問題一覧
1
アメリカ大陸のイギリス植民地では、17〜18世紀にフランスとの間に七年戦争が起こり、イギリスが勝利するがイギリスも膨大な戦費を使い財政は悪化した。そのため、イギリス政府は選挙権を持たないアメリカ植民地に税負担を押し付ける制作をおこなったため植民地側は(①)をスローガンとしてイギリス政府に反発した。当初参政権 獲得が目的であったがボストン市茶会事件をきっかけに対立が激化し1775年から独立戦争が始まった。戦争初期に不利な戦いを進めた植民地軍は1776年(②)月(③)日、(④)を決議し、フランスの介入もあり独立を達成した。
代表なくして課税なし, 7, 4, 独立宣言
2
アメソカ合衆国では厳格な(①)の原則を持つ合衆国憲法を定め、当初は州の連合体であったが、これにより強力な合衆国政府が成立した。一方18世紀のフランスでは中世から続く身分制度であるアンシャン=レジームが維持され、聖職者である第一身分や貴族の第二身分は免税などの特権を持っていた。しかし、18世紀に度重なるイギリスに対する敗戦と天候不順による飢饉に対応するため国王は特権階級に対する課税を試みるが聖職者・貴族の反発 により失敗し、事態の混乱から平民である第三身分による(②)が成立し、1789年7月にバスティーユ監獄襲撃が起こると政治の主導権を握った(②)は「 (③) ※別名 人権宣言」を決議し、これをちとに憲法も制定した。
三権分立, 国民議会, 人間と市民の権利の宣言
3
革命政府は当初王政廃止は考えず、立憲君主制を目指していたが王家の国外逃亡の一件もあり急進過激派による独裁政権が成立した。この政権のもとで封建的制度の廃止などが行われたが恐怖政治とも呼ばれる強権的な手法に反発も強く、5人の元首からなる総裁政府が成立した。しかし、総裁政府は不安定で混乱したため、革命戦争で活躍した軍人の(①)が独裁政権を確立、さらに国民投票により皇帝となった。この①政権は独裁的ではあったが経済の自由や法の前の平等など革命の成果の定着にも努めた。
ナポレオン=ボナパルト
4
1 8世紀未の市民革命後、身分制が革命によって解体されると、諸個人を国民として、直接国家に結びつける新しいタイプの国家である(①)が誕生した。そして、①を支える理論としてーつーつの民族がそれぞれ統一した共同体としての国家を形成する(②)が出現した。また、市民の自由を保障し、そのために憲法により国家権力を制約する立憲主義体制と市民が代表を通じて政治参加する権利を保障する議会制を求める(③) 思想が盛んとなり、革命の原動力となった。
国民国家, ナショナリズム, 自由主義
5
ナポレオン戦争後のウィーン体制下では諸国の政府は協力してナショナリズムと自由主義を抑圧し、君主中心の伝統的な体制を維持しようとした。しかし、労働者、農民、ブルジョワ層の不満は高まり1830年前後にはフランスで絶対王政の復活を図る国王に対して民衆が蜂起する(①)が発生し、ついで1848年には(②)が発生するなどヨーロッパ各地で自由主義運動が盛んとなり、「(③)」と呼ばれた。しかし、多くの国では革命は失敗に終わり、フランスでは大統領ナポレオン3世が皇帝に即位し、(④) が始まるなど、君主制が盛り返した。それでも各国での革命を通して従来の国家体制を保守するウィーン体制が崩壊し、イギリスでも選挙法改正により中産階級の選挙参加が実現した。
フランス七月革命, ドイツ三月革命, 諸国民の春, 第二帝政
6
この時代、ヨーロッパ諸国の多くでは旧来の支配体制に変化が見られたが、ロシアでは皇帝専制と農奴制が続き、産業革命が進展しなかったが、そのことが原因で(①)に敗れたあと、皇帝による農奴制廃止などの改革が行われた。 アメリカでは合衆国の独立に続き、ラテンアメリカでも独立が相次いだ。合衆国は1823年に(②)を発して南北アメリカ大陸での合衆国の覇権を確立した。また、合衆国内部では北部と南部諸州の産業構造や政策、奴隷制に対する相違から対立が激化し、1861年に南部諸州がアメリカ連合を名乗り独立することで (③)が始まった。戦争は当初強力な軍を 編成したアメリカ連合が圧倒したが、大統領(④)が奴隷解放宣言を発すると兵器を諸外国からの輸入に頼っていた連合は物資不足となり、合衆国が勝利した。 しかし、戦後すぐのが暗殺されたことにより黒人差別は維持されることとなり、さらなる課題が残された。
クリミア戦争, モンロー宣言, 南北戦争, リンカン
7
産業革命について、なぜロシアでは産業革命が進展しなかったか理由を答えよ。
人口の多くを占める農奴は移動や職業の自由がなかったため、工場労働者になることができなかった。
8
オスマン帝国では、19世紀にはいるとバルカン半島のキリスト教徒による民族運動が本格化し、1826年には(①)が独立した。また、エジプトでは総督(②)が自立の動きを見せ1830年代には二度の戦争によって事実上の独立を認められた。 その後、オスマン帝国はクリミア戦争ではロシアに勝利したものの財政悪化が進んだことで欧米列強への経済的従属が進んだ。
ギリシア, ムハンマド・アリー
9
インドでは(①)が利権の拡大を目指してフランス勢力と争い、インドでの優位を獲得すると、当時分裂していたインド全域を征服し、植民地化を完成させた。しかし、①の強圧的な支配にインドの人々の不満が高まると、①のインド人傭兵である(②)の反乱をきっかけに全士に戦火が拡大し、(③)となった。反乱軍は当初圧倒的な兵力で①を追い詰めたが、イギリス本国の軍が出動すると決まった指導者も居なかったため鎮圧された。その後、イギリス政府は①を解散し、イギリス国王がムガル皇帝を兼務する(④)を成立させた。
イギリス東インド会社, シパーヒー, インド大反乱, インド帝国
10
東南アジアではタイのラタナコーシン朝が1880年代に国王(①)のもと(②)と呼ばれる改革を行うとともに、巧みな外交で独立を保った。 日本では、幕府が朝廷の許可を得ずに欧米諸国との条約に調印したことで、これに反発する勢力が朝廷と結びつき対外強硬政策を主張する(③)が盛んとなった。これにより幕府の権威は低下し、③を主導した有力諸侯の勢力が増大し、討幕運動に発展した。 幕府は1867年に政権を返上する(④)を行ったが、倒幕派の長州藩は徳川家の滅亡にこだわったため、これを不満に思う東北・北陸の諸藩との間に(⑤)が起こった。
チュラロンコン, チャクリ改革, 尊王攘夷運動, 大政奉還, 戊辰戦争
11
「巧みな外交で独立を保った。」について、たいが独立を保つことができた要因として考えられることを答えよ。
国の立地がイギリス勢力とフランス勢力の緩衝地帯となっていたため。
12
幕末の混乱の中で、1867年12月9日、倒幕勢力によるクーデタが発生し、(①)が発せられ新政府の樹立が宣言された。一方、徳川家の処遇に不満を持つ諸侯は新政府に反発し、大規模な内戦となるが、やがて新政府は全国に支配権を確立した。この政治的な変革は(②)と呼ばれる。 政府は、全国の人々を直接把握するため、1871年に(③)を公布して、江戸時代の身分制度が解体された。さらに、同年に中央集権制を確立するため(④)を行い、これにより武士身分が消滅した。 1873年には徴兵制度による(⑤)が実施され、旧武士身分に与えられていた家禄を廃止する(⑥)が断行された。 外交関係においては、1871年に日本としては初の対等な条約となる(⑦)を結んだ。しかし、清朝との間には琉球の帰属問題が残った。 1874年、琉球宮古島の住民が台湾で先住民に殺害される事件が起こると、日本は清朝との共同出兵を提案したが清朝側が断ったため結局日本単独で軍を派遣した。そして、この事実 をもって1879年には琉球王国を併合し、沖縄県を設置する(⑧)が行われた。
王政復古の大号令, 明治維新, 戸籍法, 廃藩置県, 国民皆兵, 秩禄処分, 日清修好条規, 琉球処分
13
朝鮮王国に対しては、明治維新後日本は数度にわたり国交交渉を試みたが、ことごとく拒絶された。そこで、日本政府は1875年仁川の沖にある(①)に軍艦を派遣して挑発行動を行い、島の要塞を制圧して翌年不平等条約である(②)を結んだ。 1882年には日本との国交樹立に不満を持つ保守派と朝鮮の軍が日本公使館を襲撃する(③)が発生し、朝鮮政府は清軍に鎮圧を依頼、一方日本も邦人保護のため出兵した。また、1884年には朝鮮の改革派政治家らが駐留する日本軍を頼ってクーデタを実行し、清軍に錠圧される(④)が発生した。この2つの事件では日新両軍が軍事衝突寸前までいったため、両国は1885年に(⑤)を結び、出兵の際の相互通知を取り決めた。
江華島, 日朝修好条規, 壬午軍乱, 甲申事変, 天津条約
14
ヨーロッバでは19世紀半ばから、各国で憲法制定の動きが広がるとともに、ナショナリズムによる国家形成も進んだ。 ドイツでは、中世末期に神聖ローマ帝国が崩壊してから諸侯による分裂状態が続いていた が、諸候の一つである(①)が、首相(②)による富国強兵政策により統一の主導権を握り、1871年ドイツ帝国が成立した。一方イタリアも中世以来都市国家による分裂状態が続い ていたが、立憲君主制を導入するなどいち早く近代化を進めた(③)が他の都市国家を征服 し、イタリア王国が成立した。
プロイセン王国, ビスマルク, サルディニア王国
15
フランスでは第二帝政政府がドイツ統一に介入したが敗れ、プロイセン王国軍にパリまで攻め込まれた。その際、降伏をよしとしない市民らが世界初の社会主義政権である(①)を樹立し、徹底抗戦を試みたが政府軍との軍により鎮庄され、(②)政府が成立した。 アンアでは、1876年(③)で首相(④)によりアジア初の憲法が制定された。しかし、イスラーム国家であった③ではクルアーンの教えと憲法のどちらがより優先すべきかが問題と なり、国内が混乱したためスルタンはロシアとの戦争を口実に憲法を停止した。しかし、その後、患法を支持する軍がクーデクをおこし、憲法は復活した。
パリ・コミューン, 第三共和政, オスマン帝国, ミドハト・パシャ
16
日本では維新以降、民主化と議会の開設を求める(①)が盛んとなり、民間では様々な憲法の私案が作成された。また、政府も最終的には立憲君主制を目指していたため1881年に10 年後の憲法制定と議会開設を約束した。その後、(②) がヨーロッパで現地調査を行うなどをしたのち、1889年に鉄定憲法の形式で(③)が制定された。③は君主の権力が比較的強いプロイセン王国の憲法をモデルとしており、議会は一般の選挙で選ばれる(④)と、旧大名や公家らの華族が議員となる(⑤)の二院制をとり、のの選挙は当初財産制限などが規定されていたが後に緩和されていった。
自由民権運動, 伊藤博文, 大日本帝国憲法, 衆議院, 貴族院
17
欽定憲法とはどのような様式の憲法か説明せよ。
君主から国民に与えられる形式の憲法
18
大日本帝国憲法はなぜ君主権が強い形式で出されたか理由を説明せよ。
政府に強い権限を持たせることで議会に遠慮せず強力な近代化政策を進めるため。
19
19世紀には欧米諸国がアジアやアフリカで植民地拡大を図る"帝国主義"とよばれる政策をとった。このような政策をとった経済的な理由として考えられることを答えよ。
自国内で寡占や独占状態になった企業を、より成長させるためには領土を拡大して市場を確保しなければならなかったから。
20
19世紀の列強のアジア・アフリカ進出についての内省的な理由として考えられることを答えよ。
当時盛んとなった労働運動が反政府運動にならないため、人種的な優越意識や排他的なナショナリズムを刺激して国家への支持を高めるため。
21
1884年に列強諸国の利害を調整し、植民地獲得のルールを定めた会議をなんというか。
ベルリン会議
22
日本との国交をきっかけに開国した朝鮮では、1894年、排外的な宗教団体である東学の信者が中心となり蜂起した(①)が発生した。①は当初朝鮮政府の圧政に対する反乱でもあったが、次第に日本人排斥運動にも発展した。朝鮮政府は当時朝鮮に対する影響力を増していた清朝に鎮圧を依頼し、清軍が朝鮮半島に進駐した。一方、日本軍も邦人保護のために半島に出兵し、そのまま両軍の戦闘へと発展した。
甲午農民戦争
23
戦闘は終始日本側の優勢に進み、講和条約として(①)が結ばれ、(②)と澎湖諸島、(③)半島の割譲と賠償金、朝鮮の独立が約束された。 この勝利により、(④)は日本を近代的な国家として認め、不平等条約の改正に応じたが、朝鮮半島や日本の征服を狙っていたロシアは警戒を強め、(⑤)やフランスを誘い③半島を清朝に返還するように求める (⑥)を行った。その後、日本が要求をのみの半島を返却すると、すぐさまロシアがこれを租借し、領土を拡大した。この⑥に対して、日本国内ではそれまで防衛費の増額に批判的であった政党も政府と提携して軍拡を支持するようになり 旧自由党系勢力は元老の伊藤博文を党首として(⑦)を結成した。 一方で日本に敗れた清朝では、皇帝である光緒帝のもと有力な漢人官僚の(⑧)や梁啓超らが立憲君主制を目指す改革が実施されたが、民主化により権力を失うことを恐れた女真族の貴族たちはこれに反発し、皇帝の母である西太后と結び、皇帝を幽閉する(⑨)と呼ばれ るクーデタをおこし、改革は挫折した。
下関条約, 台湾, 遼東, イギリス, ドイツ, 三国干渉, 立憲政友会, 康有為, 戊戌の政変
24
清朝の冊封から離脱した朝鮮は何と国名を変更したか。
大韓帝国