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世界史
  • みやけん

  • 問題数 41 • 6/5/2024

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    問題一覧

  • 1

    カール大帝が行なった支配の方法を説明せよ。

    広大な領土を集権的に支配するため、全国を州にわけ、地方の有力豪族を各州の長官である伯に任命し、巡察使を派遣して伯を監督させた。

  • 2

    屯田制を説明せよ。

    魏の時代に採用された、流民・兵士に田地を与えて耕作させ、生産物を地代としてとる土地政策。

  • 3

    占田・課田法はいつの時代のどの国で発布され、その目的は何か、説明せよ。

    西晋の武帝が3世紀後半に、大土地所有の制限と税収の確保を目的として発布した。

  • 4

    均田制を説明せよ。(いつ発布?その後の展開は?狙いは?)

    北魏で発布された土地制度で、隋、唐にも継承されたが、隋の時代には奴隷、耕牛への土地の支給が廃止され、唐の時代に支給対象は成年男子のみとなった。唐の時代の均田制は農民に土地を等しく与えることによって生活を安定させ、同時に租庸調などの税と府兵制での兵役を農民に負担させて国家の財政と軍備を維持しようとすることがねらいであった。

  • 5

    新王国時代のエジプトから、ヘブライの民と呼ばれる人々は、モーセに率いられて脱出し、 やがてパレスティナに定住の地を見いだしたという。前10世紀頃、ソロモン王の時代には栄華を極めた。その後の数百年の間に、ヘブライ人は独自のユダヤ教を築きあげた。その成立過程について、彼らの王国の盛衰との関わりを考慮しながら、4行以内で説明せよ。

    統一王国がイスラエル王国とユダ王国に分裂した後、前者はアッシリア、後者は新バビロニアに征服され、住民は強制移住されるなど多くの民族的苦難を受ける中で、メシアの待望・唯一神ヤハウェの信仰・選民思想を特徴とするユダヤ教が成立した。

  • 6

    紀元前8世紀のエーゲ海周辺ではポリスと呼ばれる都市が古代ギリシア人によって形作られた。ポリス形成の過程を、2行以内で説明せよ。

    ポリスの形成は、有力貴族の指導のもとでアクロポリスを中心に集住することによるものと、先住民の征服によるものがあった。

  • 7

    オリエントあるいは西アジアに浸透したヘレニズム文化は、さらにインドにも影響を及ぼしている。とりわけ1世紀頃から西北インドにおいてヘレニズムの影響を受けながら発達した美術には注目すべきものがある。その美術の特質について、3行以内で説明せよ。

    クシャーナ朝時代、ヘレニズムの影響を受けて発達したガンダーラ美術はインド史上初の仏像彫刻を伴い、表情や衣服の表現にギリシア風の写実的な特徴を持つ美術であった。

  • 8

    ローマの版図拡大において軍役を担った市民は、紀元前4~3世紀には政治的権利を発展させたが、軍役の長期化は次第に自作農でもある市民の没落をも招き、民主政は危機に陥った。自作農没落の原因として、軍役の長期化以外にどのようなことが考えられるか。一点のみ簡潔に記せ。

    ラティフンディアと呼ばれる奴隷制大農園経営により属州で安価な果樹栽培が始まったこと。

  • 9

    ローマの平和と繁栄をしめす都市生活を支えていた公共施設について2行以内で説明せよ。

    民衆に娯楽を与える目的でコロッセウムや大浴場が、都市生活を支えるインフラとして水道橋が建設された。

  • 10

    ビザンツ帝国は6世紀のユスティニアヌス帝の時代に地中海を取り巻く多くの地域を征服したが、彼の死後、次第にその支配地を失っていった。その過程で大きな影響を与えたのがトルコ系の人々の打ち立てた諸国家による攻撃であった。この経緯について4行以内で記述せよ。

    ブルガール人がバルカン半島に進出し、9世紀にブルガリア帝国が建設された。さらに11世紀半ばにはセルジューク朝が小アジアに進出し、1453年にメフメト2世がコンスタンティノープルを占領し、ビザンツ帝国は滅ぼされた。

  • 11

    カリフとは「代理人」の意味で、預言者ムハンマドの没後、その代理としてムスリム共同体(ウンマ)の指導者となった人のことを指す。単一のカリフをムスリム共同体全体の指導者とする考えは近代にいたるまで根強いが、政治権力者としてのカリフの実態は初期と後代では異なっていた。7世紀前半と11世紀後半を比較し、その違いを3つ挙げて4行以内で説明せよ。

    7世紀前半、カリフはムハンマドの後継者としてムスリムの選挙で1人が選ばれ、政治的・軍事的な権力まで握っていたが、11世紀のカリフは世襲制で複数のカリフが分立し、スルタンの登場によって世俗の権力を失い宗教的権威のみを持つようになった。

  • 12

    イクター制を説明せよ。

    君主が軍人・官吏に土地の徴税権を与え占領地を管理させるかわりに彼らに軍事的・行政的奉仕を課す軍事封建制度。

  • 13

    インド亜大陸へのイスラームの定着は海陸両方の経路から進行した。そのうち、カイバル峠間を通るルートによる定着過程の、10世紀から16世紀前半にかけての展開を、政治的側面と文化的側面の双方に触れながら4行以内で説明せよ。

    インドへのイスラームの浸透はガズナ朝とゴール朝の侵入に始まり、13世紀からのデリー=スルタン朝を経て、16世紀にはムガル帝国が北インド支配を確立した。この間ヒンドゥー文化にイスラーム的要素が加えられたインド=イスラーム文化が成立・発展した。

  • 14

    唐の時代、三省はそれぞれ役割を分担しつつ国家統治を実現していた。皇帝の発する詔勅は三省の間でどのように処理され、また三省と六部とはどのような関係にあったのか。2行以内で説明せよ。

    中書省が詔勅の草案を作成し、門下省の審査の後、尚書省が実行した。六部は尚書省の下に置かれ、実務を担った。

  • 15

    唐代に入ると詩文には様々な変化が起こった。文章については唐代中期以降、漢代以前に戻ろうとする復古的な機運が生まれた。唐代におけるその機運について2行以内で説明せよ。

    韓愈や柳宗元は魏晋南北朝以来もてはやされた技巧的な四六駢儷体を批判し、漢代以前の簡素で質実剛健な古文の復興を唱えた。

  • 16

    史上たびたび、アジアには広域支配を行う国家が登場し、民族的に多様な人々を治めるのに工夫をこらした。また近代に入ると、国民国家の考え方が、多数派を占める民族と少数派の民族との関係にも大きな影響をもたらした。これらは、今日に至るまで民族の統合や衝突の背景となっている。清朝は、藩部を掌握するために、どのような政策をとっていたのか。2行以内で説明せよ。

    藩部の宗教や慣習には干渉せずモンゴル王侯やチベット仏教のダライラマなどの支配を認め、理藩院を通じ間接的に統治した。

  • 17

    13世紀に設立されたフランチェスコ会(フランシスコ会)やドミニコ会は、それまでの西欧キリスト教世界の修道会とは異なる活動形態をとっていた。その特徴を2行以内で記せ。

    従来の修道会は世俗から離れた所に設置されたが、托鉢修道会は、信者からの寄付で生活しながら都市で民衆を教化した。

  • 18

    キリスト教世界は8世紀から11世紀にかけて東西の教会に二分された。その二つの教会のいずれか一方と関わりの深いビザンツ帝国と神聖ローマ帝国とでは、皇帝と教会指導者との関係が大きく異なっている。11世紀後半を念頭に置いてその違いを4行以内で説明 せよ。

    ビザンツ帝国の皇帝はギリシア正教を支配する政教両面の指導者として帝国を統治したが、神聖ローマ帝国では皇帝とローマ教皇が聖職叙任権を巡って対立しており、教皇はカノッサ事件に見られるように、皇帝と諸侯の関係を背景に皇帝を屈服させていた。

  • 19

    7世紀にイスラーム教徒は独自の暦を作り出し、その暦は他の暦と併用されつつ広く用いられてきた。イスラーム教徒独自の暦が、他の暦と併用されることが多かった最大の理由は何か?60字以内で説明せよ。(2007年東大)

    イスラーム暦は純粋な太陰暦であり、農業の時期を知るためには太陽暦を用いて季節のずれを補正する必要があった。

  • 20

    西アジアでは、アッバース朝時代になると、イスラーム諸学を身につけた知識人(ウラマ 一)は、コーランや伝承に基づいて教義や儀礼を整え、神学や法学の高度な発達をもたらした。しかし都市や農村の民衆にとって、知識人が説く教義や儀礼はあまりにも形式的であり、しかも難解に過ぎた。神(アッラー) はもっと身近に感じられるはずであるというのが彼らの偽らざる心境であった。 (a) このような機運に促されて10世紀以降に流行したイスラーム世界の宗教運動の名前を記せ。 (b) また、その運動がのちに果たした役割を60字以内で説明せよ。(1998東京)

    (a)スーフィズム (b)神秘主義教団がムスリム商人の活動とともに各地に広がり、東南アジアやインド、アフリカの民衆へのイスラム信仰拡大に寄与した。

  • 21

    10世紀後半にイスラーム世界に起こった変革の影響を受けて、ペルシア湾ルートに代わって紅海ルートが栄えるようになった。その歴史的要因を、90字以内で説明せよ。

    アッバース朝の繁栄期にはバグダードが国際交易の中心になりペルシア湾ルートが栄えたが,アッバース朝が衰えファーティマ朝以降エジプトが繁栄するとカイロが中心になり紅海ルートが栄えた。

  • 22

    1861年、アレクサンドル2世が発した農奴解放令は不徹底に終わった。その理由を90字以内で述べよ。

    有償による農奴制の廃止だったのに加え、農民は領主から土地を高額で買い戻す必要があり、土地は農村共同体のミールに引き渡されたため、農民はミールに束縛されたから。

  • 23

    九品中正とその影響を説明せよ。

    主に魏で行われた、中央政府の官制を九品に編成し、中央から地方に派遣された中正官が、人材を9等級に分けて推薦する制度。中正官と結びついた有力豪族の子弟が上級官職を独占し、門閥貴族層の形成を促した。

  • 24

    アメリカ=スペイン戦争後におけるアメリカの対中国政策の特徴を、3行(90字)以内で説明せよ

    列強の中国分割に出遅れたため、国務大臣ジョン=ヘイは中国の門戸開放、機会均等、領土保全を旨とする門戸開放宣言を発し、東アジアに対して経済的進出を重視する政策をとった。

  • 25

    清末には、漢民族自立の気運が起こる一方で、清朝の下にあったモンゴルやチベットでも自立の気運が高まった。辛亥革命前後のモンゴルとチベットの独立の動きについて、3行(90字)以内で記せ。

    漢民族国家の樹立を唱える孫文の三民主義に刺激されモンゴルではチョイバルサンのモンゴル人民党がモンゴル人民共和国を建国しチベットではダライ=ラマ13世が独立を宣言したが自治にとどまった。

  • 26

    1905年に起こった第一次革命において、自由主義者による立憲主義を理想とする改革要求に対して、皇帝ニコライ2世はどのように対応したか。皇帝の発した文書の名称に触れつつ2行以内で説明せよ。(2015東京大)

    十月宣言を発して国会開設と憲法制定を約束し、自由主義者のウィッテを首相に任命したが、革命退潮後は再び専制的姿勢を強めた。

  • 27

    ニュージーランドが1920~30年代に経験した政治的な地位の変化について2行以内で説明せよ。(2019東京大)

    ニュージーランドは自治領としてイギリス本国に従属していたが、1931年のウェストミンスター憲章で本国と同等の地位を得た。

  • 28

    ドイツがソヴィエト政府とラパロ条約でいち早く関係を樹立した理由を述べよ。

    第一次世界大戦後戦争責任を負わされたドイツと社会主義国であるソ連はともに国際的に孤立しており、両国は互いに提携することで国際的地位の向上を図った。

  • 29

    ホメイニが批判した、これまでのイラクで行われていた政策について60字以内で述べよ。

    アメリカの後ろ盾の下、パフレヴィー2世が白色革命と呼ばれる、女性参政権の実施等脱イスラーム化による近代化政策を行った。

  • 30

    アッシリアとアケメネス朝の支配の仕方の違いを述べよ。(他民族に対して、交易について)

    アッシリアは強制移住など他民族抑圧策をとり、オリエント世界の統一も不完全で交易が活発になることはなかったが、アケメネス朝は他民族の言語、宗教、法を容認する寛容さを持ち、金・銀貨を鋳造して貨幣を統一するとともに度量衡を統一し、さらに王の道の整備などにより交通機構が発達したことで経済活動は活発化した。

  • 31

    アケメネス朝における「サトラップ」とは何か説明せよ。

    州に派遣され、徴税・治安維持を担当する非世襲の知事のこと。

  • 32

    アケメネス朝の公用語及びフェニキア人・アラム人をどのように利用したか、説明せよ。

    アラム語 フェニキア人・アラム人の商業活動を保護し、税収の一部とした。

  • 33

    紀元後1〜2世紀のヘブライ人の歴史について述べよ。

    アウグストゥス時代のローマの直接統治下におかれ、2度のユダヤ戦争を経て世界各地への離散が始まった。

  • 34

    ヘレニズム時代以降のイランにおける文化の動向について述べよ。

    パルティア・ササン朝の下、ヘレニズム文化の影響を踏まえた上で、アケメネス朝以来のイラン伝統文化が復興した。

  • 35

    古代インドにおける仏教の盛衰について述べよ。

    仏教はバラモン教との対抗上、国家宗教として王族に利用されたが、仏教の教理研究は民衆から遊離し、グプタ朝からヴァルダナ朝期にかけて、民衆の仏教信仰はヒンドゥー教に吸収されていった。

  • 36

    港市国家とは何か説明せよ。

    港町が、海上での中継貿易・内陸部との特産品交易を支配し、外来宗教を王の神聖化のための装置として利用して形成された国家。

  • 37

    前漢の統治機構について述べよ。

    中央においては、秦にならって三公が置かれ権力が分立し、地方行政においては封建制と郡県制の折衷である郡国制が採用された。

  • 38

    前漢の武帝の財政難打開策について述べよ。

    均輸法・平準法を制定することで、物資の輸送を円滑にし、その価格を安定させることとその過程で得られる国の収益の増大を目指すとともに、塩・鉄・酒を専売した。

  • 39

    煬帝の治世における大運河完成の意味を述べよ。

    軍事と政治の中心である華北と経済の中心である江南が一体化した。

  • 40

    羈縻政策とは何か、説明せよ。

    唐で実施された、周辺民族の族長の自治を認め、都護府を設置して彼らを監督する間接統治策

  • 41

    クレイステネス改革の年代と、10部族制採用の意義を答えよ。

    前508年 血縁に基づく選挙区を地縁に基づくデーモスに再編成することで、貴族の権力基盤が崩壊した。