問題一覧
1
収国元年(( )の元号、1115)年、ツングース系の( )族の指導者・( )が( )を建てた。( )は( )川下流域にヌルガン城を設置し、 ギレミ (現在の( ))の領域まで支配した。
金、女真、完顔阿骨打、金、金、アムール、ニヴフ
2
天興三年(( )の年号、1234) ( )によって( )は滅亡した。( )は、金代のヌルガン城の故地に東征元帥府を置き、( )川下流域とカラフトに支配を及ぼした。
金、モンゴル帝国、金、モンゴル帝国、アムール
3
中統元年(( )の元号、 1260) ( )がカアンに即位し、国号を( )とした。中統五年(1264) 大元に服属していたカラフトのギレミが「骨」(( ))の侵入を( )に訴えた。この訴えを受け、( )は、至元二一から二四年(1284~1286)、連年に及んで「骨嵬」 を攻撃している。
大元、クビライ、大元、アイヌ、クビライ、大元
4
( )が築いた当時の世界史上最大の交易圏に対し、銀貨が不足した。 大元は( )という紙幣の乱発によって補おうとするが、インフレを引き起こした。 これに黄河の氾濫や疫病の流行が重なり、 民衆の社会不振は頂点に達した。
モンゴル帝国、交鈔
5
至正一一年(元の年号、 1351) 民衆の社会不信を背景に、 ( )教徒が蜂起した。( )の乱である。この反乱より頭角を現した ( )が集慶路(現在の南京)を占拠、応天府と改名し、ここに拠点を置いた。 至正二八年(1368)、( )は大元をモンゴル高原に追い出し、 皇帝 (( ))に即位して( )を建てた。
白蓮、紅巾、朱元璋、朱元璋、洪武帝、大明
6
洪武三一年(1398)( )が没すると、 ( )の長男はすでに死亡していたため、 長男の息子が建文帝として即位した。 建文帝は北平で対モンゴルの防衛を担当してい武帝の四男と対立した。 追い詰められた( )の四男は挙兵し、建文四年(1402) 南京を攻め落として皇帝 (永楽帝) に即位した。 これを( )という。
洪武帝、洪武帝、洪武帝、靖難の変
7
永楽帝は北平を( )と改称して、ここを首都とした。即位の経緯から儒学官僚の反発を受けた永楽帝は( )を重用した。また、反乱者としてのマイナスイメージを払しょくしようと、積極的な( )貿易を推進し、 異民族を従える徳の高い皇帝を演出しようとした。( )の( )に艦隊を率いさせ、六度の海外遠征を行わせて( )を求めたことはとくに有名である。
北京、宦官、朝貢、宦官、鄭和、朝貢
8
また、( )の亦失哈(イシハ)を元代の東征元帥府の跡地に派遣し、カラフトに居住する 「苦夷」 (( )) からも( )を受けた。
宦官、アイヌ、朝貢
9
( )王国も大明との朝貢で大いに栄え、 首里城正殿にかけられていた「万国津梁の鐘」は往時の繁栄を伝えている。
琉球
10
室町幕府第三代将軍・( )も、 「( )」 を称して永楽帝に朝貢した。 しかし朝貢を屈辱と感じる者は室町幕府内部でも多く、( )が死去してその子の( )が室町幕府第四代将軍になると、( )貿易は見直された。
足利義満、日本国王、足利義満、足利義持、朝貢
11
宣徳一〇年(1435) 宣徳帝 (永楽帝の孫)が死没すると、過大な財政負担に耐え切れなくなった大明は朝貢貿易を縮小した。さらに、正統一四年(1449)、正統帝(宣徳帝の子)がモンゴルのエセン・カンに敗れて捕虜になる 「( )」という事件が起こると、 大朝の影響力は北東アジアから急速に失われた
土木の変
12
鎌倉幕府の第二代執権( )の時代に津軽半島一帯の地頭職が北条氏に独占された。北条氏の地頭代として現地支配を担当したのが安藤氏だった。
北条義時
13
安藤氏は14世紀前半には内部分裂を起こして津軽で大きな騒乱が起こったが、当時の鎌倉幕府の第一四代執権である( )は、鶴岡社に「蝦夷降伏」の五檀護摩を粉わせており、これは蒙古襲来の際と同じ対応である。 鎌倉幕府はこの内乱の鎮定にてこずった。「保暦間記」は、このことが北条氏の滅亡の原因になったとする。
北条高時
14
元弘三年(1333)、( )天皇によって鎌倉幕府が滅ぼされ、 ( )も自刃し、( )がはじまった。 ( )天皇は、自身の皇子である義良親王(のりよししんのう)を陸奥に下向させ、( )にこれを補佐させた。
後醍醐、北条高時、建武の新政、後醍醐、北畠顕家
15
建武三年(1336) 正月、( )天皇と対立した( )が京を占領した。 ( )は、軍を率いて奥羽より京へ向かい、( )を九州へ追い落として陸奥へ戻った。 しかし、建武三年(1336)6月、九州で態勢を整えた( )が再び京を占領し、光明天皇を擁立して京都に北朝を興した。 ( )天皇は( )に逃れ、南朝を興した。
後醍醐、足利尊氏、北畠顕家、足利尊氏、足利尊氏、後醍醐、吉野
16
( )は南部師行を重用していた。 師行は北奥羽に土着し、 近世の盛岡藩まで続く南部氏の基礎を築いた。 安藤氏は南部氏の勢力拡張に反発して、北朝 (足利方)を支持した。 以後、 南部氏と安藤氏は長らく対立することになる。
北畠顕家
17
( )は、後醍醐天皇の勅命により、再度京都奪還へ向かうが、暦応元年(1338年)五月に戦死した。次第に戦況は北朝が優位となり、( )の孫の( )の時代に、北朝に南朝が吸収される形で南北合一が成った。
北畠顕家、足利尊氏、足利義満
18
安藤氏は南北朝時代に( )に拠点を移し、北朝を支持して戦乱の時代を乗り越えた。( )は北方交易の拠点として大いに栄えた。 しかし、( )は飛砂が堆積して水深が浅くなり、次第に港としての機能は低下していった。 さらに一五世紀前半には安藤氏と南部氏の対立が再燃し、( )は南部氏に奪われた。 これ以後、 ( )は急速に衰退した。
十三湊
19
夷島には、 安東氏の被官 (家来) が残され、 和人の夷島進出が本格化した。 このことは先住のアイヌ民族の反感を招いた。 長禄元年 (1457) アイヌ民族は( )を指導者として蜂起し 和人の豪族の館のほとんどを攻め落としたが、 ( )によって( )は戦死した。 ( )は、この戦功で上ノ国花沢館主 蠣崎季繁の養女(安東氏の娘)を妻として蠣崎家の家督を継いだ。 蠣崎 (武田) 信広は、花沢館から( )に拠点を移した。 ( )は北方交易で栄え、 アイヌも居住した。
コシャマイン、武田信広、コシャマイン、武田信広、勝山館、勝山館
20
( )の子である蠣崎光広は、永正一一年 (1514) に拠点を上ノ国から( )の大館(おおだて)へ移した。 信広から数えて五代目の蠣崎慶広の時代に( )から安東氏からの独立を許された。蠣崎慶広は名字を( )に改め、 近世の( )藩を創立した。
信広、松前、豊臣秀吉、松前、松前
21
松前藩は17世紀半ばころにこの交易の方式を改め、新たに蝦夷地に交易地点を複数設定し、そこに松前藩側が一年に一度交易船を派遣することにした。 松前藩は、 各場における交易権を藩士に知行として与えた。 これを( )という。( )下での交易では、 各知行主 (藩主直営の商場では藩主) が派遣した交易だけが交易相手になる。 アイヌ側は交易相手を選ぶことができず、交易ルートは和人側が恣意的に操作できた。 このことが和人の横暴を引き起こした。 寛文九年(1669) 和人の横暴に対する不満などが重なり( )を指導者とするアイヌの大規模な蜂起が起こったが、 松前藩によって鎮圧された。
商場交知行制、商場交知行制、シャクシャイン
22
( )は朝鮮に大明征服への道案内を命じたが、拒否されると、 朝鮮出兵を決断した。 天正十九年(1591) は、 肥前の( )に前線基地となる城を急造し、天正二十年 (1592) 三月、 朝鮮に大軍を送った。 ( )である。 当初は日本側が連勝し、加藤清正は豆満江を越えてオランカイ (北高麗) まで侵入した。 「オランカイ」は( )族のことである。
豊臣秀吉、名護屋、文禄の役、女真
23
しかし、次第に戦況は悪化した。 朝鮮農民は両班層を指導者に、( )を組織し決起した。 ( )の決起は朝鮮全域にひろまった。 ( )の率いる朝鮮水軍は日本水軍を破って日本の補給路を遮断した。 さらに文禄二年/万暦二一年には、 大明軍が朝鮮側の援軍として現れた。
義兵、義兵、李舜臣
24
戦線は膠着し、日本と明は講和交渉を行った。 しかし交渉は決裂し、 慶長二年二月、( )は、 再び大軍を朝鮮に送った。 ( )である。
秀吉、慶長の役
25
この戦争で、 多くの朝鮮人を捕虜として日本に連行された。 連行された朝鮮陶工は西国の大名たちの領内で( )焼 ・( )焼 ・( )焼などの基礎を築いた。 慶長三年、( )が没したことで日本軍は撤兵し、戦争は終わった。
薩摩、有田、萩、秀吉
26
( )が( )の朝鮮出兵への対応に追われている隙に、 ( )族のなかで( )が勢力を拡大し、 ( )族の統一を達成して( )を建国した。 ( )は( )の息子の( )の時代に( )と国号を改めた。 ( )では朝鮮出兵の影響で、大きく財政が悪化。 税負担を引き上げたため反乱が頻発し、 滅亡した。 民衆反乱によって( )が滅亡すると、 ( )が中華の混乱を収めて中華全土を支配した。
大明、豊臣秀吉、女真、ヌルハチ、女真、後金、後金、ヌルハチ、ホンタイジ、大清、大明、大明、大清
27
( )の( )にはじまる( )の教勢拡大に対抗し、 ( )側は、 1534年、 ( 」が中心となり、( )を創設した。 ( )は、ローマ教皇の認可を受け、草創期から世界各地への宣教に積極的に取り組んだ。
マルティン・ルター、宗教改革、プロテスタント、カトリック、イグナティウス・デ・ロヨラ、イエズス会、イエズス会、
28
( )の創設メンバーの一人である( )は、当時ポルトガル領だったインド西海岸の( )に派遣された。1547年12月、( )は( )で、鹿児島出身のヤジローに出会い、日本布教を決意した。 天文一八年(1549)、薩摩国の鹿児島を訪れ、戦国大名の( )から布教を許されている。ザビエルは日本に2年余り滞在して( )へ戻った。
イエズス会、フランシスコ・ザビエル、ゴア、ザビエル、ゴア、島津貴久、ゴア
29
永禄六年(1563)には、( )が来日し、キリスト教の布教に取り組んだ。( )ら、キリスト教宣教師の記録は、戦国時代の日本の様子を今に伝え、 また、 伝聞情報ではあるが、 アイヌ民族に関する情報も伝えており、貴重な記録である。
ルイス・フロイス、フロイス
30
( )は、当初は織田信長の方針を継承し、キリスト教の布教を認めたが、 天正十五年(1587) 突如としてキリスト教宣教師の追放を指示した。この方針は江戸幕府にも受け継がれた。
豊臣秀吉