問題一覧
1
18世紀までの東南アジアは、中国を支配する女貴族の(①)が圧倒的な力を持ち、この地域の伝統的な国際秩序である(②)を基礎に、周辺諸国から(③)を受け入れ、それらの国々の君主に配下の位を与えて属国化する(④)を行うことで安定していた。しかし、日本や西欧諸国、モンゴルなどは④を受け入れずに③のみを行っていた。
清, 華夷秩序, 朝貢, 冊封
2
清は18世紀前半に全盛期を迎え、人口も急増した。しかし、それによる農地不足や急激な開発による自然災害により海外へ移住する人も増加した。 一方日本では、17世紀以来キリスト教の布教や海外人の入国、日本人の海外来航が禁止され、海外との交流は厳しく制限された。清や(⑤)との貿易は長崎の(⑥)に制限され、(⑦)は対馬藩、琉球は(⑧)、アイヌとの交易は松前藩が独占した。
オランダ, 出島, 朝鮮, 薩摩藩
3
移住先に定着して本国とのつながりが薄くなった人々をなんというか。
華人
4
イギリスは(①)を清に輸出していたが、(②)の流出による経済混乱と①中毒者の増加に悩まされた清朝が①貿易の取り締まりに動き、大量の①を押収したことに対して1840年、イギリスは清に宣戦布告し1戦争が勃発した。
アヘン, 銀
5
軍事力・技術力で優位に対するイギリスは清軍を圧倒し、1842年に(③)が結ばれ、これまでの広州の地上海など5港の開港と(④)島の割譲が決められた。その後、戦果が不十分であると考えたイギリスは1856年に(⑤)戦争を起こし、1858年に(⑥)が結ばれた。しかし、これに不安を持った清軍は条約締結の使節団を攻撃したため、英仏連合軍は北京を占領し、改めて北京条約が結ばれた。これと並行して清朝では1851年からキリスト教徒を中心とする民衆反乱の(⑦)が発生し、反乱軍は長江以南を占領して独自の王朝を打ち立てた。これに対して清朝の正規軍は歯が立たず、地方官僚や有力者、外国人傭兵に頼って鎮圧した。
南京条約, 香港, アロー, 天津, 太平天国の乱
6
一方日本では19 世紀から沿岸に欧米各国の船舶が現れるようになった。当初問答無用での撃沈を方針としていたが、1戦争の状況から態度を軟化させつつあった。そのような中、1853 年にアメリカ太平洋(⑧)率いる船団が対清貿易の中継地や捕鮭基地として利用するために日本に開国を迫った。日本は1854年に(⑨)を締結した。その後、アメリカ総領事(⑩)は日本との貿易に価値を見いだし1858年(⑪)を締結した。⑪は不平等な条項を含んていたがそれまで清やオスマン帝国と欧米が結んだ条約と比較すれは穏やかな条件であり、その後オランダ・ロシア・イギリス・フランスとも同様な条約を結び、安政の五カ国条約と呼ばれた。 開港により日本国内ではそれまで国内で完結していた経済が世界経済と連動するようになった。日本からは欧米に(13)や茶が輸出され、毛織物や綿織物など工業製品が輸入された。また、金貨の品質の問題により海外に金が流出して経済混乱も起きた。
ペリー, 日米和親条約, ハリス, 日米修好通商条約
7
北京条約の内容について、正しいものを選べ
公使の北京駐在, 領事裁判権承認
8
東南アジア各地では、かつて島嶼部でイスラーム系王朝が香辛料貿易で繁栄していた。しかし、18世紀に進出した (① ) がジャカルク夕に拠点を建設し、周囲を征服して植民地となった。 一方、内陸部ではインドシナ半島のタイで、(②) 朝が米の輸出やインド〜中国間の中継貿易で繁栄したが、隣国ミャンマーとの戦いに敗れ、後に現在まで続く(③) 朝が成立した。
オランダ, アユタヤ, ラタナコーシン
9
南アジアては北インドでモンゴル系イスラーム王朝の (④)が、ヒンドウーとの有和政策をとりながら繁栄し、インド。イスラーム文化が栄えた。しかし、第6代皇帝アウラングゼーブがイスラームの強制を始めると反発した諸侯らは独立し、分裂状態に陥ったインドは (⑤) の侵攻をうけ植民地化された。
ムガル帝国, イギリス
10
西アジアでは、13世紀にローマ帝国を滅ぼした (⑥)が16世紀にアジア、アフリカから東ヨーロツバにまたがる大帝国となった。⑥には様々な宗教や民族がいたため、彼らに宗教共同体 (⑦)を作らせて自治を認めた。また、欧米諸国に対してはイスラーム法との摩擦を避けるためあえて領事裁判権などを認める(⑧) を認めた。しかし、この制度は⑥が衰えるとタダの不平等条約と化し、地方の独立も進んだ。
オスマン帝国, ミッレト, カピチュレーション
11
領事裁判権とかどういう制度か
外国人が犯した犯罪は当該国により裁かれるという権利
12
17世紀後半以降のヨーロッパでは、中国産の (①)、アフリカやアメリカ産の砂糖やコーヒーなどの嗜好品が生活に定着し、需要が増大した。また、インドから輸入された(②)がブームとなり、日本からも漆器や陶磁器、(③)や銅が輸出された。 しかし、西欧諸国は次第にこれらを輸入するのではなく植民地を建設し、そこで大規模農園の (④) を経営する方針に変わった。
茶, 綿布, 銀, プランテーション
13
大西洋三角貿易に関して ①ヨーロッパから(①)をアフリカへ・・・ ②アフリカから(②)をアフリカへ・・・ ③アメリカから(③)をヨーロッパへ・・・
武器, 奴隷, 商品作物
14
ヨーロッパ人は奴隷の調達をどのようにして行っていたか。
現地の人々に武器を与え争わせ、捕虜を武器と引き替えに奴隷とした。
15
18世紀後半から19世紀前半にかけ、イギリスでは(①)工業の分野を中心に機械を用いた大規模な工場制生産が成立した。 このことは産業革命とよばれている。
綿織物
16
産業革命の軸となったのは機械化を中心と するB 技術革新であった。 当初綿織物工業の分野で進んだ機械化はやがて、機械製造業や製鉄業、炭鉱業の発展を促し、それらの発展は交通機関を発達させ、さらなる経済発展をもたらした。 イギリスが最初に産業革命を達成した背景には様々な要因があった。18 世紀の人口増 加と大土地所有の進展にともない多くの農民が農地を失い、(②)として都市に流入した。 また、17 世紀からオランダ・フランスを破り広大な植民地を獲得し、原材料の供給地と工業製品の(③)を確保していた。さらに大西洋三角貿易により膨大な富を蓄えていたことの三つが要因であった。 こうして成立した資本主義社会では、資本家が富を蓄積する一方、労働者は低賃金・長時間労働を強いられ雇用も不安定であった。この状況を改善するために、労働者が結束して(④)の結成や争議活動としての(⑤)などを行う労働運動が広がり、このことが労働基準を定めた最初の法律である(⑥)の制定にもつながった。一方、資本主義のあり方を変革し、生産手段の共有による平等社会を実現する(⑦)思想もこの時代から盛んとなった。
労働者, 市場, 労働者組合, ストライキ, 工場法, 社会主義
17
産業革命について、どのようなとか説明せよ。
工業化の進展による社会や生活に現れた変化
18
技術革新について、次の発明をおこなった人物を語群から選んで記号で答えよ。 ア:綿織機 イ:飛び梭 ウ:力織機 エ:ミユール紡績機 オ:蒸気船 カ:水力紡績機 a:ジョン・ケイ b:クロンプトン c:ワット d:ダービー e:アークライト f:カートライト g:フルトン h:ホイットニー i:ハーグリーヴズ
h, a, f, b, g, e
19
1 8世紀後半以来産業革命を経て圧倒的な工業生産力を保持したイギリスは、「(①)」として世界各地を原料供給地や商品輸出市場としていった。1 9世紀後半には(②)政策をとるようになり、世界市場における自国工業製品の販売拡大を目指し、各国にたいし1を求めた。これによりアジアやアフリカ大陸、アメリカ大陸では安価で大量に流入するイギリス製品に押されて国内の在来工業が衰退し、経済発展が妨げられた。そしてイギリスの工業に原料を供給するために原料の生産・輸出に特化する (③)経済化が促進された。
世界の工場, 自由貿易, モノカルチャー
20
イギリスによる世界市場の制覇は金融の発展を促した。イギリスでは工業力を背景に富を蓄積し、ロンドンの金融街(④)は世界の様々な地域間やそれらの地域とイギリスとの間の貿易で使われる為替手形を決済する機能を担い、国際的な金融の中心地となった。また、④における証券市場での取引を通じて世界各地への投資力おこなわれ、イギリスは世界の工場に代わり「(⑤)」とよばれ、いち早く脱工業化社会を違成した。ー方、インドは従来ヨーロッパに対して手工業生産による良質な綿布 を大量に輸出していたが、19 世紀はじめまでにインドを植民地化したイギリスは自国産の綿布のインドへの輸出を拡太するとともに、手工業による綿布の生産を禁止するなどしたため在来の綿工業は打撃を受け、イギリスへの綿花輸出による回モノカルチャー化が進んだ。また、オスマン帝国から自立した(⑥)も工業化を推進していたが、(⑦)運河の運営に失敗してイギリスの進出を許すと、インドと同様に原料供給地になり、工業化は停滞した。
シティ, 世界の銀行, エジプト, スエズ
21
18世紀後半にいち早く産業革命を達成したイギリスに続き19世紀に入ると毛織物産業の中心地であるフランドル地方を抱える(①)が1830年代頃より工業化を進めた。 また、(②)でも金融制度の改革をきっかけに繊維産業中心にエ業化が進んだ。19世紀半ばには(③)が鉄道綱の発達とともに国家主導の重工業化を進め、国内で大規模な内戦があった(④)も急激に工業化が進み、(⑤)も建設された。
ベルギー, フランス, ドイツ, アメリカ合衆国, 大陸横断鉄道
22
19世紀末には広大な国土に豊富な資源を生かし、(⑥)が工業化を進め、(⑦)の建設を機に発展した。ー方アジアでは(⑧)がいち早く近代化を進め、軽工業を中心とする産業革命を達成した。 産業革命は当初軽工業から始まり、動力源も石炭による蒸気機関であったが、技術革新が進むとともに(⑨)の大量生産技術の確立とともにエネルギー源・動力源も石油・電気に代わり、産業のより一層の発展による(⑩)が進んだ。
ロシア, シベリア鉄道, 日本, 鉄鋼, 第二次産業革命
23
19世紀後半にはアジア諸国でも工業化と産業革命への取り組みが各国で行われた。中国の清朝では度重なる西欧諸国への敗戦から1860年代に(⑪)と呼ばれる西洋の技術導入による近代化運動が起きた。この⑪では官営の造船所や軍工廠、織物工業などが設立された。また、オスマン帝国でも同様の近代化への取り組みが行われたが、これらの国々の近代化政策はことごとく失敗に終わった。 一方日本で行われた(⑫)政策では先の2国と同様にB官営工場の設立や技術者育成を中心に進められたが、こちらは成功に終わり、特に欧米の不得意な分野であった(⑬)の輸出を中心に生産を拡大した。
洋務運動, 殖産興業, 生糸
24
国々の近代化政策がことごとく失敗に終わった理由を答えよ
金融制度が不十分で民間企業が育たなかったため。