問題一覧
1
16世紀以降の西アジア、南アジアで繁栄した3つのイスラーム帝国
オスマン帝国 サファヴィー朝 ムガル帝国
2
1453年にオスマン帝国は「 」を征服し、「 」を滅ぼした
コンスタンティノープル ビザンツ帝国
3
オスマン帝国は、16世紀半ばの「 」の時に最盛期を迎えた
スレイマン1世
4
聖教「コーラン」と預言者ムハンマドの言行をもとにした法
イスラーム法
5
イスラーム教徒のこと
ムスリム
6
フランスなどのヨーロッパ人には、オスマン帝国の領内での居住と通称の自由を公認したこと
カピチュレーション
7
1683年の「 」の失敗でオスマン帝国の領土は縮小に転じた
ウィーン包囲
8
サファヴィー朝はイスラーム教の「 」を国教とした
シーア派
9
サファヴィー朝は首都の「 」は美しいモスク・宮殿・庭園などを誇り、「イスファハーンは世界の半分」と呼ばれた
イスファハーン
10
イランには、ナーディル・シャーが「 」を建国し、さらにテヘランを首都とした「 」がおこった
アフシャール朝 ガージャール朝
11
インドで16世紀に成立したムガル帝国は、第3代皇帝「 」が中央集権的な統治機構を整備し、また、非ムスリムに課せられていた「 」を廃止した
アクバル ジズヤ
12
17世紀後半、「 」の時代にムガル帝国は最大の版図となったが、しだいに帝国の支配は弱体化していった
アウラングゼーブ
13
イスラーム教に深く帰依したアウラングゼーブはヒンドゥー教寺院の破壊や「 」を命じて、非ムスリムの反発をまねいた。
人頭税復活
14
東南アジアには16世紀以降、ポルトガル・スペイン・オランダ・イギリスなどヨーロッパの勢力が進出し、東アジアからインド洋にかけておこなわれた「 」の中継地として栄えた。
アジア域内貿易
15
タイのアユタヤ朝は、国際貿易からの利益を財政的な基盤とする典型的な「 」であった。
港市国家
16
スペインが拠点をおいた「 」はメキシコのアカプルコと大型帆船であるガレオン船によって結ばれた。
マニラ
17
東アジアの国際関係の特徴は、古くから中国の王朝を中心とする「 」が結ばれてきた。
朝貢関係
18
明はムスリムの宦官である「 」の率いる大艦隊を東南アジア・インド洋に派遣して、この方面の諸国にも朝貢をうながした。
鄭和
19
中国人や日本人の入りまじる商人集団が、民の取り締まりに逆らって密貿易をおこなうかたわら、略奪行為もおこなうようになり、彼らは中国側から「 」と呼ばれた。
倭寇
20
日本と中国との双方に拠点を得たポルトガル人が日中間の貿易の担い手となり、大きな利益をあげた貿易
南蛮貿易
21
朝鮮侵略「 」
文禄・慶長の役
22
1644年、清が中国本土を占領し、「 」を首都として大帝国を築くこととなった。
北京
23
清では、漢人の男性に「 」を強制した。
辮髪
24
18世紀半ば、清は治安上の理由からヨーロッパ船の来航を「 」1港に限定した
広州
25
清では、大航海時代にアメリカ大陸から伝来した「 」や「 」など、山地でも栽培可能な新作物は、山地の開墾をうながして、人口増を支えた。
トウモロコシ サツマイモ
26
清では、開墾による環境破壊と自然災害の増加は社会不安を生み出し、18世紀末には四川を中心とする新開地の山間部で「 」がおこった。
白蓮教徒の乱
27
大名は領地の支配を認められたかわりに、将軍に対して普請(土木工事)などを含む「 」をつとめた。
軍役
28
幕府はキリスト教を厳禁し、家ごとに個人の宗旨を檀那寺に証明させる方法で「 」を制度化した。
宗門改め
29
江戸時代には長崎のほか対馬・琉球を通じて貿易がおこなわれ、日本へは中国産の「 」・絹織物、東南アジア産の砂糖、朝鮮の人参をはじめとする薬種などが輸入された。
生糸
30
江戸時代の輸出品は初めは主に銀で、やがて銅とされ、それら貨幣の素材となる鉱物資源が不足すると「 」(海産物)とされていった。
俵物
31
大阪は水上交通の要に位置して商業・金融の中心地となり、近郊には「 」の栽培とそれに関連した加工業が発達した。
綿花(木綿)・菜種
32
琉球王国は1609年、徳川家康の許可を受けた薩摩の「 」に攻められ、その支配下におかれた。
島津氏
33
琉球の貿易は薩摩藩や幕府の規制を受け、しだいに日本向けの「 」生産に力を注ぐようになった。砂糖は薩摩藩や同藩領の商人によって大阪などで売られ、かわりに蝦夷地などで産した「 」や俵物が琉球へ持ち込まれ、中国へ輸出された。
砂糖 昆布
34
渡島半島南部を支配していた和人の武将「 」は、1604年に徳川家康から蝦夷ヶ島の支配権を保証された。
松前氏
35
神聖ローマ帝国の力が弱まり、広く支配をおよぼす単一の権威や権力は失われた。その結果、イギリスやフランス・スペイン・オランダをはじめとする中規模の国々が台頭した。これらの国々は大半が君主国であり、各国の君主は国内では諸侯(貴族)の力をおさえて「 」を進め、対外的にほかの国々と形式上は対等な立場で外交関係を結んだ。こうしたヨーロッパの国家構造と国際秩序を「 」と呼ぶ。
中央集権化 主権国家体制
36
同一人物が複数の王国の君主を兼ねた「 」
同君連合
37
ドイツ(神聖ローマ帝国)では、16世紀の宗教改革と17世紀の長期にわたる戦争の結果、皇帝の権力が弱まり、それぞれの「 」が独自に発展することになった。
領邦国家
38
フランスでは「 」の時代に、君主が国内の貴族の力をおさえつつ、全国議会も開かずに権力を自身に集中して統治する体制が築かれた。
ルイ14世
39
イギリスでは、地主(貴族および平民)を中心とする全国議会の力が強く、17世紀半ばのピューリタン革命で一時的に君主制を廃止し、共和制に移行した。その後、君主制に戻ったが、1688~1689年に「 」がおこると、権利の章典によって国王と議会が共同で統治にあたる原則が確立され、それをもとに世界初の「 」が始まった。
名誉革命 立憲君主政
40
立憲君主制が始まり、議会の権力が増すと、君主は自らの権力を有力議員に代行させるようになり、この人物(首相)が議会の多数派を率いて国政を動かす「 」が成立した。
議院内閣制
41
主権国家体制の形成によって、新しい形の国家と国際関係が登場したが、16~17世紀のヨーロッパは、精神面でもそれ以前と比べ大きく変化した。第1が、西ヨーロッパにおける「 」である。現世の利益を追求しがちだったがカトリック教会への抗議の動きとして「 」諸派が登場した。
宗教改革 プロテスタント
42
「 」の教えでは、人が神に救われるためには聖職者による導きと、個人の善行が必要とされたが、プロテスタント諸派は、聖書や礼拝の言語をラテン語から諸国の日常語に変更し、真の信仰は信徒がみずから聖書を読んで得るものとした。
カトリック
43
カトリックの改革で誕生した「 」は、布教と教育に力を入れ、「大航海時代」のヨーロッパの海外進出と連携して、中南米(ラテンアメリカ)や日本をはじめとするアジア諸地域にも布教した。
イエズス会
44
17世紀のヨーロッパで花開いた自然科学は、後世に多大な影響を与えることになった。こうして、観察の対象となる自然界そのものが拡大するとともに、自然界の諸現象にひそむ法則を科学者たちが追求し、新たに解明された法則が検証を経て確認される、という自然科学の基本的な手続きが確立した。こうした一連の変化を「 」と呼ぶ。
科学革命
45
14世紀頃の地中海では商業が活発になっており、海上貿易で取引された物品のなかでも、とくにアジア産の「 」は重宝された。
香辛料
46
「 」の「世界の記述」(「東方見聞録」)以来、どこかにあると信じられてきた「黄金の国」もヨーロッパ人の想像をかきたてた。
マルコ=ポーロ
47
「大航海時代」の結果、「 」も始まったが(グローバル化の最初の段階)、その影響は南北アメリカ大陸とアジアでは大きく異なっていた。
世界の一体化
48
メキシコ以南の地域では、スペイン人・ポルトガル人・イギリス人・フランス人・オランダ人は、この地域の大陸およびカリブ海諸島に入植して大規模農園(プランテーション)を開き、「 」や「 」を持ち込んでヨーロッパ市場向けの大規模生産を始めた。
サトウキビ コーヒー
49
メキシコ以南の地域では、ヨーロッパ人から感染した「 」や過酷な労働で先住民の人口が激減して労働力が不足すると、西アフリカから大勢の黒人が奴隷として送り込まれた。
伝染病
50
「 」やサツマイモ・トウガラシ・インゲン豆・トマト・ピーナッツ・トウモロコシ・タバコ・カボチャ・カカオなど、中南米から新たにもたらされた農作物が、ヨーロッパ社会に長期的に大きな影響をおよぼすことになった。
ジャガイモ
51
ヨーロッパ人は、アジアから香辛料だけでなく、「 」・綿織物・絹などの豊かな物産を大量に持ち帰ったが、かわりとなる有力な商品をもたなかった。
茶・陶磁器
52
貿易特許をもつ会社を設立して保護し、外国の産品の輸入に高い関税をかけ、また自国や植民地の貿易から他国の船を排除するなど、排他的な経済圏を成立させようとするものであった考え
重商主義
53
重商主義体制の枠組みのなかから、まったく新しい経済の仕組みが生まれ、19世紀には重商主義体制を崩していく。それが「 」である。
産業革命
54
「大航海時代」にインド航路が開けると、華やかな模様の「 」が輸入されるようになり、17世紀のイギリスで人気商品となった。
インド産綿織物
55
一連の技術革新のなかでもっとも重要なのが、すでに炭鉱で用いられていた「 」の製造業への転用である
蒸気機関
56
女性や子どもを低賃金で雇った。また、こうした新しい工場で生産された安価な製品が手工業製品を圧倒したため、資本をもつ経営者(資本家)が、「 」を工場で雇用しつつ、利益の拡大を目的にほかの資本家と競争しながら自由に生産・販売するようになった。
賃金労働者
57
産業革命を経て機械化工業が経済の主役となる過程を「 」と呼ぶ。
工業化
58
ヨーロッパでは、16世紀から鉄砲・大砲が戦争で本格的に使われるようになっていた「 」
軍事革命
59
蒸気機関の利用が普及すると、これをさらに別の用途にも転用しようとする動きが生まれた。第一が「 」であり、19世紀初めのアメリカで実用化された。
蒸気船
60
蒸気船につづいて「 」が、産業革命で発展した諸技術の集大成となった。
鉄道
61
蒸気鉄道の技術と車両はイギリスの主要輸出品にもなり、19世紀半ばにはヨーロッパおよび北アメリカ大陸・インド・中国・日本にも輸出され、さらにロンドンでは「 」も開通した。
地下鉄
62
19世紀初めには「 」を利用する試みが始まり、19世紀半ばになると電気を利用した通信である「 」が実用化されて、大西洋横断海底電信網とアメリカ合衆国での「 」が完成した。一連の交通と通信技術の発達「 」は、原料や商品の高速・大量輸送や情報伝達の迅速化を可能とし、「世界の一体化」をいっそう進めた。
電気 電信 大陸横断電信網 交通革命・通信革命
63
主権国家体制のもと、ヨーロッパでは戦争が頻発し、各国が争ったが、「 」(1756~1763年)が転機となった。
七年戦争
64
イギリスの「 」は、七年戦争後には本国の約3分の1の経済規模をもつまでに成長したが、産業の違いに加えて、宗派交際や人種構成の違いなど、かなりの内的な差異を抱えていた。
北アメリカ植民地
65
七年戦争後の財政赤字に対応するために本国政府が植民地に直接に課税すると「 」、植民地は本国議会に議員を送っていなかったため、「 」とのスローガンを掲げて抵抗した。
印紙法 代表なくして課税なし
66
印紙法による課税は撤回されたが対立は続き、本国が重要な貿易品だった中国茶の販売権を東インド会社に独占させると、一部の植民地の人々は運び込まれた茶を船から強奪し、港に廃棄した「 」。
ボストン茶会事件
67
ボストン茶会事件に対して、本国政府が港を軍事封鎖する強硬姿勢に出たため、植民地側は各植民地の代表からなる「 」を設置して抗議した。
大陸会議
68
北アメリカ大陸植民地側は1776年に独立宣言を発し、連合軍を組織して「 」を総司令官に任じた。
ワシントン
69
北アメリカ大陸植民地側が勝利して1783年に「 」として独立が承認され、イギリス国王との絆を断って共和制を発足させた。
アメリカ合衆国
70
独立宣言は、すべての人間が神によって平等につくられ、生命、自由、「 」などのゆずることのできない権利をもつとした。
幸福の追求
71
アメリカ合衆国は立法・行政・司法の「 」と、各州の権力と中央政府の権力が成立する「 」を樹立した点でも、各国の先例となった。
三権分立 連邦制
72
フランスでは、国王ルイ16世は聖職者や貴族などの免税特権をもつ身分にも課税して赤字に対処しようとしたが、彼らが抵抗したため、全国議会「 」を約170年ぶりに開催された。
三部会
73
1789年に開催されると、平民身分のうちの富裕層であるブルジョアジー出身の議員がみずからを真の国民の代表であると宣言し、独自の議会を設置した。国王はこれを鎮圧しようとしたが、民衆蜂起「 」がおこったため、国王や特権身分が譲歩して新議会が承認された。新議会は同年に「 」を発した。
バスティーユ牢獄の襲撃 人権宣言
74
人類全体を、国をこえた1つの世界に属する同胞とみなす考え方。
世界市民主義
75
フランスの革命政府は、当初は準備不足もあって苦戦し、敵側への内通が疑われたルイ16世を廃位(のち処刑)して共和制を始め「 」、「 」を導入して軍事力を強化した。また、戦争遂行のために経済を統制しつつ、政府の施策に反対の姿勢をみせる者を弾圧・処刑した「 」。
第一共和政 徴兵制 恐怖政治
76
イタリア遠征やエジプト遠征で名声を得ていた「 」は、クーデターで新政府の樹立を認めさせ、新憲法を定めて革命の終結を宣言しつつ、実質的な独裁権力を握った。その後ナポレオンは、1804年に国民投票で「 」として即位し、フランスは帝政に移行した(第一帝政)。
ナポレオン=ボナパルト ナポレオン1世
77
ナポレオンは内政にも力を注ぎ、同年に「 」を公布し、人権宣言で理想として掲げられた原則を法で現実化した。
民法典
78
ナポレオンは、大陸諸国にイギリスとの貿易を禁じた「 」。
大陸封鎖令
79
ナポレオンは大軍を率いて「 」したが、大敗して権力の柱である軍事力を失った(1812年)。このため彼の支配に対する「 」が各地で始まり、敗れたナポレオンは即位した(1814年)。
ロシアに遠征 解放戦争
80
1815年、戦後の混乱に乗じたナポレオンは再び皇帝の座につくが(百日天下)、諸国の同盟軍に「 」で敗れ、流刑となって死去した。
ワーテルローの戦い
81
ナポレオン後のヨーロッパ国際秩序「 」は、イギリス・フランス・ロシア・プロイセン・オーストリアが主要国として参加して1814年~1815年にウィーンで開かれた講和会議「 」によって決定された。
ウィーン体制 ウィーン会議
82
君主の権力を憲法で制限し、議会を開設してブルジョアジーや知識人の政治参加を実現しようとする「 」の運動が、各国で高揚した。
自由主義
83
1830年のフランスでの「 」は成功し、国民主権の原則のもとでの「 」が確立された。
七月革命 立憲君主制
84
フランス革命期やナポレオン支配期に、権利および法における平等の理想が諸国に広められた結果、それぞれの国で、身分・団体・地域差などの内部の差異を解消して、たがいに等しい権利をもち、共通の方に服し、同一の言語を話す均質な人々を主役とする社会を築こうとする動き「 」が始まった。一律な「 」の登場も、次世代の国民を形成する働きをもったため、国民主権をあと押しした。
国民主義 初等教育
85
ウィーン体制下において、ナショナリズムはオスマン帝国からの「 」として最初に現れ、これはヨーロッパ諸国の援助もあって成功した(1829年)。また、「 」もイギリスの援助を受けて実現し、ウィーン体制は綻びをみせはじめた。
ギリシア独立運動 ベルギーのオランダからの独立運動
86
ドイツ諸国での革命の動きとして、連邦方式による統一ドイツ国家の建設が試みられた。自由主義者を中心に「 」(全ドイツ議会)が設置された。
フランクフルト国民議会
87
1848年のヨーロッパ革命で最大の結果となったのがフランスの「 」である。フランスでは、パリの民衆の蜂起を受けて立憲君主制が倒れ、共和制「 」が樹立された。
二月革命 第二共和政
88
ナポレオン1世の甥に当たるルイ=ナポレオンは1852年、国民投票法によって皇帝に即位し「 」、ここにフランス「 」が始まった。
ナポレオン3世 第二帝政
89
イギリスは経済的には、自国の農業を保護するための輸入関税(穀物法)や重商主義的な規制を撤廃して「 」に移行した。
自由貿易体制
90
ヨーロッパ各国では、工業化の進行によって生じた資本家と労働者とのあいだの格差が問題となり、労働者は組合をつくって雇用や賃金を守ろうとした。他方で一部の知識人は、当時の経済体制を「 」と呼びはじめ、その害悪を是正するための対抗理論を模索した。これらの内容は様々であったが、総じて「 」と呼ばれた。そのうち最大の影響力をもった「 」と「 」によれば、資本主義の根本的な問題点は、資本家同士が競争を強いられているため、利益を拡大しようとして労働者階級の賃金をおさえることにあった。
資本主義 社会主義 マルクス エンゲルス
91
資本主義の問題点を解決するためには個別に賃金を上げるだけでは不十分であり、私的所有権の一部を制限しつつ土地や工場・銀行などを公有化するための社会革命が必要であるとして、マルクスとエンゲルスは「 」(1848年)を公刊した。
共産党宣言
92
1853年、ロシアは黒海・バルカン半島への進出をめざす南下政策のもと、オスマン帝国内のギリシア正教徒保護を名目に、同国と開戦した「 」。
クリミア戦争
93
クリミア戦争で、蒸気機関を備えた軍艦を主力とするイギリス・フランス側に、帆船を主力とするロシアは大敗し、「 」(1856年)により、黒海の中立化を受け入れた。
パリ条約
94
19世紀半ばから後半にかけ、イギリスは「 (イギリスの平和)」と呼ばれる絶頂期を迎えた。
パクス=ブリタニカ
95
1851年、ロンドンで開かれた「 」で、イギリスは工業製品のほか、植民地の産品も大々的に展示し、その繁栄を誇示した。
第1回万国博覧会
96
イギリスでは、1860年代に、保守党と自由党とが議会選挙を争い、勝者が交互に政権を担当する、古典的な「 」が成立した。
二大政党制
97
ナポレオン3世は、1870年、「 」(ドイツ=フランス戦争)に敗れ、ナポレオン3世自身が捕虜となり、第二帝政は崩壊した。国内では新たに臨時政府が成立し、共和制が復活した。「 」
普仏戦争 第三共和政
98
イタリアでは、「 」統治下の「 」が、自由主義者の首相「 」のもとで近代化を進めて台頭し、統一運動の中心となった。「 」出身の「 」は、両シチリア王国を占領したが、イタリア統一を果たすために占領地をサルデーニャ王にゆずった。1861年にヴィットーリオ=エマヌエーレ2世を国王として成立した「 」は、1870年にイタリア統一を実現した。
ヴィットーリオ=エマヌエーレ2世 サルデーニャ カヴール 青年イタリア ガリバルディ イタリア王国
99
ドイツ統一の主導権は自由主義者から、プロイセンの保守的支配層である「 」に移った。ユンカー出身のプロイセン首相「 」は、「 」をとなえ、軍備増強と、武力によるドイツ統一を推進した。
ユンカー ビスマルク 鉄血政策
100
19世紀前半にマッツィーニが結成した、イタリア運動のための組織。
青年イタリア