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歴史総合
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  • 問題数 25 • 11/11/2024

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    問題一覧

  • 1

    世界公割を進める抵抗主義諸国は、植民地の獲得を巡って争いながらも時に協力するなど複雑な国際関係を築いていた。 ドイツは、(①)とイタリアとの間に(②)結成していた。1890年に首相ビスマルクが皇帝(③)は積極的な海外進出を目指し、海軍を増強したためイギリスとの対立を深めた。これに対しイギリスは従来のどの国とも同盟しないという(④)を転換することとなった。

    オーストラリア, 三国同盟, ヴィルヘルム2世, 光栄ある独立

  • 2

    ロシアは(①)と接近するとともに、中央アジアや東アジアで南下政策を強めたため、当初イギリスとの対立が生じた。 一方イギリスも当初①とは植民地を巡り対立関係にあったがドイツの対外進出を警戒してフランスと結んだ。

    フランス

  • 3

    アメリカ合衆国はカリブ海方面に進出して勢力圏を拡大し、1898年にはスペインと戦い(①)を獲得すると、中国への進出を狙うが植民地獲得競争に遅れたため1899年に (②)を発して植民地化の機会均等を訴えた。

    フィリピン, 門戸開放宣言

  • 4

    日清戦争後の清朝では列強の利権獲得競争が激化したため、1899年に道教系の宗教団体(①)が、(②)をスローガンとして掲げて蜂起すると、清朝政府もこれに便乗し各国に宣戦した。これに対して列強8カ国は連合軍を結成し清朝と反乱軍は降伏した。その後、各国は軍を引き上げたが、ロシアはこの戦争中に満州を占領し、植民地化した。 その後、危機感を感じた日本とイギリスは1902年に日英同盟を結んで対抗すると、大韓帝国がロシアに接近し基地を提供したことをきっかけに1904年から日露戦争が始まった。

    義和団, 扶清滅洋

  • 5

    日本軍は陸上では苦戦しながらもロシアを圧倒し、海戦で決定的な勝利をつかむとロシア国内で革命が発生し、アメリカの仲介で1905年に(①)が結ばれ終戦となった。日本はこの条約で(②)と(③)、東清鉄道※のちの(④)が譲渡された。

    ポーツマス条約, 南樺太, 遼東半島, 南満州鉄道

  • 6

    日本とイギリスの植民地支配の特徴について、その大きな違いを答えよ。

    イギリスの植民地では現地の有力者を統治に協力させるため、高等教育機関から整備した。しかし、日本の植民地では有力者の協力を得られなかったため、初等教育から整備し支配に必要な人材を育成した。

  • 7

    帝国主義国間の植民地獲得競争が激化すると、それぞれの国内では国民が一体となって自国の植民地獲得を支持し、自国の優位を誇る(①)や、他民族の差別につながる (②)が広がった。その一方、帝国主義に対する批判も行われるようになり、この動きに社会主義者も便乗した。各国の社会主義政党は国際組織として(③)を結成した

    排他的ナショナリズム, 人種主義, 第2インターナショナル

  • 8

    日露戦争中の日本でも戦争への支持が広がっていたが、時としてナショナリズムが政府批判につながった。日露戦争の講和条約で賠償金が得られなかったことをきっかけに、暴徒が警察を襲撃する(①)が起こったりした。また、このころから社会主義者の活動も活発になり、1910年には幸徳秋水らのテロ計画が発覚すると、政府は司法に圧力をかけて死刑を適応した(②)が発生した。

    日比谷焼き討ち事件, 大逆事件

  • 9

    ロシアでは日露戦争中に皇帝の専制に対する不満や生活苦から民衆の反発が高まった。1905年には食料を求める民衆のデモを軍が弾圧した(①)が発生し、これがきかっけで第一次ロシア革命が起きた。

    血の日曜日事件

  • 10

    アジア諸国ではこのころから立憲制と近代化を確立しようとする動きが活発化した。オスマン帝国ではかつてイスラームとの関係で停止されていた憲法を、軍のクーデタにより復活させた(①)が発生した。また、ペルシアでも 1905年から議会解説と憲法制定を目指した(②)

    青年トルコ革命, イラン立憲革命

  • 11

    中国でも清朝による近代化政策である(①)が始まったが、無秩序に建設された鉄道を整理統合するため、国有化を進めたところ、漢族の資本家の反発から南部の 省が独立を宣言した。各省は(②)を臨時大総統とし、南京を首都として中華民国を建国した。しかし、北部はいまだ清朝の支配下にあったため、は清軍の総司令官で あった(③)に大総統の地位を譲ることで寝返らせたため、清朝最後の皇帝(④)が退位し、清朝は滅亡した。

    光緒新政, 孫文, 袁世凱, 宣統帝溥儀

  • 12

    近代国家のもとで人々は均質で勤勉な労働者となることが求められ、そのために義務としての公教育の整備が進められた。これにより識字率や基礎学力の向上とともに、労働者に必要な規律、国民国家の一員としてのアイデンティティなど必要な能力を身につけることが目指された。 一方、義務を負うようになった人々は政治参加の拡大を求めるようになり、財産等に関係ない参政権を求める(①)運動や、労働条件の改善を求める(②)が盛んとなった。 また、生活面では電信や電話、新聞 雑誌。ラジオなどの(③)が発達し人々の生活のありかを変えた。人々は情報に触れ生活を向上させたが、均質な製品や情報は人々の行動原理などの(④)も進んだ。

    普通選挙運動, 労働運動, マスメディア, 画一化

  • 13

    2 0世紀の初めに行われた第一次世界大戦は国家がその生産力、人的資源のすべてを投入する(①)となった。そのため、社会を数量的に把握しようとして人口統計や社会統計が進歩した。①は戦時以外の政治体制や思想にも影響を与えた。特に、国民の均質性と資質の"改良"を目指す(②)も各国で盛んとなった。

    総力戦, 優生思想

  • 14

    優生思想は現在では問題のある思想として禁止されている。なぜ禁止されているかあなたの考えを答えよ。

    優生思想により、「望ましくない」とされた人々にも人権があり、それが守られないから。

  • 15

    1910年代の(①)は、オスマン帝国の衰退と三国協商と三国同盟の対立など各国の利 書が複雑に絡み合い、常に戦争の危機となっていたため「(②)」と呼ばれた。

    バルカン半島, ヨーロッパの火薬庫

  • 16

    1914年6月、オーストリア皇位継承者夫妻が(①)人のテロリストに暗殺される(②)事件が起きると、オーストリアは①に宣戦布告し、①の支援国である(③)が回を助けるため総動員をかけた。これに対しドイツはに宣戦布告をするととちに中立国 (④)を通過してフランス国内に侵攻した。この事態にイギリスと同盟国の(⑤)はドイツに宣戦し、世界全域を巻き込む大戦となった。

    セルビア, サライェヴォ, ロシア, ベルギー, 日本

  • 17

    三国同盟中の(①)はオーストリアと領土問題を抱えていたため協商側につき、一方イギリスと対立していたオスマン帝国が同盟側で参戦した。 日本は太平洋地域のドイツ植民地の占領に動き、山東半島や満州での利権拡大を狙った。そのため、同じ協商陣営である中華民国に対して(②)を突きつけるなどしたため後にこの世界での孤立化の原因ともなった。 当初各国は短期決戦を想定していたが、機関銃の普及により(③)戦が中心となり戦線は膠着した。さらに、新兵器として潜水艦や航空機、さらには③の突破のため(④)や化学兵器が使われ、多くの死傷者を出し、民間人にち被害を出した。また、多くの男性が戦場に行ったため女性の社会進出も進んだ。

    イタリア, 二十一か条の要求, 塹壕, 戦車

  • 18

    アメリカ合衆国は当初中立を守っており参戦していなかった。しかし、ドイツが(①)を実施し、アメリカの船舶に被害が出たことから世論は参戦に傾き、1917年4月にドイツに宣戦した。 一方、では度重なる敗北と生活不安に対して国民の不満が高まり革命がおき、翌1918年3月に(②)を結んで戦争から離脱した。1 1月にはドイツで出撃を命じられた海軍の兵士が反乱を起こし、皇帝は国外逃亡して共和国が成立し、協商側と休戦した。

    無制限潜水艦作戦, ブレスト=リトフスク条約

  • 19

    第一次世界大戦により、複数の民族を力で支配する帝国が崩壊した。この大戦により 崩壊した国家を2つ答えよ。

    オーストリア=ハンガリー帝国, オスマン帝国

  • 20

    第一次世界大戦前後から高まった各民族はそれぞれの国家を持つべきという考えを何というか。

    民族自決

  • 21

    1919年1月から始まった(①)では、同盟国それぞれを対象とした講和条約が審議さ れ、新たなヨーロッパの国際秩序である(②)体制が作られた。②条約ではドイツに対して様々な厳しい制裁が科されるとともに、アメリカ大統領の(③)の提案した(④)に基づき初の国際平和組織である(⑤)が結成された。

    パリ講和会議, ヴェルサイユ, ウィルソン, 十四か条, 国際連盟

  • 22

    ドイツは条約で課せられた莫大な賠償金を滞納し、そのためフランスとベルギーはドイツ最大の工業地帯(①)を占領した。しかし、住民がストライキを行ったために十分に利益を回収できなかった。一方ドイツ本国では①占領により減少した税収を補うため紙幣が乱発され、悪性のインフレーションが進行した。しかし、首相(②)は通貨改革を断行するとともに、アメリカも(③)を発表して現実的な返済計画を提案した。その後インフレーションは収束しドイツ経済は上向き、(④)が結ばれると周辺諸国との関係も改善して国際連盟への加盟も実現した。

    ルール地方, シュトレーゼマン, ドーズ案, ロカルノ条約

  • 23

    アジア地域では大戦後中国の利権を巡りアメリカと日本の対立が激化していった。両国はともに海軍の大増強計画を発表し、これにイギリスも巻き込まれたがそれぞれの国の財政に多大な負担をかけるものであった。 そこで、1921年からアメリカの提案で(①)が開催され、海軍軍縮条約が締結された。 条約では主力艦の数が制限されたが、 日本にとって不利な条件をのまざるを得なかった。また、太平洋の現状維持を名目に(②)が結ばれ日英同盟は廃棄となり、(③)では中国進出を図る日本に対する牽制を主とした内容となった。

    ワシントン会議, 四か国条約, 九か国条約

  • 24

    賠償金の支払い以外の制裁を3つ答えよ。

    全ての植民地を放棄, 軍備の制限, アルザス=ロレーヌ地方の割譲

  • 25

    国際連盟について、問題点と考えられていることを3つ答えよ。

    アメリカの不参加, ドイツ・ソ連の排除, 国際軍の結成など明確な裁判規定がない