問題一覧
1
実際の歴史の過程では、人権よりも「ネイション」の解放が優先され、血の繋がりを意識した①として定義されるような人権を侵害する側面が見られた。
エスノ・ナショナリズム
2
ファシズム前夜のイタリア ww1が勃発した時、イタリア政府は①を宣言した。帝国主義者の②が外相に就任すると19154月には③を結んだ。この条約は、イタリアが協商国側に参戦すればその代償として④と⑤を含む⑥地方と⑦(イタリア語ではフィウーメ)を除く⑧を獲得するという内容で、これによって「⑨」が解放され、⑩が完成するが、秘密条約発効には国会での批准が必要だった。
中立, シドネイ・ソンニーノ, ロンドン秘密条約, トリエステ, 南ティロル, トレンティーノ地方, リエカ, ダルマチア, 未回収のイタリア, リソルジメント
3
国家ではなく労働組合が政治と経済を統括することで、平等社会を実現するという思想を①と言う。これらや②も参戦主義であった。
革命的サンディカリズム, 自由主義者
4
戦争によって職を見つけられない復員兵の不満を背景に生まれたファシズム運動のリーダーが①である。
ベニート・ムッソリーニ
5
ムッソリーニの経歴 1883年にイタリア中部の①で産まれる。 少年時代から②や③の思想に触れたが、同時に④や⑤の愛国主義的共和主義にも共感していた。社会党員となっムッソリーニは⑥や⑦たちとスイス滞在中に交流した。
ロマーニャ, マルクス, バクーニン, マッツィーニ, ガリバルディ, ウラディミール・レーニン, 亡命ボリシェヴィキ
6
ムッソリーニが脚光を浴びたのは1912年7月に開かれた社会党の①だった。彼は②を支持した右派の指導者を弾劾し、党から追放する立役者となった。 中央機関誌「③」の編集長に抜擢され、社会党左派の指導権確率に大きく寄与した。
レッジョ=エミーリア大会, リビア侵略, アヴァンティ
7
ムッソリーニはサンディカリストとともに戦争に反対するゼネスト「①」の闘争を指導する。その後突如参戦主義に転向した。 ヨーロッパの牙城である②と③を倒し、封建的な④を崩壊させることが世界の労働者階級の解放に繋がるとの主張に立場を変えた。「未回収のイタリア」を解放し、民族統一を実現するのは、心酔していた⑤の思想にも通じるものだった。
赤色週間, オーストリア, ドイツ, オスマン帝国, ガリバルディ
8
ムッソリーニはサンディカリストたちが作っていた「①」という団体に参加し、新たに「②」を発行した。その後マルクス主義とは決別し、③という概念を考案し③を全国的に組織化する④の構想を提唱していく。
革命行動ファッシ, ポーポロ・ディターリア, 生産者, ナショナル・サンディカリズム
9
ムッソリーニはポーポロ・ディターリアの副題を①から②と改め、生産者と並んで③という言葉を使った。
社会主義日刊紙, 戦闘者と生産者の日刊紙, 戦闘者
10
イタリア軍は1917年10月末の①でオーストリアに大敗北を喫し、自国内への侵入を許した。 ムッソリーニが17年末に書いた②という論説で参戦者の権利の擁護を主張している。
カポレットの戦い, 塑壕権力
11
ムッソリーニが階級闘争を放棄したもう一つの理由は①にある。②の結果、彼が依拠できる大衆は兵士だと考えたのである。 1918年11/11にドイツが③を結んだことで実質的に終わったが、戦後構想の過程でフランスが支持する④が建国された。④はロンドン秘密条約でイタリアに割譲されることになっていた⑤の領有権を主張したため、⑥をイタリア領とする案が浮上した。 賛同した政治家たちがミラノの⑦で開いた政権会見をムッソリーニは潰してしまった。
ロシア革命, 10月革命, 休戦条約, ユーゴスラビア王国, ダルマチア, フィウーメ, スカラ座
12
実力行使に出たムッソリーニは詩人の①が率いる前衛芸術家グループの②や③と呼ばれた特攻隊の元兵士隊とともに「④」という新団体を結成した。
フィリッポ・マリネッティ, 未来派, アルディーティ, イタリア戦闘ファッシ
13
先頭ファッシの綱領は6月に発表されたが、そこには国会に代わって各種職業団体により選出され、立法権をもつ①を設置すること、8時間労働と最低賃金の保障、労働者代表の経営参加、資本家への累進課税、戦時にあげた利潤の85%を没収するといった内容があった。 初期の戦闘ファッシは②近辺の限られた範囲にしか広がらなかった。
全国労働専門協議会, ミラノ
14
大戦中、中立主義を貫いた社会党は①がMARNIを成功させたことに刺激を受けて新たな綱領を採択した。 同じく中立派だった②は勢力は1919年に③を結成し、土地改革や地方自治などの④を主張した。
ボリシェヴィキ, ロシア革命, 人民党, カトリック, 農村民主主義
15
19-20年にかけてイタリアでは①や②が続発した。中部イタリアの③で、中でもポー河平原地帯の④から⑤にかけて、労働運動の中心は北イタリアの⑥や⑦といった大都市で、特に金属労働者が激しく戦った。⑦では20年春にストが発生し、労働者は自主的な組織である⑧の権限を経営者側に認めさせようとした。これは失敗に終わったが、金属労働者は8/30に⑨を開始し、約50万労働者が1月近くにわたって多数の工場を占拠した。この2年間を「⑩」という
農民争議, 労働争議, エミーリア・ロマーニャ地方, フェッラーラ, ボローニャ, ミラノ, トリノ, 工場評議会, 工場占拠闘争, 赤い2年
16
①においてイタリアはダルマチアもフィウーメも獲得出来なかった。民族主義者は「②」として条約の破棄を求めた。その先頭に立つたのは作家の③で、対戦中に脚光を浴びた。連合国とオーストリアが④を締結すると④は義勇軍を率いて⑤を占領した。
パリ平和会議, 損なわれた勝利, ガブリエーレ・ダンヌンツィオ, サン・ジェルマン条約, フィウーメ
17
伝統主義者の①は首相に就任し、工場占拠に対して最大労組の②との交渉を重ね、平和的な事態の収拾に成功した。が自由主義政権には不信が抱かれた。
ジョヴァンニ・ジョリッティ, 労働総同盟
18
ダンヌンツィオはフィウーメに①という政権を作って独自の憲法まで制定したが勢いを失っていた。イタリアはユーゴスラビアと1920/11/12に②を結んで国境を確定し、ダンヌンツィオに退去を求めた。
カルナーロ・イタリア執政府, ラッパロ条約
19
農村ファシズム 中部イタリアの①では組合統合に不満を持ち、②という組織を結成させ組合員や社会党支部への攻撃を始めた。
エミーリア・ロマーニャ地方, スクァードラ
20
最初の事件は1920/11/21に①で起き、地方選挙に当選した社会党市長の演説会場を②が襲撃した。スクァードラは「③」と称して労働会議所や社会党事務局を襲ったり暴行を加えたりした。翌年春には④〜⑥まで運動が広まり、これを⑦という
ボローニャ市, スクァドリスタ, 懲罰遠征, トスカーナ, ヴェネト, ロンヴァルディア, 農村ファシズム
21
ムッソリーニと同志たちは農村ファシズムに目をつけ、①〜④という4つのテーマで遊説を行った。
ファシズムと国家, ファシズムと労働運動, ファシズムと農業問題, ファシズムと外交政策
22
ムッソリーニの遊説は好評でファシズム運動で「①」と呼ばれる地方有力者にのしあがる人が登場するようになった。フェッラーラ地方の②、ボローニャ地方の③、クレモーナ地方の④などが代表的である。
ラス, イタロ・バルボ, ディーノ・グランティ, ロベルト・ファリナッチ
23
1921年、1月の党大会で最左派の①と②が分離し③を結成し、ジョリッティ首相の構想に狂いが生じた。そこで中道右派と民族主義者を糾合した④という新たな政治連合を結成して選挙を行い、主導権を握ろうと考えた。
アントーニオ・グラムシ, パルミーロ・トリアッティ, 共産党, ナショナル・ブロック
24
社会党との抗争の平和協定に反発したラスたちは九月に①で抗議集会を開き社会党や労働組合の関係機関を襲い回った。ムッソリーニはラスたちを抑えるために戦闘ファッシを「②」という名前で正当化した。
ラヴェンナ市, 国民ファシスト党
25
ムッソリーニはスクァードラに黒い制服を着せ軍隊式に編成し直した。彼らはガリバルディの「①」に準えて「②」と呼ばれる。 ③とした点が他の政党とは異なる。
赤シャツ隊, 黒シャツ隊, 軍事力を擁し、それを議会外の大衆運動の核
26
1922年1月にはファシスト組合の全国組織である①が結成され、書記長には革命的サンディカリストの②が就任した。 彼らの攻撃に対して社会党と労働組合は1922年7/31深夜から③を宣言した。これを黒シャツ隊は押さえ込み、その後ファシスト政権に期待が寄せられ、10/28には黒シャツ隊に「④」を命じた。 首相の⑤は戒厳令に国王の署名を求めたが⑥はそれを拒否してムッソリーニの組閣を命じた。
ファシスト共同体総連盟, エドモンド・ロッソー二, ゼネスト, ローマ進軍, ルイージ・ファクタ, ヴィットーリオ・エマヌエーレ三世
27
ファシスト体制の成立 首相に任命されたムッソリーニは司法行政の改革に関する①(期限1年)を成立させ、「②」に着手した。その一環として、黒シャツ隊を「③」に改組し、国家の合法的な軍事組織のひとつに組み込んだ。 ファシスタ党の組織も改編し、最高機関に④を設置、1923年2月には民主主義団体の「⑤」をファシスタ党に合同させ、伝統的支配階級との同盟を強化した。
全権委任法, 国家の再建, 国防義勇軍, ファシズム大評議会, イタリア・ナショナリスト協会
28
ムッソリーニは選挙法を投票総数の①%以上を得た最高得票の政党が全議席数の②をとるというルールに変えた
25, 2/3
29
新議会が始まると、統一社会党書記長①がファシストを激しく糾弾した。後に②の関与で暗殺され、野党は議会を退場して③を結成して機能不全に陥った。
ジャコモ・マッテオッティ, チェザーレ・ロッシ, アヴェンティーノ・ブロック
30
ムッソリーニはアヴェンティーノ・ブロックを逆手に取り「①」と称して「②」の開始を宣言した。民主主義の制度と組織が廃止され、第1に出版と言論の統制、③〜⑤の設置などだった。第2には閣僚が王と主張に責任を負うという⑥、政府の立法権を大幅に拡大した⑦が含まれる。これによって全ての権限が首長(⑧)であるムッソリーニに集中し、⑨と形容されるファシスト体制を築いた。
ファシズム第二革命, ファシズム独裁, 結社規制法, 国家防衛法, 特別裁判所, 首相の地位強化に関する条約, 政府立法法, ドゥーチェ, 個人独裁
31
ムッソリーニは裁判所を含む全ての国家公務員の罷免権を政府に与えた①や市町村長を公選制から任命制の②にする法律なども作られた。 第三は労使関係と生産組合の編成に関する諸制度で、③(通称④)や⑤の設置が代表的なものである。
公務員法, ポデスタ職, 集団的労働関係規制法, ロッコ法, コルポラツィオーネ省
32
反ファシズム運動は非合法化され、1926/6の①によって他の結社が禁止された。10月には②が起こり翌月に③が制定され、政治犯だけを扱う特別裁判所である④が設置され、政治犯を取りしまる⑤の設立や⑥の作成もされた。
秘密結社禁止法, ムッソリーニ暗殺未遂事件, 国家防衛法, 国家防衛特別裁判所, 秘密警察, 国民監視網
33
一党独裁国家の類型におけるファシズム体制の特徴 ファシスト体制は①と形容されるが、その党体制は曖昧であった。 ムッソリーニを中心に初代書記長の②、秘密警察創設者の③、④などが結成したグループは国家を重視し、ファシスタ党を規制の政治団体の構成員や支持者を糾合した「⑤」に成長させて、大衆的な合意を形成する道具にしようと考えた。
一党独裁, ミケーレ・ビアンキ, ジョヴァンニ・マリネッリ, チェザーレ・ロッシ, 国民的統合政党
34
党の理論誌「①」に集まっていた②③を中心にした若いインテリたちのグループはイタリアが専門的職業人に導かれた近代国家になるべきであり、ファシスタ党はその前衛である④に転換すべきでスクァドリスタは排除すべきだと考えた。
クリティカ・ファシスタ, マッシーモ・ロッカ, ジョゼッペ・ボッタイ, エリートの党
35
革命サンディカリスト達のグループは平等主義的な組合国家を構想して①の本性から独自の党は観念はもっていなかった。ここまでの3グループは極左思想で共通性があった。
アナーキスト
36
農村ファシストのグループは地方地主や自営農、中小企業経営者側出身者などで伝統的な支配階級を敵視し、国家機関に対する党の規制を拡大し、「①」の継続を要求する②を形成した。
ファシスト革命, 非妥協派
37
①や②に代表される「③」からファシスタ党に合流したグループは君主制のもとで権威主義的政府に指導された民族共同体としての国家を構想し、官僚制的に集権化された政党にしようと考えた。彼らは④と最も強く対立した。
アフルレッド・ロッコ, イージ・フェデルツォーニ, イタリア・ナショナリスト協会, 非妥協派
38
県知事とファシスタ党県書記の権限の問題は県知事の権限強化と①の導入で解決された。
ポデスタ制
39
ムッソリーニは1925/10に「全ては①にあってその外には無い、まして②もない」という③を発表している。
国家の中, 国家に対立する何物, 公式
40
1928/12に制定された①で党と国家の融合が最終的に完成した。 この法律は党の最高諮問機関であるファシズム大評議会を②と規定したものである。
ファシズム大評議会に関する法律, 国家の最高機関
41
大評議会に大きな権限が与えられたが、①と②、さらには③もムッソリーニに与えられていたので実際にはファシスタ党はムッソリーニに従属していたと言える。
召集権, 議長権, 構成員の任命権
42
共同体国家 革命的サンディカリストを自任する活動家たちは社会党から離れ、労働総同盟からも排除されたため、1912年に独自の組織である①を結成した。ww1が勃発すると、①は参戦はと反戦派に分裂し、参戦歯は1918/6に②を結成した。そのリーダーの③は戦闘ファッシの結成に加わりファシズム運動の一翼を担うことになる。
イタリア組合連合, イタリア労働連合, ロッソー二
43
ロッソー二は生産者概念を下敷きに「①」を構想した。これは生産力の増大を実現するために労使相方の階級主義を克服した②を国家の制度にしてしまうことである。
統合サンディカリズム, 労使協調
44
ロッソー二率いる①はファシズム体制の保護を受けて急速に勢力を拡大した。工業界はファシスト組合の介入を拒否続けた。1923年に工業総連盟と①の間で結ばれた②では、後者の代表権独占を否認する内容であったし、1925年の③では①の独占的代表権を認めたが、その代わりに④を廃止することも盛り込まれた。工業総連盟はその2ヶ月後に自主的に⑤に改称しファシスト化した。
ファシスト共同体総連合, キージ館協定, ヴィドー二館協定, 工場内部委員会, ファシスト工業総連盟
45
労働組合と合同した革命的サンディカリズムの機構改革にファシスト工業総連盟は反対していたのでムッソリーニは1928年にファシスト組合を六つの①に分割して政治的影響を低下させることでロッソー二の構想を潰した。
全国的労働組合連合
46
ナショナリスト出身の①はロッソー二とは異なるサンディカリスト国家の構想を持っていた。彼は中世イタリアのコムーネの職能団体(②)には私的利益を抑制し、階級感の協力と調和的発展を促す原理が存在していたと信じており、それを復活させて社会と国家の再編を進めようと考えた。
ロッコ, コルポラツィオーネ
47
ロッコの発想は国家を強化するために労働組合を利用する①という思想の1種だった。
ナショナル・サンディカリズム
48
ロッコはファシズム体制で①に就任しサンディカリズム国家を実現する法整備を行った。1926年4月に組合法を制定したが、その起草時に、②を想定していたが、経済界の抵抗もあり、連絡機関という曖昧なものになってしまった。そのため7月に公布された③でも経済的機能は持たず、1929年の④の解体後に商工関係の権限が⑤に移されたあとも状況は変わらなかつた。
法務大臣, コルポラツィオーネ, 共同体省設置例, 国民経済省, 共同体省
49
1930年の法改正で①が設置され、形式上は②が実現したが、その実態は工業界と官僚が結託した③する体制だった。結局ロッコのサンディカリズム国家は形式だけに止まり、労働組合の自主性を奪って国家の監視装置のひとつに変えただけであった。
共同体全国評議会, コーポラティズム国家, 損害を国民化し、利益を私化
50
一党独裁とは裏腹らに、ファシスタ党の活動は①と②が書記長の時代に儀式化し、政治的重要せいを失った。30年代には③も開かれなくなった。
アウグスト・トゥラーティ, アキーレ・スタラーチェ, ファシスト大評議会
51
ファシストが作った事業団のひとつに①がある。②の導入を機にその後の自由時間を労働運動や社会主義運動に用いられないように作られた。
全国ドーポラヴォーロ事業団, 8時間労働制
52
事業団の会長には党書記長の①が就任した。この事業団は大きくわけて国家公務員対象の②、民間企業設置の③、そして都市と農村に追い詰め居住区住民を対象に組織される④の三系統があり、④が特に重要であった。
トゥラーティ, 官庁ドーポラヴォーロ, 企業ドーポラヴォーロ, 居住区ドーポラヴォーロ
53
ファシストは1925年に母親と幼児の「身体的・道徳的状態の改善を促進する」ための団体として、①も設立された。 1926年には②という18世紀の伝統的な愛国少年③の名を冠した事業団も作られ、多くの特典が与えられた。その中では、「④」で友人とともに過ごすというものもある。 世界恐慌の影響で1931年夏には失業者と家族の援助のために⑤も設立された。 これは「⑥」の原則が適用されたと見れるが、①が⑦と呼ばれるボランティアに支えられていたように貫徹していた訳では無かった。
母子事業団, 全国バリッラ事業団, バリッラ, バリッラの家, 福祉事業協会, 全ては国家のうちに, パトロン
54
ファシズム体制の崩壊ムッソリーニ政権の目標は①を修正しイタリアの「②」を癒すことであった。
ヴェルサイユ条約, 損なわれた勝利
55
政権初期の成功は①での②の獲得と1926年の③の保護国化である。
ローマ条約, フィウーメ, アルバニア
56
ムッソリーニは領土拡大政策に満足せず、北アフリカやギリシャ・トルコに勢力圏を拡大しようとしたがアフリカでは①と東地中海では②と対立し、成功しなかった。
フランス, イギリス
57
世界恐慌で工業界は国家の助けを必要とし、1931年に①、1933年に②を設立した。これにより、工業界の政治に対する発言力が小さくなった。
イタリア長期信用公社, 産業復興公社
58
世界恐慌により、英仏米の①化が進められたために貿易相手国が②から③になった。 それに連動して、外交関係もそうなった。ムッソリーニは親英的な④を解任し、後任には娘婿の⑤を着け、ムッソリーニも軍務大臣を兼任し、党書記長に⑥を就任させて党員達に⑦を強要し独裁体制を強化した。1935年にはアフリカに残る数少ない独立国のひとつ⑧への侵攻を開始し、翌年に併合してこれを「⑨」と称した。
ブロック経済, イギリス, ドイツ, ディーノ・グランディ外相, ガレアツォ・チャーノ, スタラーチェ, ドゥーチェ崇拝, エチオピア, ローマ帝国の再興
59
外交面でもイタリアはドイツに従属し、1936年には①へ共同で介入し、ムッソリーニは両国の関係を②と呼び1937年に③へ参加し、国際連盟を脱退した。1938/9には④を制定し、1939/5にドイツと⑤を締結する。
スペイン内戦, ベルリン・ローマ枢軸, 日独防共協定, 人種法, 鋼鉄同盟
60
イタリアは1940年6月に①に加わり、10月末に②を開始した。これは単独で行った。ギリシャ軍の反撃により、1時はイタリアの③の国境内にまで攻め込まれた。しかし、④に加わった恩賞として⑤党⑥を手に入れるなどナチスの勝利が続く間は反ムッソリーニの動きは表面化しなかった。
第二次世界大戦, ギリシャ侵攻作戦, アルバニア, バルカン侵攻, ダルマチア, モンテネグロ
61
イタリア軍は1942年夏に共同で①への侵攻を企てるが7月と10月の2度に渡って②に敗れた。また、③によるドイツ軍の降伏もあり、戦局は公転した。 1943/7/10には英米軍が④への上陸作戦を開始した。7/24のファシスト大評議会で⑤はムッソリーニの不信任案を提出し、可決された。後任の首相となった軍人の⑥はファシスタ党に解散命令を出し、ファシスト体制は崩壊した。ムッソリーニの残党は北イタリアに⑦を作って1945/4まで生き延びるがナチスの傀儡政権に過ぎなかった。
英領エジプト, エル=アラメインの戦い, スターリングラードの戦い, シチリア島, グランディ, ピエトロ・バドリオ, イタリア社会共和国
62
アントーニオ・グラムシは文化的な支配力を①と呼んだ。
ヘゲモニー