安」である(この不安は、恐怖ではない。恐怖は具体的な対象をもつが、不安はそうした対象をもたない漠然とした情態性である)。
死
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わたしはいつでも「死にうる」。現存在は、この不安の内で、道具連関や他者との関係性が崩壊する。漠然とした死への不安が、それらのものへの関わりを遮断する。しかし反対に、この不安のなかで「単独化」し、れの「死=( )の可能性」に向けて「先駆」することによって、本来的に実存する可能性を得る。言い換えれば、それまで道具や他者や、周囲に存在する存在者の声を聞き続けていた耳が、「存在の呼び声」にたいして開かれるのである。
存在不可能性
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わたしはいつでも「死にうる」。現存在は、この不安の内で、道具連関や他者との関係性が崩壊する。漠然とした死への不安が、それらのものへの関わりを遮断する。しかし反対に、この不安のなかで「単独化」し、れの「死=存在不可能性の可能性」に向けて「先駆」することによって、本来的に実存する可能性を得る。言い換えれば、それまで道具や他者や、周囲に存在する存在者の声を聞き続けていた耳が、「存在の呼び声」にたいして開かれるのである。存在の呼び声に対して閉ざされていた状態(Schlossenheit)を開くこと(Ent)、これは一種の「決意(Entschlossenheit)」である。ハイデガーはこの事態を「( ❶ )」とよぶ。現存在は、本来的には「( ❷ )存在」なのだ。
先駆的決意性, 死へ臨む
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ハイデガーによれば、「存在の意味」とは「( )(Zeitlichkeit)」のことである。 存在=時間だったのだ。
時間性
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わたしたち=現存在は、過去、現在、未来という時間を生きている。現存在は有限であり、自身の誕生から死までを生存するわけだが、ハイデガーはこの事実を「( )(Geschichtlichkeit)」と呼ぶ。この( )は、現存在の時間性を基礎とする。時間性は、頽落の状態においては、過去は忘却、現在は現前化、未来は予期として現れる。しかし、先駆的決意性(死を意識したとき)の本来的な時間においては、それぞれが、反復、瞬間、先駆として現れてくる。
歴史性
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(((まず図を見る)))このような、本来的な時間における自身の可能性(歴史性)の「引き受け」を、ハイデガーは「( )」とよぶ
運命
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現存在は他者との共存在のうちにあるがゆえに、運命は、共同体、民族の「( (Geschick)」となる。ハイデガーにとって、存在とは歴史(民族の歴史)に根ざしたものなのだ。 しかしこの( )とは「民族全員死に先駆して自分のことを考えろ」ということなので、 戦争を肯定できてしまう。 「ドイツ民族が一丸となって戦争に突っ込んでいって最終的に自分が死を目の前にして自分を真面目に考える瞬間に至ればそれで良し」となってしまう。 ここがMr.小嶋がどうしてもわからないところである。
共同運命
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フッサールが諸学の危機を問題にしたように、ハイデガーは哲学史における「( ) 」を問題にした。
存在忘却
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ハイデガーによれば、哲学とは「存在への問い」であって、他のものではありえない。「存在忘却」は、科学技術の発展とともにますます拡大している。ハイデガーは、現代技術(テクノロジー)の本質を「( )(Ge-stell)」と呼んでいる。あらゆるものを即座に使用できるものとしてみなし、同時に人間にもそうした把握を挑発する体制のことをさす。これによって、人間は存在の問題を忘却し、存在者に存在が覆い隠されたままとなる。
集-立