徳川吉宗は29年間の将軍在職の間、諸政策を実行して幕政の改革に取り組んだ。この改革をなんというか享保の改革
1719年続発する金銀貸借についての争い(金公事)を幕府に訴えさせず、当事者間で解決させるために出したのは何か相対済し令
倹約令によって支出をおさえる一方、大名から石高一万石について100石を臨時に上納させる何かを実施した上げ米
幕領の代官らの不正を徹底的に摘発する一方、検見法を改めて何かを広く取り入れ、年貢の引き上げをはかり、年貢の増数を目指した定免法
評定所に( )を設けて庶民の意見を聞き、それによって貧民を対象とする医療施設として( )を設けた目安箱、小石川養生所
何かを制定して、判例に基づく合理的な司法判断を進めた公事方御定書
1732年には、天候不順の西日本一帯でイナゴやうんかが大量に発生し稲を食い尽くして大凶作となり、全国に及ぶ飢饉となった享保の飢饉
江戸町人地の中心部では翌1733年に有力な米問屋が米価急騰の原因を作ったとして何かが行なわれた打ちこわし
1782年の冷害から始まった飢饉は、よくとしの浅間山大噴火を経て数年間におよぶ大飢饉となり、東北地方を中心に多数の餓死者を出した天明の飢饉
9代将軍家重を経て10代将軍家中となった何何が十数年間に渡り実権を握った田沼意次
意次は、江戸や大阪の商人の力を借りて印旛沼、手賀沼の大規模な干拓工事を始めるなど何何を積極的に試みた新田開発
また仙台藩の医師( )の意見書(赤蝦夷風説考)を取り入れ( )らを蝦夷地に派遣して、その開発やロシア人との交易の可能性を調査させた。工藤平助、最上徳内
1774年、( ).( )らが西洋医学の解剖書を記述した( )はその大きな画期となった前野良沢、杉田玄白、解体新書
大槻玄沢や宇田川玄随が出て、洋学は各分野でいっそう盛んとなり、玄沢の門人( )は蘭日辞書である( )をつくった。稲村三伯、ハルマ和解
また( )は長崎で学んだ科学の知識をもとに物理学の研究を進めた平賀源内
伊勢商人の家に生まれた( )は真淵に学びながら国学を思想的にも高めて古事伝を著し、日本古来の精神に返ることを主張して、漢意を激しく攻撃した。本居宣長
18世紀半の初め、京都の町人( )は( )をおこし、儒教道徳に仏教や神道の教えを加味して、町人を中心とする庶民の生活論理を優しく説いた石門心学石田梅岩、心学
18世紀半ばに、( )が1枚刷りの多色刷浮世版画( )鈴木春信、錦絵
寛政期に多くの美人画を描いた( )や個性豊かに役者絵、相撲絵を描いた( )らが、大首絵の手法を駆使して優れた作品を次々に生み出した喜多川歌麿、東洲斎写楽
洋画が広がった。江戸で( )を始めた( )、銅版画や油絵を描いた陸奥須賀川の( )銅版画、司馬江漢、亜欧堂田善
飢饉で危機に陥った農村を復興することによって幕府の財政基盤を復旧し、打ちこわしを受けた江戸の治安問題を解決しロシアを中心とする外国勢力に対応するための諸政策を実行していった。これら定信による改革政治を( )と呼ぶ寛政の改革
飢饉に備えて、各地に社倉、義倉をつくらせて米穀を蓄えさせたのをなんというか囲米
正業ももたない者に資金を与えて農村に帰ることを奨励した( )旧里帰農令
町々に町費節約を命じ、節約分の7割を積み立てさせた( )七分積金
改革を進める幕府役人や幕領代官のために、定信は( )を出して( )に貸金を放棄させた。その上で旗本に武芸奨励を命じついで( )を発した棄損令、札差、寛政異学の禁
民間に対してはきびしい( )を出して、政治への風刺や批判をおさえ、風俗の刷新もはかった。出版統制令
1792年、ロシア使節( )が根室に来航し、日本人漂流民を届けるとともに通商を求めた。ラスクマン
ロシア人は択捉島に上陸して現地のアイヌと交易を行っていた。そこで1798年、幕府は( )( )らに択捉島を探査させて大日本恵登呂府の漂柱を立てさせた近藤重蔵・最上徳内
1804年にはロシア使節( )がラスクマンの持ち帰った入港許可証をもって長崎に来航したが、幕府はこの正式使節に冷淡な対応をして追い返したため、のちにロシア軍艦が樺太や択捉島を攻撃した。レザノフ
1807年には、幕府は松前藩と蝦夷地をすべて直軸にして( )の支配のもとにおき、東北諸藩をその警備にあたらせた。さらに翌1808年には
( )に樺太とその対岸を探査させた。そののち、ロシアとの関係は( )を機に改善されたため、幕府は1821年に蝦夷地を松前藩に還付した松前奉行、間宮林蔵、ゴローウニン事件
フェートン号は、当時敵国になったオランダ船のだ捕をねらって長崎湾に入り、オランダ商館員を人質にし薪水・食料を強要してやがて退去した( )フェートン号事件
幕府は、船員と住民との衝突などを回避するため、異国船に薪水・食料を与えて帰国させる方針をとっていたが、1825年( )を出し外国船を撃退するよう命じた異国船打払令
大坂町奉行所の元与力で陽明学者の( )は1837年に、貧民救済のために門弟や民衆を動員して武装蜂起した( )大塩平八郎、大塩の乱
国学者生田万が大塩門弟と称して越後柏崎で陣屋を襲撃したり( )、各地に大塩に共鳴する百姓一揆が起きたりするなど不穏な動きが続いた生田万の乱
1837年、アメリカ商船のモリソン号が浦賀沖に接近し、日本人漂流7人を送還して日本に通交を求めようとしたが、幕府は異国船打払令に基づいてこれを撃退させた( )モリソン号事件
モリソン号事件について、翌1838年( )は『 』を( )は『 』を書いて、幕府の対外政策を批判した。翌年幕府は彼らを厳しく処罰した( )渡辺崋山、慎機論、高野長英、戊戌夢物語、蛮社の獄
1841年、大御所家斎の死後、12代軍家慶のもとで老中( )を中心に幕府権力の強化を目指して( )をおこなった水野忠邦、天保の改革
江戸の人別改めを強化し、百姓の出稼ぎを禁じて、江戸に流入した貧民を帰郷させる( )を出し、天保の飢饉で荒廃した農村の再建をはかつた人返しの法
1840年に川越、庄内、長岡3藩の領地を互いに入れ替えること三方領知替え
水野忠邦は、1843年に、( )を出し、江戸、大阪周辺のあわせて約50万石の地を直軸にして財政の安定や対外防備の強化をはかろうとした上知令
下総佐原の商人で天文方に学んだ( )は幕府の命を受けて全国の沿岸を実測し、『大日本沿海輿地全図』の完成に道を開いた。伊能忠敬
洋画では、幕府が天文方の高橋至時に西洋歴を取り入れた寛政暦をつくらせた。また、天文方に( )を設け、至時の子高橋景保を中心に洋書の翻訳に当たらせた。蛮書和解御用
文化、文政期には、滑稽さや笑いとともに、庶民の生活をいきいきと描いた絵入りの( )が盛んになり、( )や( )が現れた。滑稽本、式亭三馬、十返舎一九
恋愛ものを扱った( )も庶民に受け入れられたが、代表的作家である、( )は天保の改革で処罰された。人情本、為永春水
文章を主とする小説で歴史や伝説を題材にした( )は、江戸の( )が勧善懲悪・因果応報を盛り込む作品を描いて評判を得た読本、曲亭馬琴
古典文学の最高峰。光源氏と、息子の薫をめぐる大長編物語源氏物語、紫式部
方丈記とともに中世を代表する随筆集徒然草、兼好法師
俳諧師、旅人として多くの名句や紀行文を残し、蕉風俳諧師松尾芭蕉
徳川吉宗は29年間の将軍在職の間、諸政策を実行して幕政の改革に取り組んだ。この改革をなんというか享保の改革
1719年続発する金銀貸借についての争い(金公事)を幕府に訴えさせず、当事者間で解決させるために出したのは何か相対済し令
倹約令によって支出をおさえる一方、大名から石高一万石について100石を臨時に上納させる何かを実施した上げ米
幕領の代官らの不正を徹底的に摘発する一方、検見法を改めて何かを広く取り入れ、年貢の引き上げをはかり、年貢の増数を目指した定免法
評定所に( )を設けて庶民の意見を聞き、それによって貧民を対象とする医療施設として( )を設けた目安箱、小石川養生所
何かを制定して、判例に基づく合理的な司法判断を進めた公事方御定書
1732年には、天候不順の西日本一帯でイナゴやうんかが大量に発生し稲を食い尽くして大凶作となり、全国に及ぶ飢饉となった享保の飢饉
江戸町人地の中心部では翌1733年に有力な米問屋が米価急騰の原因を作ったとして何かが行なわれた打ちこわし
1782年の冷害から始まった飢饉は、よくとしの浅間山大噴火を経て数年間におよぶ大飢饉となり、東北地方を中心に多数の餓死者を出した天明の飢饉
9代将軍家重を経て10代将軍家中となった何何が十数年間に渡り実権を握った田沼意次
意次は、江戸や大阪の商人の力を借りて印旛沼、手賀沼の大規模な干拓工事を始めるなど何何を積極的に試みた新田開発
また仙台藩の医師( )の意見書(赤蝦夷風説考)を取り入れ( )らを蝦夷地に派遣して、その開発やロシア人との交易の可能性を調査させた。工藤平助、最上徳内
1774年、( ).( )らが西洋医学の解剖書を記述した( )はその大きな画期となった前野良沢、杉田玄白、解体新書
大槻玄沢や宇田川玄随が出て、洋学は各分野でいっそう盛んとなり、玄沢の門人( )は蘭日辞書である( )をつくった。稲村三伯、ハルマ和解
また( )は長崎で学んだ科学の知識をもとに物理学の研究を進めた平賀源内
伊勢商人の家に生まれた( )は真淵に学びながら国学を思想的にも高めて古事伝を著し、日本古来の精神に返ることを主張して、漢意を激しく攻撃した。本居宣長
18世紀半の初め、京都の町人( )は( )をおこし、儒教道徳に仏教や神道の教えを加味して、町人を中心とする庶民の生活論理を優しく説いた石門心学石田梅岩、心学
18世紀半ばに、( )が1枚刷りの多色刷浮世版画( )鈴木春信、錦絵
寛政期に多くの美人画を描いた( )や個性豊かに役者絵、相撲絵を描いた( )らが、大首絵の手法を駆使して優れた作品を次々に生み出した喜多川歌麿、東洲斎写楽
洋画が広がった。江戸で( )を始めた( )、銅版画や油絵を描いた陸奥須賀川の( )銅版画、司馬江漢、亜欧堂田善
飢饉で危機に陥った農村を復興することによって幕府の財政基盤を復旧し、打ちこわしを受けた江戸の治安問題を解決しロシアを中心とする外国勢力に対応するための諸政策を実行していった。これら定信による改革政治を( )と呼ぶ寛政の改革
飢饉に備えて、各地に社倉、義倉をつくらせて米穀を蓄えさせたのをなんというか囲米
正業ももたない者に資金を与えて農村に帰ることを奨励した( )旧里帰農令
町々に町費節約を命じ、節約分の7割を積み立てさせた( )七分積金
改革を進める幕府役人や幕領代官のために、定信は( )を出して( )に貸金を放棄させた。その上で旗本に武芸奨励を命じついで( )を発した棄損令、札差、寛政異学の禁
民間に対してはきびしい( )を出して、政治への風刺や批判をおさえ、風俗の刷新もはかった。出版統制令
1792年、ロシア使節( )が根室に来航し、日本人漂流民を届けるとともに通商を求めた。ラスクマン
ロシア人は択捉島に上陸して現地のアイヌと交易を行っていた。そこで1798年、幕府は( )( )らに択捉島を探査させて大日本恵登呂府の漂柱を立てさせた近藤重蔵・最上徳内
1804年にはロシア使節( )がラスクマンの持ち帰った入港許可証をもって長崎に来航したが、幕府はこの正式使節に冷淡な対応をして追い返したため、のちにロシア軍艦が樺太や択捉島を攻撃した。レザノフ
1807年には、幕府は松前藩と蝦夷地をすべて直軸にして( )の支配のもとにおき、東北諸藩をその警備にあたらせた。さらに翌1808年には
( )に樺太とその対岸を探査させた。そののち、ロシアとの関係は( )を機に改善されたため、幕府は1821年に蝦夷地を松前藩に還付した松前奉行、間宮林蔵、ゴローウニン事件
フェートン号は、当時敵国になったオランダ船のだ捕をねらって長崎湾に入り、オランダ商館員を人質にし薪水・食料を強要してやがて退去した( )フェートン号事件
幕府は、船員と住民との衝突などを回避するため、異国船に薪水・食料を与えて帰国させる方針をとっていたが、1825年( )を出し外国船を撃退するよう命じた異国船打払令
大坂町奉行所の元与力で陽明学者の( )は1837年に、貧民救済のために門弟や民衆を動員して武装蜂起した( )大塩平八郎、大塩の乱
国学者生田万が大塩門弟と称して越後柏崎で陣屋を襲撃したり( )、各地に大塩に共鳴する百姓一揆が起きたりするなど不穏な動きが続いた生田万の乱
1837年、アメリカ商船のモリソン号が浦賀沖に接近し、日本人漂流7人を送還して日本に通交を求めようとしたが、幕府は異国船打払令に基づいてこれを撃退させた( )モリソン号事件
モリソン号事件について、翌1838年( )は『 』を( )は『 』を書いて、幕府の対外政策を批判した。翌年幕府は彼らを厳しく処罰した( )渡辺崋山、慎機論、高野長英、戊戌夢物語、蛮社の獄
1841年、大御所家斎の死後、12代軍家慶のもとで老中( )を中心に幕府権力の強化を目指して( )をおこなった水野忠邦、天保の改革
江戸の人別改めを強化し、百姓の出稼ぎを禁じて、江戸に流入した貧民を帰郷させる( )を出し、天保の飢饉で荒廃した農村の再建をはかつた人返しの法
1840年に川越、庄内、長岡3藩の領地を互いに入れ替えること三方領知替え
水野忠邦は、1843年に、( )を出し、江戸、大阪周辺のあわせて約50万石の地を直軸にして財政の安定や対外防備の強化をはかろうとした上知令
下総佐原の商人で天文方に学んだ( )は幕府の命を受けて全国の沿岸を実測し、『大日本沿海輿地全図』の完成に道を開いた。伊能忠敬
洋画では、幕府が天文方の高橋至時に西洋歴を取り入れた寛政暦をつくらせた。また、天文方に( )を設け、至時の子高橋景保を中心に洋書の翻訳に当たらせた。蛮書和解御用
文化、文政期には、滑稽さや笑いとともに、庶民の生活をいきいきと描いた絵入りの( )が盛んになり、( )や( )が現れた。滑稽本、式亭三馬、十返舎一九
恋愛ものを扱った( )も庶民に受け入れられたが、代表的作家である、( )は天保の改革で処罰された。人情本、為永春水
文章を主とする小説で歴史や伝説を題材にした( )は、江戸の( )が勧善懲悪・因果応報を盛り込む作品を描いて評判を得た読本、曲亭馬琴
古典文学の最高峰。光源氏と、息子の薫をめぐる大長編物語源氏物語、紫式部
方丈記とともに中世を代表する随筆集徒然草、兼好法師
俳諧師、旅人として多くの名句や紀行文を残し、蕉風俳諧師松尾芭蕉