(◽️◽️)年に制定された建武式目は、2項(◽️)条からなる。1336
観応の擾乱は、(◽️)年に始まり(◽️)年に集結した。1350
九州では後醍醐天皇の皇子である西征将軍(◽️◽️)を奉じる菊池氏を中心とした南朝の勢力が強かった。懐良親王
半済令の初見は(◽️)年のものであり、期間として(◽️)限り、また、地域としても(◽️)・(◽️)・(◽️)の三カ国に限定されていた。1352, 尾張
半済令は、( )元年[=1368年]になると、年貢半分の徴収にとどまらず、土地そのものの分割となった。応安
守護が、任国を自分の所領のようにした支配体制を(◽️◽️)といい、このような守護を(◽️◽️◽️)という。守護領国制
足利義満は守護大名の統制をはかるため、1391年の(◽️◽️◽️)の乱で11ヵ国の守護であった(◽️◽️◽️)を滅ぼした。明徳
1399年に、大内義弘は鎌倉公方( )と結んで反乱をおこしたが、(◽️)に籠城して敗死した。この戦乱を(◽️◽️◽️)という。足利満兼
1416年に、関東管領上杉氏憲が鎌倉公方(◽️◽️)に対して反乱をおこした。これを(◽️◽️)という。足利持氏
(◽️)年、(◽️◽️◽️)が急死し、翌年弟の足利義教が6代将軍になった。1428
赤松満祐は、幕府軍の(◽️)らに責められ自害した。山名持豊(宗全)
6代将軍足利義教が殺害されたあと、(◽️)が7代将軍になった。足利義勝
幕府の実権をめぐって争っていた管領の(◽️◽️)が将軍の弟足利義視を、有力守護大名の(◽️◽️)が将軍義政・足利義尚を支援して対立が深まり(◽️◽️)年に応仁の乱が始まった。細川勝元
応仁の乱では、畠山氏は(◽️◽️)と(◽️◽️)が、家督争いを行った。畠山政長
応仁の乱では、斯波氏は(◽️)と(◽️)が家督争いを行った。斯波義敏(よしとし)
『( )』は、応仁の乱での足軽の活躍を描いた絵巻物である。真如堂縁起
10代将軍足利義稙は1493年、管領であった(◽️)によって廃された。細川政元
(◽️◽️◽️)は、近江で馬借が徳政を要求して蜂起したのをきっかけにおこった一揆である。正長の徳政一揆(正長の土一揆)
(◽️◽️)年におこった正長の徳政一揆は、(◽️◽️)〈国名〉坂本の(◽️◽️)によって行われた。1428
正長の徳政一揆を撃退した当時の管領は(◽️)である。畠山満家
正長の徳政一揆に関する記述が見られる、尋尊によって記された年代記を『( )』という。大乗院日記目録
1441年におこった「代始めの徳政」を要求した徳政一揆を(◽️◽️◽️)という。嘉吉の徳政一揆
室町幕府は、(◽️)という手数料をとることで、債務者には債務の破棄を、のちには債権者には債権の保護を個別に認可するという、(◽️)を考案した。分一銭, 分一徳政令
1454年の( )の徳政一揆以後、分一特政令は通例となった。享徳
(◽️)年、京都[南山城]を中心とした国一揆がおこった。これを(◽️◽️◽️)という。1485
山城の国一揆は(◽️◽️◽️)氏の国外追放を求めるものであった。畠山
山城の国一揆では、(◽️)と(◽️)の軍勢を国外に追い払った。畠山義就
山城の国一揆では、寺社本所領の還付と( )の廃止が要求された。新関
山城の国人の寄合は、(◽️)を舞台として開かれ、( )を定めた。宇治平等院
山城の国一揆が記されている資料の出典は『( )』で、その著者は(◽️)寺大乗院の門跡( )である。大乗院寺社雑事記
1488年におこされた一揆では、守護権力の打倒を成功させた。この一揆を(◽️◽️◽️)という。加賀の一向一揆
(◽️)年、加賀国では一向宗信者が集結した一向一揆で、守護(◽️◽️◽️)を敗死させて以降、1世紀にわたって事実上の支配を行った。1488
加賀の一向一揆がおこった当時、近畿・北陸一帯では、浄土真宗本願寺派が、第8世(◽️◽️◽️)の旺盛な布教活動によって、勢力を拡大していた。蓮如
加賀の一向一揆は( )を守護として擁立した。冨樫泰高
山城の国一揆は( )17年におこり、加賀の一向一揆は( )二年におこった。文明
京都では、自治を発展させていた(◽️◽️◽️)を中心とする日蓮宗の信者が、戦乱から町を守るために(◽️◽️◽️)を結び、1532年には一向一揆と戦って(◽️◽️)寺を焼き払った。町衆
京都の商工業者を基盤とした法華一揆は、1536年、(◽️◽️)と衝突し、焼き討ちを受けて、一時京都を追われた。この戦いを(◽️◽️)という。延暦寺
(◽️)年に(◽️◽️◽️)が明を建国した。1368
足利義満は、(◽️)年、明に使者を派遣し、明の皇帝から「日本国王源道義」宛の返書と共に明の(◽️)を与えられた。1401
勘合貿易に携わった商人が上納する(◽️)は室町幕府の重要な財源となった。抽分銭
室町時代、外交文書の扱いに携わった(◽️◽️)は、中国や朝鮮との外交をまとめて『善隣国宝記』を編纂した。瑞渓周鳳
( )は、興福寺大乗院に所属して勘合貿易に従事した。楠葉西忍
1392年、(◽️◽️◽️)〈人名〉が(◽️◽️◽️)〈国名〉を滅ぼし、朝鮮を建国した。李成桂
対馬の宗氏は、渡航認可証である(◽️)の発行によって多くの利益を得た。文引
日朝貿易において、朝鮮側から贈られた通行証を、(◽️)という。通信符
対馬の領主( )が死去すると、再び朝鮮半島における倭寇の活動が活発になった。宗貞茂
日朝貿易では、朝鮮から(◽️◽️◽️)・(◽️)などを輸入した。木綿(綿布)
(◽️)年、沖縄本島は中山王であった(◽️◽️◽️)によって統一され、琉球王国が成立した。1429
( )の記した『(◽️)』には、室町時代はじめ、現大阪湾付近で三毛作が行われていたことが記されている。宋希璟
室町時代の特産品には、加賀・丹後の(◽️◽️)がある。絹織物
蔵人所の供御人となった( )は、廻船を用いて鍋・釜その他を売り歩いた兼業的商人であった。鋳物師
明から輸入された代表的な銅銭を発行時期順に並べると、(◽️◽️)・(◽️◽️◽️)・(◽️◽️)となる。洪武通宝
(◽️◽️◽️)は、室町時代に大量に輸入された明銭で、標準的な貨幣として流通した。永楽通宝
鎌倉公方に就任した(◽️◽️)は、関東管領上杉憲忠を謀殺した。この事件を契機に、1454年には(◽️)の乱が発生した。足利成氏
鎌倉公方は、足利持氏の子の(◽️◽️)が(◽️◽️)公方に、足利義政の弟の(◽️◽️)が(◽️◽️)公方になった。足利成氏
京都では、管領(◽️)を、家臣である(◽️◽️◽️)が追放した。細川晴元
(◽️◽️)は、三好長慶を下剋上し、13代将軍(◽️◽️◽️)を襲って自殺させた。松永久秀
中国地方では、守護大名の大内氏を滅ぼした(◽️◽️)から権力を奪った(◽️◽️◽️)が、山陰地方の尼子氏と戦闘を繰り返していた。陶晴賢
16世紀前半、駿河・遠江などを領国とする戦国大名(◽️)は、『(◽️◽️◽️)』を制定した。今川氏親
阿波の三好氏の分国法は、『(◽️◽️)』である。新加制式
寺内町には、蓮如が1478年より数年をかけて本願寺を再建した山城国(◽️◽️)などがある。山科
寺内町の例として、越前の(◽️◽️)、加賀の(◽️◽️)がある。吉崎
寺内町の例として、摂津の(◽️◽️)、大和の(◽️)、河内の(◽️)がある。石山
日本海沿岸から畿内へ輸送される物資の陸揚げ港として栄えた、若狭国の港町は(◽️)である。小浜
伊勢神宮の港町のうち、東海道の宿場もあった港町は(◽️)、宇治・山田の外港にあった港町は(◽️◽️)である。桑名
(◽️◽️)は薩摩半島南西部の港町で、対明・琉球貿易の拠点であった。坊津
(◽️◽️)・(◽️◽️)は、伊勢にある自由都市である。桑名
京都の下京では、富裕な商工業者の(◽️◽️)を中心に自治的な町や、町が集まった町組という組織がつくられ、町衆から選ばれた(◽️◽️)が市政を運営した。町衆, 月行事
足利尊氏・足利直義は夢窓疎石のすすめにより、南北朝の戦死者の冥福を祈るために1338年頃から諸国それぞれに(◽️)と(◽️)を建てた。安国寺
五山の禅宗の宗派名は(◽️◽️◽️)である。臨済宗
京都五山は一位から順に(◽️◽️)・(◽️◽️)・(◽️◽️)・(◽️)・(◽️)である。天龍寺
(◽️◽️◽️)が京都五山の別格上位に列せられることになったのは、足利義満が(◽️)を創建したのをきっかけとする。南禅寺
鎌倉五山は一位から順に(◽️◽️)・(◽️◽️)・(◽️◽️)・(◽️)・(◽️)である。建長寺
京都五山に属する(◽️)と、鎌倉五山に属する(◽️)は共に、臨済宗開祖の栄西が開山した寺院である。建仁寺
林下は、曹洞宗では(◽️◽️)や(◽️)、臨済宗では(◽️◽️)や(◽️)がその中心となった。永平寺
『立正治国論』を著して日蓮宗の発展につとめた人物は(◽️◽️)である。日親
法華宗の僧侶である日親は、将軍(◽️)に法華宗の信者になることを強く求める内容を含む『(◽️◽️)』を清書中に逮捕された。足利義教
(◽️◽️◽️)は、(◽️◽️)国の吉崎御坊を拠点として北陸に布教を行った。蓮如
農民や武士が理解できる平易な文章で書かれた蓮如の消息集は、(◽️◽️)としてまとめられた。御文(御文章)
室町時代には、(◽️◽️◽️)が反本地垂迹説の立場から、神道を中心にして儒学と仏教を統合しようとする(◽️◽️)を完成させた。吉田兼倶
『(◽️◽️◽️)』は、南北朝内乱を室町幕府の側から叙述したものである。梅松論
五山文学の祖といわれる、モンゴル襲来後の講和のために来日した中国人僧は( )である。一山一寧
日本の五山文学は、足利義満の時代に(◽️◽️)・(◽️◽️)という二人の僧を輩出して最盛期を迎えた。義堂周信
『(◽️◽️)』は、幼少の天皇のために、北畠親房が常陸で執筆した有職故実の書である。職原抄
(◽️◽️◽️)は、将軍足利義尚の諮問に答えて政治の道を説いた『(◽️◽️◽️)』を献じた。一条兼良
一条兼良の著した有職故実書は『(◽️◽️)』である。公事根源
一条兼良は『源氏物語』の注釈書である『(◽️)』を著した。花鳥余情
一条兼良の『花鳥余情』は、四辻善成の著書『( )』の誤りを訂正したものである。河海抄
(◽️◽️◽️)は、肥後の菊池氏や薩摩島津氏に招かれて儒学を講義し、のちの薩南学派の祖となった。桂庵玄樹
( )は、土佐の吉良氏に仕えた儒学者である。南村梅軒
相国寺で修行した禅僧( )は、太田道灌の招きで江戸に赴くなど地方にも活躍し、詩文集『梅花無尽蔵』でも知られた。万里集九
15世紀にはいわゆる国語辞典である『(◽️◽️)』がつくられた。節用集
(◽️◽️)年に制定された建武式目は、2項(◽️)条からなる。1336
観応の擾乱は、(◽️)年に始まり(◽️)年に集結した。1350
九州では後醍醐天皇の皇子である西征将軍(◽️◽️)を奉じる菊池氏を中心とした南朝の勢力が強かった。懐良親王
半済令の初見は(◽️)年のものであり、期間として(◽️)限り、また、地域としても(◽️)・(◽️)・(◽️)の三カ国に限定されていた。1352, 尾張
半済令は、( )元年[=1368年]になると、年貢半分の徴収にとどまらず、土地そのものの分割となった。応安
守護が、任国を自分の所領のようにした支配体制を(◽️◽️)といい、このような守護を(◽️◽️◽️)という。守護領国制
足利義満は守護大名の統制をはかるため、1391年の(◽️◽️◽️)の乱で11ヵ国の守護であった(◽️◽️◽️)を滅ぼした。明徳
1399年に、大内義弘は鎌倉公方( )と結んで反乱をおこしたが、(◽️)に籠城して敗死した。この戦乱を(◽️◽️◽️)という。足利満兼
1416年に、関東管領上杉氏憲が鎌倉公方(◽️◽️)に対して反乱をおこした。これを(◽️◽️)という。足利持氏
(◽️)年、(◽️◽️◽️)が急死し、翌年弟の足利義教が6代将軍になった。1428
赤松満祐は、幕府軍の(◽️)らに責められ自害した。山名持豊(宗全)
6代将軍足利義教が殺害されたあと、(◽️)が7代将軍になった。足利義勝
幕府の実権をめぐって争っていた管領の(◽️◽️)が将軍の弟足利義視を、有力守護大名の(◽️◽️)が将軍義政・足利義尚を支援して対立が深まり(◽️◽️)年に応仁の乱が始まった。細川勝元
応仁の乱では、畠山氏は(◽️◽️)と(◽️◽️)が、家督争いを行った。畠山政長
応仁の乱では、斯波氏は(◽️)と(◽️)が家督争いを行った。斯波義敏(よしとし)
『( )』は、応仁の乱での足軽の活躍を描いた絵巻物である。真如堂縁起
10代将軍足利義稙は1493年、管領であった(◽️)によって廃された。細川政元
(◽️◽️◽️)は、近江で馬借が徳政を要求して蜂起したのをきっかけにおこった一揆である。正長の徳政一揆(正長の土一揆)
(◽️◽️)年におこった正長の徳政一揆は、(◽️◽️)〈国名〉坂本の(◽️◽️)によって行われた。1428
正長の徳政一揆を撃退した当時の管領は(◽️)である。畠山満家
正長の徳政一揆に関する記述が見られる、尋尊によって記された年代記を『( )』という。大乗院日記目録
1441年におこった「代始めの徳政」を要求した徳政一揆を(◽️◽️◽️)という。嘉吉の徳政一揆
室町幕府は、(◽️)という手数料をとることで、債務者には債務の破棄を、のちには債権者には債権の保護を個別に認可するという、(◽️)を考案した。分一銭, 分一徳政令
1454年の( )の徳政一揆以後、分一特政令は通例となった。享徳
(◽️)年、京都[南山城]を中心とした国一揆がおこった。これを(◽️◽️◽️)という。1485
山城の国一揆は(◽️◽️◽️)氏の国外追放を求めるものであった。畠山
山城の国一揆では、(◽️)と(◽️)の軍勢を国外に追い払った。畠山義就
山城の国一揆では、寺社本所領の還付と( )の廃止が要求された。新関
山城の国人の寄合は、(◽️)を舞台として開かれ、( )を定めた。宇治平等院
山城の国一揆が記されている資料の出典は『( )』で、その著者は(◽️)寺大乗院の門跡( )である。大乗院寺社雑事記
1488年におこされた一揆では、守護権力の打倒を成功させた。この一揆を(◽️◽️◽️)という。加賀の一向一揆
(◽️)年、加賀国では一向宗信者が集結した一向一揆で、守護(◽️◽️◽️)を敗死させて以降、1世紀にわたって事実上の支配を行った。1488
加賀の一向一揆がおこった当時、近畿・北陸一帯では、浄土真宗本願寺派が、第8世(◽️◽️◽️)の旺盛な布教活動によって、勢力を拡大していた。蓮如
加賀の一向一揆は( )を守護として擁立した。冨樫泰高
山城の国一揆は( )17年におこり、加賀の一向一揆は( )二年におこった。文明
京都では、自治を発展させていた(◽️◽️◽️)を中心とする日蓮宗の信者が、戦乱から町を守るために(◽️◽️◽️)を結び、1532年には一向一揆と戦って(◽️◽️)寺を焼き払った。町衆
京都の商工業者を基盤とした法華一揆は、1536年、(◽️◽️)と衝突し、焼き討ちを受けて、一時京都を追われた。この戦いを(◽️◽️)という。延暦寺
(◽️)年に(◽️◽️◽️)が明を建国した。1368
足利義満は、(◽️)年、明に使者を派遣し、明の皇帝から「日本国王源道義」宛の返書と共に明の(◽️)を与えられた。1401
勘合貿易に携わった商人が上納する(◽️)は室町幕府の重要な財源となった。抽分銭
室町時代、外交文書の扱いに携わった(◽️◽️)は、中国や朝鮮との外交をまとめて『善隣国宝記』を編纂した。瑞渓周鳳
( )は、興福寺大乗院に所属して勘合貿易に従事した。楠葉西忍
1392年、(◽️◽️◽️)〈人名〉が(◽️◽️◽️)〈国名〉を滅ぼし、朝鮮を建国した。李成桂
対馬の宗氏は、渡航認可証である(◽️)の発行によって多くの利益を得た。文引
日朝貿易において、朝鮮側から贈られた通行証を、(◽️)という。通信符
対馬の領主( )が死去すると、再び朝鮮半島における倭寇の活動が活発になった。宗貞茂
日朝貿易では、朝鮮から(◽️◽️◽️)・(◽️)などを輸入した。木綿(綿布)
(◽️)年、沖縄本島は中山王であった(◽️◽️◽️)によって統一され、琉球王国が成立した。1429
( )の記した『(◽️)』には、室町時代はじめ、現大阪湾付近で三毛作が行われていたことが記されている。宋希璟
室町時代の特産品には、加賀・丹後の(◽️◽️)がある。絹織物
蔵人所の供御人となった( )は、廻船を用いて鍋・釜その他を売り歩いた兼業的商人であった。鋳物師
明から輸入された代表的な銅銭を発行時期順に並べると、(◽️◽️)・(◽️◽️◽️)・(◽️◽️)となる。洪武通宝
(◽️◽️◽️)は、室町時代に大量に輸入された明銭で、標準的な貨幣として流通した。永楽通宝
鎌倉公方に就任した(◽️◽️)は、関東管領上杉憲忠を謀殺した。この事件を契機に、1454年には(◽️)の乱が発生した。足利成氏
鎌倉公方は、足利持氏の子の(◽️◽️)が(◽️◽️)公方に、足利義政の弟の(◽️◽️)が(◽️◽️)公方になった。足利成氏
京都では、管領(◽️)を、家臣である(◽️◽️◽️)が追放した。細川晴元
(◽️◽️)は、三好長慶を下剋上し、13代将軍(◽️◽️◽️)を襲って自殺させた。松永久秀
中国地方では、守護大名の大内氏を滅ぼした(◽️◽️)から権力を奪った(◽️◽️◽️)が、山陰地方の尼子氏と戦闘を繰り返していた。陶晴賢
16世紀前半、駿河・遠江などを領国とする戦国大名(◽️)は、『(◽️◽️◽️)』を制定した。今川氏親
阿波の三好氏の分国法は、『(◽️◽️)』である。新加制式
寺内町には、蓮如が1478年より数年をかけて本願寺を再建した山城国(◽️◽️)などがある。山科
寺内町の例として、越前の(◽️◽️)、加賀の(◽️◽️)がある。吉崎
寺内町の例として、摂津の(◽️◽️)、大和の(◽️)、河内の(◽️)がある。石山
日本海沿岸から畿内へ輸送される物資の陸揚げ港として栄えた、若狭国の港町は(◽️)である。小浜
伊勢神宮の港町のうち、東海道の宿場もあった港町は(◽️)、宇治・山田の外港にあった港町は(◽️◽️)である。桑名
(◽️◽️)は薩摩半島南西部の港町で、対明・琉球貿易の拠点であった。坊津
(◽️◽️)・(◽️◽️)は、伊勢にある自由都市である。桑名
京都の下京では、富裕な商工業者の(◽️◽️)を中心に自治的な町や、町が集まった町組という組織がつくられ、町衆から選ばれた(◽️◽️)が市政を運営した。町衆, 月行事
足利尊氏・足利直義は夢窓疎石のすすめにより、南北朝の戦死者の冥福を祈るために1338年頃から諸国それぞれに(◽️)と(◽️)を建てた。安国寺
五山の禅宗の宗派名は(◽️◽️◽️)である。臨済宗
京都五山は一位から順に(◽️◽️)・(◽️◽️)・(◽️◽️)・(◽️)・(◽️)である。天龍寺
(◽️◽️◽️)が京都五山の別格上位に列せられることになったのは、足利義満が(◽️)を創建したのをきっかけとする。南禅寺
鎌倉五山は一位から順に(◽️◽️)・(◽️◽️)・(◽️◽️)・(◽️)・(◽️)である。建長寺
京都五山に属する(◽️)と、鎌倉五山に属する(◽️)は共に、臨済宗開祖の栄西が開山した寺院である。建仁寺
林下は、曹洞宗では(◽️◽️)や(◽️)、臨済宗では(◽️◽️)や(◽️)がその中心となった。永平寺
『立正治国論』を著して日蓮宗の発展につとめた人物は(◽️◽️)である。日親
法華宗の僧侶である日親は、将軍(◽️)に法華宗の信者になることを強く求める内容を含む『(◽️◽️)』を清書中に逮捕された。足利義教
(◽️◽️◽️)は、(◽️◽️)国の吉崎御坊を拠点として北陸に布教を行った。蓮如
農民や武士が理解できる平易な文章で書かれた蓮如の消息集は、(◽️◽️)としてまとめられた。御文(御文章)
室町時代には、(◽️◽️◽️)が反本地垂迹説の立場から、神道を中心にして儒学と仏教を統合しようとする(◽️◽️)を完成させた。吉田兼倶
『(◽️◽️◽️)』は、南北朝内乱を室町幕府の側から叙述したものである。梅松論
五山文学の祖といわれる、モンゴル襲来後の講和のために来日した中国人僧は( )である。一山一寧
日本の五山文学は、足利義満の時代に(◽️◽️)・(◽️◽️)という二人の僧を輩出して最盛期を迎えた。義堂周信
『(◽️◽️)』は、幼少の天皇のために、北畠親房が常陸で執筆した有職故実の書である。職原抄
(◽️◽️◽️)は、将軍足利義尚の諮問に答えて政治の道を説いた『(◽️◽️◽️)』を献じた。一条兼良
一条兼良の著した有職故実書は『(◽️◽️)』である。公事根源
一条兼良は『源氏物語』の注釈書である『(◽️)』を著した。花鳥余情
一条兼良の『花鳥余情』は、四辻善成の著書『( )』の誤りを訂正したものである。河海抄
(◽️◽️◽️)は、肥後の菊池氏や薩摩島津氏に招かれて儒学を講義し、のちの薩南学派の祖となった。桂庵玄樹
( )は、土佐の吉良氏に仕えた儒学者である。南村梅軒
相国寺で修行した禅僧( )は、太田道灌の招きで江戸に赴くなど地方にも活躍し、詩文集『梅花無尽蔵』でも知られた。万里集九
15世紀にはいわゆる国語辞典である『(◽️◽️)』がつくられた。節用集