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東洋史 後期 正誤

東洋史 後期 正誤
238問 • 1年前
  • 佐藤
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    問題一覧

  • 1

    真宗は「科挙に合格するのは良い政治をするため」と人々を戒めた。

  • 2

    太宗の時代には科挙の合格者数が大幅に増えた。

    ⭕️

  • 3

    仁宗の時代に、受験者名を糊付けして匿名にしたり、筆跡がわからぬよう係員に答案 を書き写させたりするようになった。

    ⭕️

  • 4

    趙匡胤は皇帝が試験官となって実施する殿 試を創設した。

    ⭕️

  • 5

    科挙に合格して官僚になった人々は土大夫と呼ばれ貴族に代わり皇帝を支えた。

    ⭕️

  • 6

    中国では宗族が形成され、一族の優秀な子弟の受験勉強を援助することもあった。

    ⭕️

  • 7

    科挙の試験勉強に専念するには経済的な余裕が必要だったので、庶民が合格することは滅多になかった。

  • 8

    范仲淹は苦学の末に科挙に合格し、政治で も素晴らしい成績を上げたことで後世多くの土大夫から尊敬された。

    ⭕️

  • 9

    王安石の新法は、土大夫の利益を国家が奪うことになったので、不満を持つ者が多かった。

    ⭕️

  • 10

    北宋時代には澶淵の盟によって平和になったので、国内の党争が盛んになった。

    ⭕️

  • 11

    王安石の新法は大成功して、数年で国家財 政は黒字になった。

    ⭕️

  • 12

    朱熹は、精神修養を重ねることで、完全無欠の人格者である聖人になることができると説いた。

    ⭕️

  • 13

    朱子学は、この世を成り立たせる法則な ど、体系化された世界観を持っていた。

    ⭕️

  • 14

    宋代の学問は、先生の学説を単純に受け継ぐことはせず、古典に直接取り組んで自由な学説が盛んに展開された。

    ⭕️

  • 15

    古代中国において天体観測は重視され、日食や月食が正確に予測できるように、暦の作成も重視された。

    ⭕️

  • 16

    「清明上河図」は北宋の都であった開封を描いたとされ、庶民の生活を詳細に描いた一級の史料である。

    ⭕️

  • 17

    宗族は同じ祖先を持つ人々の大家族制であったが、実際に全員血が繋がっているとは限らなかった。

    ⭕️

  • 18

    募役法は、春に朝廷が農民に銭を貸し付け、収穫期に利子を合わせて穀物で返還するものであった。

  • 19

    朱子学の発展により、『論語』などの四書よりも、『尚書』や『詩経』といった五経が重んじられるようになった。

  • 20

    王安石は新法の成果により、宋代から現在に至るまで極めて高い歴史的評価を受け続けた。

  • 21

    北宋の徽宗・宗は金に囚われたが、生き残っていた徽宗の息子が即位して南宋政権を継続させた。

    ⭕️

  • 22

    モンゴルではテムジンがモンゴル高原を統 ーし、クリルタイで推戴され「クビライ・カアン」を名乗った。

  • 23

    遼の支配下にいた女真の完顔部は、松花江流域で徐々に成長していき、12世紀初めに金が建国された。

    ⭕️

  • 24

    金によって遼は滅亡したが、契丹の末裔である耶律大石が復興させ、中央アジアに「カラキタイ」を築いた。

    ⭕️

  • 25

    西夏文字は表音文字で、漢字を簡略化する形で作られている。

  • 26

    蒲寿庚は中国で誕生したムスリム商人の子供で、泉州での貿易を独占した。彼の事蹟は桑原隲藏が詳細に研究している。

    ⭕️

  • 27

    平安時代後期から室町時代前期にかけて、多くの日本・中国の僧侶が貿易船に便乗して往来していた。

    ⭕️

  • 28

    中国と西アジア地域は、東南アジアを経由して積極的な交易(南海貿易)を行っていた。

    ⭕️

  • 29

    日本は宋に銅銭・陶磁器・仏像を輸出し、その利益で金・木材・硫黄をから輸入した。

  • 30

    フレグはイラン方面の遠征を担当し、バグダードを攻略してアッバース朝を滅ぼし、さらにシリアやアゼルバイジャンにまで勢力を広げた。

    ⭕️

  • 31

    チンギスの孫のバトゥはロシアからハンガリー・ポーランドへ侵攻し、ウィーン郊外にまで迫った。

    ⭕️

  • 32

    オゴデイはカラコルムに都城を建設して、 より大規模な遠征軍を繰り出した。

    ⭕️

  • 33

    オゴデイの死後にグユクがカアンを継承し、息子のクビライとフレグを中心とした遠征に乗り出した。

  • 34

    南宋は最終的に金と講和するが、和平派の秦檜よりも、徹底抗戦を主張した岳飛のほうが後世の評価が圧倒的に高い。

    ⭕️

  • 35

    中国商人は博多に唐房という居留地を作って日宋貿易に携わった。

    ⭕️

  • 36

    日宋貿易や日元貿易は極めて盛んに行われ、商人の船に便乗して多くの禅僧が中国に留学した。

    ⭕️

  • 37

    モンゴル軍と南宋軍は死闘を繰り広げ、首都臨安周辺では何十万人もの軍隊が戦死した。

  • 38

    第2回蒙古襲来(弘安の役)は、征服した南宋の余剰兵力を活用するための戦役だったという説がある。

    ⭕️

  • 39

    クビライは権力基盤を確立するために、豊かな経済力を誇る南宋の征服を急いだ。

    ⭕️

  • 40

    クビライは、日本にたびたび使節を送ったが、外交に不慣れな北条氏は適切な返事を送ることができなかった。

    ⭕️

  • 41

    モンゴル軍と南宋軍は死闘を繰り広げ、首都臨安周辺では何十万人もの軍隊が戦死した。

  • 42

    クビライは始皇帝のような中央集権制度を確立するため、旧金領や旧西夏領などにもモンゴル的な制度を強制した。

  • 43

    モンゴル帝国は農業を重視し、全国に互助組織である「社」を設けて食糧の備蓄や農業技術教育をさせた。

    ⭕️

  • 44

    景徳鎮で作られた青花(染付)は高額輸出品として、特にイスラーム世界で歓迎された。

    ⭕️

  • 45

    「蘇湖(江浙)熟すれば天下足る」とは、「長江下流域が豊作であれば中国全土の食糧をまかなうことができる」という意味である。

    ⭕️

  • 46

    クビライはチベット仏教に深く帰依していたので、モンゴル帝国では仏教が国教とされた。

  • 47

    大元ウルス(元朝)の末期には世界が寒冷化して、災害や疫病が相次ぎ、交易活動は衰え、反乱が頻発した。

    ⭕️

  • 48

    大元ウルス(元朝)は旧南宋領のエリート 層の不満を和らげるため、学校や出版事業を興して彼らの雇用を創出した。

    ⭕️

  • 49

    大元ウルス(元朝)の出版した書籍は重要な輸出品となり、日本でも『十八史略』や『事林広記」といった書籍がよく読まれた。

    ⭕️

  • 50

    大元ウルス(元朝)はクビライの死後も優秀なカアンに恵まれ、クリルタイが上手く機能して相続も順調に行われた。

  • 51

    投下領では、税収や特産物を受け取るなど経済的利益を得ることができたが、基本的には人材の交流は行われなかった。

  • 52

    モンゴル帝国によって中央アジアの陸路と、東南アジアから西アジアの海路が結びつき、安全に移動できるようになった。

    ⭕️

  • 53

    チンギス・カンは4人の嫡子が末代まで協力できるよう、互いの領地に兄弟の分地を設定して、モンゴルがひとつの統合体であることを意識させた。

    ⭕️

  • 54

    モンゴル帝国はジャムチ(駅伝)を整備して、牌子と証明書があれば旅行者がサービスを受けられるようにしていた。

    ⭕️

  • 55

    『集史』など14世紀以降のイスラーム写本は、中国絵画の影響を受けた細密画で飾られた。

    ⭕️

  • 56

    「混一疆理歴代国都之図」は、モンゴル帝国時代に作られた世界地図で、ユーラシア大陸とアフリカの姿を極めて正確に描写している。

  • 57

    モンゴル帝国の支配のもとで、グローバルな交易が盛んになり、その一端は沈没船から引き上げられる当時の交易品からもわかる。

    ⭕️

  • 58

    南宋を滅ぼしてまもない1280年に、東西の学問成果を結集した授時暦が完成し、その正確さゆえに400年近く用いられ続けた。

    ⭕️

  • 59

    モンゴル時代の「貨郎図(行商人を描いた絵)」には、書籍を販売している商人が描かれている。

    ⭕️

  • 60

    モンゴル時代の命令書は翻訳がしやすいように常に口語体で書かれ、お堅い雅文調が用いられることはなかった。

  • 61

    モンゴルは文書行政を効率化させるために、文面を定型化して固有名詞や数字だけ書き換えれば良いようにした。

    ⭕️

  • 62

    モンゴルの「野蛮な」イメージは作られたもので、実際には中国文化を重んじ、官民共同で様々な事業が実施された。

    ⭕️

  • 63

    書籍の権威を高めるために、著名な文化人や官僚に序文を依頼して、完成した書籍を宮中や官庁に献本することがあった。

    ⭕️

  • 64

    漢文では皇帝に関わる言葉は基本的に行替えした上で抬頭され、他の文字の下に来ることがないようにした。

    ⭕️

  • 65

    石碑を立てるのは非常にお金がかかり贅沢な行為であるので、大元ウルスは法律で厳しく禁止し、民間で立てられた石碑はほとんど残っていない。

  • 66

    『集史』(などの外国語史料)には漢文には当たり前すぎて省略されている情報も記録されていることがある。

    ⭕️

  • 67

    恵宗(トゴンテムル)は、文化に興味関心を抱かず、日々ケシク達と巻き狩りをして過ごしていた。

  • 68

    仁宗(アユルバルワダ)は趙孟頫の書体を好み、出版物の版下作成や重要な石碑の文字を書くときには、常に趙孟頫を指名した。

    ⭕️

  • 69

    『読書分年日程』では、趙孟頫の文字を学ぶことが推奨された。

    ⭕️

  • 70

    朱元璋は元末の混乱の中で台頭し、モンゴル人を中国から追い出し、最終的に大元ウルスを滅ぼすことに成功した。

  • 71

    朱元璋はしばしば功績ある臣下を理由を付けて粛清したので、士大夫からは恐れられた。

    ⭕️

  • 72

    朱元璋は一世一元の制度を定めたので、1人の皇帝に対して元号はひとつだけになり、以後「洪武帝」のように元号の名前で皇帝が呼ばれるようになった。

    ⭕️

  • 73

    朱元璋は非常に貧しい家に生まれたが、人材に恵まれて明朝を打ち立てることに成功した。

    ⭕️

  • 74

    洪武帝は、孫の建文帝を後継者に指名したが、四男の朱棣がクーデターを起こして永楽帝に即位した。

    ⭕️

  • 75

    洪武帝は「海禁」政策を行い、海外貿易を朝貢貿易に限定した。

    ⭕️

  • 76

    洪武帝はモンゴルを心の底から嫌い、最後まで大元ウルスのカアンたちを罵倒し続けた。

  • 77

    洪武帝は元末の経済混乱で疲弊した華北農村を復興するため、徴税を貨幣ではなく現物で行うようにした。

    ⭕️

  • 78

    永楽帝は鄭和を大艦隊とともに南シナ海・インド洋方面に派遣した。

    ⭕️

  • 79

    永楽帝はモンゴル高原に5回出征した。

    ⭕️

  • 80

    永楽帝はチベットの活仏を招聘して、洪武帝の供養をさせ、自身の正統性を高めようとした。

    ⭕️

  • 81

    永楽帝は南京から長安に遷都して、モンゴル対策と中国支配を両立させようとした。

  • 82

    ティムールの息子のシャー・ルフは永楽帝と友好的な関係を築いた。

    ⭕️

  • 83

    ティムール帝国は西アジアから中央アジアに大きな勢力を形成し、明への大遠征も計画されていた。

    ⭕️

  • 84

    モンゴルではチンギスの血脈を引いているかどうかが重視されたので、オイラトのエセンが「カアン」を称すると人心を失うことになった

    ⭕️

  • 85

    土木の変では正統帝が捕虜になり、エセンの手で殺害されて大きな国際問題になった

  • 86

    「湖広熟すれば天下足る」とは、食糧供給地が長江下流域から長江中流域に移動したことを示す。

    ⭕️

  • 87

    一条鞭法は民衆の偏った徭役負担を平均化するために、労役を銀に換算して負担能力ごとに割り当てる政策であった。

    ⭕️

  • 88

    15世紀後半から長江下流域では、手工業が発達し、蘇州の絹や松江の木綿が有名であった。

    ⭕️

  • 89

    張居正は内閣首輔として大きな権力を振るい、彼に帝王学を学んだ万暦帝は明朝を代表する名君主として名を残した。

  • 90

    辺境の兵士は食糧支給が滞ったり、食糧価格が高騰したりしたので不満を抱き、長城を越えてモンゴル側に逃亡する者が続出した。

    ⭕️

  • 91

    隆慶和議によって明とモンゴルの交易が開始すると、北虜問題は完全に解決することになった。

  • 92

    モンゴルでは16世紀になってアルタンが強大な勢力を築き上げ、中国に毎年のように侵攻した。

    ⭕️

  • 93

    明はモンゴル対策のために九辺鎮に大軍を駐屯させたので、食糧の補給が大きな問題になった。

    ⭕️

  • 94

    「倭寇」は戦国時代を生き抜いた日本人の海賊集団であり、中国人や西洋人が加わることは全くなかった。

  • 95

    明朝当局は、日本を極めて恐れ、海外渡航の禁止を緩和した後も、日本への渡航だけは許可しなかった。

    ⭕️

  • 96

    中国で密貿易が盛んになると、朝貢貿易で潤っていた琉球やマラッカは徐々に衰退していった。

    ⭕️

  • 97

    江南の新安商人(徽州商人)は豊富な資本を背景に、海外貿易にも積極的に参加していた。

    ⭕️

  • 98

    16世紀頃から書籍の刊行量が劇的に増加し、白話小説などが出版された。

    ⭕️

  • 99

    士大夫は「琴棋書画」に代表されるような趣味生活を楽しんでいた。

    ⭕️

  • 100

    16世紀には江南では軽工業が発達して、経済は大いに活性化された。

    ⭕️

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  • 1

    真宗は「科挙に合格するのは良い政治をするため」と人々を戒めた。

  • 2

    太宗の時代には科挙の合格者数が大幅に増えた。

    ⭕️

  • 3

    仁宗の時代に、受験者名を糊付けして匿名にしたり、筆跡がわからぬよう係員に答案 を書き写させたりするようになった。

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  • 4

    趙匡胤は皇帝が試験官となって実施する殿 試を創設した。

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  • 5

    科挙に合格して官僚になった人々は土大夫と呼ばれ貴族に代わり皇帝を支えた。

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  • 6

    中国では宗族が形成され、一族の優秀な子弟の受験勉強を援助することもあった。

    ⭕️

  • 7

    科挙の試験勉強に専念するには経済的な余裕が必要だったので、庶民が合格することは滅多になかった。

  • 8

    范仲淹は苦学の末に科挙に合格し、政治で も素晴らしい成績を上げたことで後世多くの土大夫から尊敬された。

    ⭕️

  • 9

    王安石の新法は、土大夫の利益を国家が奪うことになったので、不満を持つ者が多かった。

    ⭕️

  • 10

    北宋時代には澶淵の盟によって平和になったので、国内の党争が盛んになった。

    ⭕️

  • 11

    王安石の新法は大成功して、数年で国家財 政は黒字になった。

    ⭕️

  • 12

    朱熹は、精神修養を重ねることで、完全無欠の人格者である聖人になることができると説いた。

    ⭕️

  • 13

    朱子学は、この世を成り立たせる法則な ど、体系化された世界観を持っていた。

    ⭕️

  • 14

    宋代の学問は、先生の学説を単純に受け継ぐことはせず、古典に直接取り組んで自由な学説が盛んに展開された。

    ⭕️

  • 15

    古代中国において天体観測は重視され、日食や月食が正確に予測できるように、暦の作成も重視された。

    ⭕️

  • 16

    「清明上河図」は北宋の都であった開封を描いたとされ、庶民の生活を詳細に描いた一級の史料である。

    ⭕️

  • 17

    宗族は同じ祖先を持つ人々の大家族制であったが、実際に全員血が繋がっているとは限らなかった。

    ⭕️

  • 18

    募役法は、春に朝廷が農民に銭を貸し付け、収穫期に利子を合わせて穀物で返還するものであった。

  • 19

    朱子学の発展により、『論語』などの四書よりも、『尚書』や『詩経』といった五経が重んじられるようになった。

  • 20

    王安石は新法の成果により、宋代から現在に至るまで極めて高い歴史的評価を受け続けた。

  • 21

    北宋の徽宗・宗は金に囚われたが、生き残っていた徽宗の息子が即位して南宋政権を継続させた。

    ⭕️

  • 22

    モンゴルではテムジンがモンゴル高原を統 ーし、クリルタイで推戴され「クビライ・カアン」を名乗った。

  • 23

    遼の支配下にいた女真の完顔部は、松花江流域で徐々に成長していき、12世紀初めに金が建国された。

    ⭕️

  • 24

    金によって遼は滅亡したが、契丹の末裔である耶律大石が復興させ、中央アジアに「カラキタイ」を築いた。

    ⭕️

  • 25

    西夏文字は表音文字で、漢字を簡略化する形で作られている。

  • 26

    蒲寿庚は中国で誕生したムスリム商人の子供で、泉州での貿易を独占した。彼の事蹟は桑原隲藏が詳細に研究している。

    ⭕️

  • 27

    平安時代後期から室町時代前期にかけて、多くの日本・中国の僧侶が貿易船に便乗して往来していた。

    ⭕️

  • 28

    中国と西アジア地域は、東南アジアを経由して積極的な交易(南海貿易)を行っていた。

    ⭕️

  • 29

    日本は宋に銅銭・陶磁器・仏像を輸出し、その利益で金・木材・硫黄をから輸入した。

  • 30

    フレグはイラン方面の遠征を担当し、バグダードを攻略してアッバース朝を滅ぼし、さらにシリアやアゼルバイジャンにまで勢力を広げた。

    ⭕️

  • 31

    チンギスの孫のバトゥはロシアからハンガリー・ポーランドへ侵攻し、ウィーン郊外にまで迫った。

    ⭕️

  • 32

    オゴデイはカラコルムに都城を建設して、 より大規模な遠征軍を繰り出した。

    ⭕️

  • 33

    オゴデイの死後にグユクがカアンを継承し、息子のクビライとフレグを中心とした遠征に乗り出した。

  • 34

    南宋は最終的に金と講和するが、和平派の秦檜よりも、徹底抗戦を主張した岳飛のほうが後世の評価が圧倒的に高い。

    ⭕️

  • 35

    中国商人は博多に唐房という居留地を作って日宋貿易に携わった。

    ⭕️

  • 36

    日宋貿易や日元貿易は極めて盛んに行われ、商人の船に便乗して多くの禅僧が中国に留学した。

    ⭕️

  • 37

    モンゴル軍と南宋軍は死闘を繰り広げ、首都臨安周辺では何十万人もの軍隊が戦死した。

  • 38

    第2回蒙古襲来(弘安の役)は、征服した南宋の余剰兵力を活用するための戦役だったという説がある。

    ⭕️

  • 39

    クビライは権力基盤を確立するために、豊かな経済力を誇る南宋の征服を急いだ。

    ⭕️

  • 40

    クビライは、日本にたびたび使節を送ったが、外交に不慣れな北条氏は適切な返事を送ることができなかった。

    ⭕️

  • 41

    モンゴル軍と南宋軍は死闘を繰り広げ、首都臨安周辺では何十万人もの軍隊が戦死した。

  • 42

    クビライは始皇帝のような中央集権制度を確立するため、旧金領や旧西夏領などにもモンゴル的な制度を強制した。

  • 43

    モンゴル帝国は農業を重視し、全国に互助組織である「社」を設けて食糧の備蓄や農業技術教育をさせた。

    ⭕️

  • 44

    景徳鎮で作られた青花(染付)は高額輸出品として、特にイスラーム世界で歓迎された。

    ⭕️

  • 45

    「蘇湖(江浙)熟すれば天下足る」とは、「長江下流域が豊作であれば中国全土の食糧をまかなうことができる」という意味である。

    ⭕️

  • 46

    クビライはチベット仏教に深く帰依していたので、モンゴル帝国では仏教が国教とされた。

  • 47

    大元ウルス(元朝)の末期には世界が寒冷化して、災害や疫病が相次ぎ、交易活動は衰え、反乱が頻発した。

    ⭕️

  • 48

    大元ウルス(元朝)は旧南宋領のエリート 層の不満を和らげるため、学校や出版事業を興して彼らの雇用を創出した。

    ⭕️

  • 49

    大元ウルス(元朝)の出版した書籍は重要な輸出品となり、日本でも『十八史略』や『事林広記」といった書籍がよく読まれた。

    ⭕️

  • 50

    大元ウルス(元朝)はクビライの死後も優秀なカアンに恵まれ、クリルタイが上手く機能して相続も順調に行われた。

  • 51

    投下領では、税収や特産物を受け取るなど経済的利益を得ることができたが、基本的には人材の交流は行われなかった。

  • 52

    モンゴル帝国によって中央アジアの陸路と、東南アジアから西アジアの海路が結びつき、安全に移動できるようになった。

    ⭕️

  • 53

    チンギス・カンは4人の嫡子が末代まで協力できるよう、互いの領地に兄弟の分地を設定して、モンゴルがひとつの統合体であることを意識させた。

    ⭕️

  • 54

    モンゴル帝国はジャムチ(駅伝)を整備して、牌子と証明書があれば旅行者がサービスを受けられるようにしていた。

    ⭕️

  • 55

    『集史』など14世紀以降のイスラーム写本は、中国絵画の影響を受けた細密画で飾られた。

    ⭕️

  • 56

    「混一疆理歴代国都之図」は、モンゴル帝国時代に作られた世界地図で、ユーラシア大陸とアフリカの姿を極めて正確に描写している。

  • 57

    モンゴル帝国の支配のもとで、グローバルな交易が盛んになり、その一端は沈没船から引き上げられる当時の交易品からもわかる。

    ⭕️

  • 58

    南宋を滅ぼしてまもない1280年に、東西の学問成果を結集した授時暦が完成し、その正確さゆえに400年近く用いられ続けた。

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  • 59

    モンゴル時代の「貨郎図(行商人を描いた絵)」には、書籍を販売している商人が描かれている。

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  • 60

    モンゴル時代の命令書は翻訳がしやすいように常に口語体で書かれ、お堅い雅文調が用いられることはなかった。

  • 61

    モンゴルは文書行政を効率化させるために、文面を定型化して固有名詞や数字だけ書き換えれば良いようにした。

    ⭕️

  • 62

    モンゴルの「野蛮な」イメージは作られたもので、実際には中国文化を重んじ、官民共同で様々な事業が実施された。

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  • 63

    書籍の権威を高めるために、著名な文化人や官僚に序文を依頼して、完成した書籍を宮中や官庁に献本することがあった。

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  • 64

    漢文では皇帝に関わる言葉は基本的に行替えした上で抬頭され、他の文字の下に来ることがないようにした。

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  • 65

    石碑を立てるのは非常にお金がかかり贅沢な行為であるので、大元ウルスは法律で厳しく禁止し、民間で立てられた石碑はほとんど残っていない。

  • 66

    『集史』(などの外国語史料)には漢文には当たり前すぎて省略されている情報も記録されていることがある。

    ⭕️

  • 67

    恵宗(トゴンテムル)は、文化に興味関心を抱かず、日々ケシク達と巻き狩りをして過ごしていた。

  • 68

    仁宗(アユルバルワダ)は趙孟頫の書体を好み、出版物の版下作成や重要な石碑の文字を書くときには、常に趙孟頫を指名した。

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  • 69

    『読書分年日程』では、趙孟頫の文字を学ぶことが推奨された。

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  • 70

    朱元璋は元末の混乱の中で台頭し、モンゴル人を中国から追い出し、最終的に大元ウルスを滅ぼすことに成功した。

  • 71

    朱元璋はしばしば功績ある臣下を理由を付けて粛清したので、士大夫からは恐れられた。

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  • 72

    朱元璋は一世一元の制度を定めたので、1人の皇帝に対して元号はひとつだけになり、以後「洪武帝」のように元号の名前で皇帝が呼ばれるようになった。

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  • 73

    朱元璋は非常に貧しい家に生まれたが、人材に恵まれて明朝を打ち立てることに成功した。

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  • 74

    洪武帝は、孫の建文帝を後継者に指名したが、四男の朱棣がクーデターを起こして永楽帝に即位した。

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  • 75

    洪武帝は「海禁」政策を行い、海外貿易を朝貢貿易に限定した。

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  • 76

    洪武帝はモンゴルを心の底から嫌い、最後まで大元ウルスのカアンたちを罵倒し続けた。

  • 77

    洪武帝は元末の経済混乱で疲弊した華北農村を復興するため、徴税を貨幣ではなく現物で行うようにした。

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  • 78

    永楽帝は鄭和を大艦隊とともに南シナ海・インド洋方面に派遣した。

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  • 79

    永楽帝はモンゴル高原に5回出征した。

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  • 80

    永楽帝はチベットの活仏を招聘して、洪武帝の供養をさせ、自身の正統性を高めようとした。

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  • 81

    永楽帝は南京から長安に遷都して、モンゴル対策と中国支配を両立させようとした。

  • 82

    ティムールの息子のシャー・ルフは永楽帝と友好的な関係を築いた。

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  • 83

    ティムール帝国は西アジアから中央アジアに大きな勢力を形成し、明への大遠征も計画されていた。

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  • 84

    モンゴルではチンギスの血脈を引いているかどうかが重視されたので、オイラトのエセンが「カアン」を称すると人心を失うことになった

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  • 85

    土木の変では正統帝が捕虜になり、エセンの手で殺害されて大きな国際問題になった

  • 86

    「湖広熟すれば天下足る」とは、食糧供給地が長江下流域から長江中流域に移動したことを示す。

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  • 87

    一条鞭法は民衆の偏った徭役負担を平均化するために、労役を銀に換算して負担能力ごとに割り当てる政策であった。

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  • 88

    15世紀後半から長江下流域では、手工業が発達し、蘇州の絹や松江の木綿が有名であった。

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  • 89

    張居正は内閣首輔として大きな権力を振るい、彼に帝王学を学んだ万暦帝は明朝を代表する名君主として名を残した。

  • 90

    辺境の兵士は食糧支給が滞ったり、食糧価格が高騰したりしたので不満を抱き、長城を越えてモンゴル側に逃亡する者が続出した。

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  • 91

    隆慶和議によって明とモンゴルの交易が開始すると、北虜問題は完全に解決することになった。

  • 92

    モンゴルでは16世紀になってアルタンが強大な勢力を築き上げ、中国に毎年のように侵攻した。

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  • 93

    明はモンゴル対策のために九辺鎮に大軍を駐屯させたので、食糧の補給が大きな問題になった。

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  • 94

    「倭寇」は戦国時代を生き抜いた日本人の海賊集団であり、中国人や西洋人が加わることは全くなかった。

  • 95

    明朝当局は、日本を極めて恐れ、海外渡航の禁止を緩和した後も、日本への渡航だけは許可しなかった。

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  • 96

    中国で密貿易が盛んになると、朝貢貿易で潤っていた琉球やマラッカは徐々に衰退していった。

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  • 97

    江南の新安商人(徽州商人)は豊富な資本を背景に、海外貿易にも積極的に参加していた。

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  • 98

    16世紀頃から書籍の刊行量が劇的に増加し、白話小説などが出版された。

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  • 99

    士大夫は「琴棋書画」に代表されるような趣味生活を楽しんでいた。

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  • 100

    16世紀には江南では軽工業が発達して、経済は大いに活性化された。

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