問題一覧
1
※アーリヤ人は先住民を区別し、① (色)とよばれる身分制度をつくった。 アーリヤ人 ー バラモン(司祭者 クシャトリヤ(王侯・武士) ②(一般市民) 先住民ー③ 不可触民ー(①)をもたない最下位身分
ヴァルナ, ヴァイシャ, シュードラ
2
ヴァルダマーナを祖とする宗教はなにか。
ジャイナ教
3
武断政治を改め、仏教に厚く帰依して、ダルマによる統治をかかげ、不殺生と倫理を重んじた、マウリヤ朝第3代の王は誰か。
アショーカ王
4
バクトリア地方の大月氏から独立したクシャーナ朝が、最盛期を迎えた時の王は誰か。
カニシカ王
5
大乗仏教では救済を求めて仏像が崇拝されたが、仏像が生まれた場所はどこか。地方名を答えなさい。
ガンダーラ地方
6
アラビア半島は7世紀にはササン朝とビザンツ帝国が東西に対峙するなかで、アラブ人の住む A は隊商貿易の中継都市として繁栄していた。
メッカ
7
ムハンマドは少数の信者と共に、622年、メディナへ移住 B し、ここで、信者との間で契約を結び、共同体を作ることを宣言した。
ヒジュラ
8
ムハンマドが没すると、信者の中から、アブー・バクルがその後継者 C として運ばれて、共同体の政治指導者となった。
カリフ
9
ウマイヤ朝の説明として正しいものをひとつ選び、記号で答えなさい。 ア.フランク王国軍に勝利 イ.アラビア語が公用語 ウ.ハラージュを廃止 エ.非アラブ人を優遇
イ
10
第4代カリフのアリーを支持する人々が、アリーの死後に形成した一派はなにか。
シーア派
11
アラブ人にも非アラブ人にも土地勢を貸すことで不公平をなくし、イスラーム法を当時の基礎に吸えた王朝は何か。
アッバース朝
12
13世紀はじめ、テムジンがハンの位につき、チンギス・ハンと名乗った周回をカタカナでなんと言うか。
クリルタイ
13
大ハンのもとでゆるやかに連合した、モンゴル帝国を構成する三つのハン国はチャガタイとイル、あと1つは何か。
キプチャク
14
みずから支配する地域を中国風に元とよび、13世紀後半に大ハンとなった人物は誰か。
フビライ
15
元が中国を支配するにあたり、モンゴル人のもとで、財政などの実務を担当する西域諸民族はなんと呼ばれたか。
色目人
16
元が発行した紙幣を何というか。
交鈔
17
チベットより元に招かれ、保護されたチベット仏教の高僧は誰か。
パスパ
18
14世紀なかごろ、政治や経済が混乱する中、元がモンゴル高原に退き、明の建国のきっかけになった、白蓮教徒が起こした反乱をなんというか
紅巾の乱
19
元の時代は、異文化間の活発な交流が見られた。 イスラームの文化と学問がつたわり、郭守敬が作った暦をなんというか。
援時暦
20
宗教改革は、教皇がサン・ピエトロが大聖堂建築のために ① (贖宥状)を販売されたことに対して、ドイツの神学者ルターが1517年に発表した「95ヶ条の論題」で批判したために始まった。
免罪符
21
1823年 アメリカ合衆国はヨーロッパ諸国を排除するために ① 宣言を発表
モンロー
22
1853年 南下政策を図ったロシアは、オスマン帝国に対して ② 戦争を起こした。
クリミア
23
1860-1861年 青年イタリア出身の ③ は、両シチリア王国を征服してサルディニア王に献じ、サルディニア王を国王としてイタリア王国が成立した。
ガリバルディ
24
1861-1865年 ④ 戦争勃発。リンカン大統領の奴隷解放宣言ののち、北部が勝利を収め、アメリカは、北部主導の工業国となった。
南北
25
1861年 ロシア皇帝アレクサンドル2世は、⑤ 令をはじめとする大改革を行い、経済と社会の近代化をはかった。
農奴解放
26
1871年 ヴェルサイユ宮殿 ⑥ はドイツ帝国の皇帝に即位し、ドイツ帝国が成立した。
ヴィルヘルム1世
27
中国では列強の進出を国家の危機と受けとめ立憲君主政をめざす ① を試みた。
変法運動
28
1898年に ② と弟子の梁啓超は、日本をモデルに制度改革に着手したが西太后や官僚の支持を得られず失敗した。
康有為
29
ドイツ支配下の山東省では、キリスト教への反感が強まり、伝統的な民間信仰に根を持つ農村の自営組織だった ③ が「扶清滅洋」をとなえて協会へ襲撃をくりかえした。
義和団
30
ロシアの南下に危機感を強めた日本とイギリスが、1902年に結んだ同盟は何か。
日英同盟
31
1905年、アメリカの仲介により結ばれた、日露戦争の講和条約は何か。
ポーツマス条約
32
清朝の末期について述べた次の分のうち、正しいものを1つ選びなさい。
1912年、革命派は孫文を臨時大統領に選び、中華民国の成立を宣言した(辛亥革命)。
33
1898年、フィリピンにおいてスペインからの独立宣言を発して革命政府を樹立した人物。
アギナルド
34
1904年、ベトナムで明治維新にならった独立と立憲君主政をめざして、日本への留学運動を行った人物。
ファン・ボイ・チャウ
35
南アジア、西アジアについて述べた文で、下線部が誤っているものはどれか。ア〜エから1つ選び記号で答えなさい。 1905年、イギリスは ア.(ベンガル分割令)を出し、ヒンドゥー教徒とムスリムの宗派対立を利用して民族運動の分裂をはかった。ムスリムの指導者は、イ.(全インド・ムスリム連盟)を結成し、イギリスはこれを後押しした。 オスマン帝国では、1908年、軍の反乱をきっかけにウ.(王権の復活)を勝ち取り、経済や法制の改革を進めた。 イランでは三権分立の原則に基づいた憲法が発布された。エ.(イラン立法革命)
ウ
36
旧来の秩序を守ろうとして、神聖ローマ帝国 ② がルターへの法的保護を停止すると、皇帝に不満を持つ領邦君主や都市がルターを支持し、ドイツでは騒乱が続いた。
カール5世
37
ジュネーヴで宗教改革を指導したカルヴァン派、予定説を提唱し、人が神によって救われるには神から与えられた自分の職業に励む以外にないとして、利益・蓄財をみとめた。 イギリス国王 ③ は教皇と対立し、国王を主張とするイギリス国協会を成立させた。
ヘンリ8世
38
ローマ・カトリック教会に反抗して、分離・独立した教会は ④ 教会と呼ばれた。 16世紀以降、ヨーロッパ諸国で宗教上の対立が政治上の対立が政治上の争いと重なり、悲惨な戦争が多発した。
プロテスタント
39
16世紀後半のフランスでは、王族や貴族がカトリックと ⑤ (カルヴァン派)にわかれて戦った(⑤)、イングランドではピューリタンと呼ばれた。
ユグト
40
ドイツでは17世紀のはじめに30年戦争が起きら30年戦争の荒野会議で結ばれた ⑥ 条約以降、一刻の国家運営に他国は干渉せず、国家主権が尊重される主権国家体制が確立した。
ウェストファリア