問題一覧
1
1945年8月15日、敗戦連合国軍による占領開始:実質は(1)(GHQ/マッカーサー)
アメリカによる単独占領
2
アメリカの占領目的は日本の(1)・(2)であった
民主化, 非軍事化
3
日本本土は、「日本政府を通じた(1)」だった
間接統治
4
日本本土とは違い「(1)(沖縄など)」、「(2)(硫黄島など)」アメリカの(3)であった
南西諸島, 小笠原諸島, 直接統治
5
【朝鮮半島】 ・1948年「ソ連」が支持した(1)による(2)という国ができ、首都の(3)が成立 ・1948年「アメリカ」が支援した(4)による(5)という国ができた。首都は(6)である
金日成, 朝鮮民主主義人民共和国, 平壌, 李承晩, 大韓民国, ソウル
6
1950年何が起きたか。
朝鮮戦争
7
1950年の朝鮮戦争は米ソの代理戦争である グループ分けすると (1,2,3)VS(4.5)
北朝鮮, ソ連, 中国, アメリカ, 韓国
8
朝鮮戦争を受けて ↓↓↓↓↓↓↓↓↓ アメリカは日本から朝鮮半島に出撃:「日本が(1)における(2)」であるとの認識
冷戦, 戦略上重要な拠点
9
朝鮮戦争を受けて ↓↓↓↓↓↓↓↓↓ アメリカはそれまでの日本占領目的である、「(1)と(2)を転換」
民主化, 非軍事化
10
アメリカは、非軍事化・民主化を転換し日本で何をさせたか。
再軍備化
11
再軍備化をし、日本を守る戦力をもつ人達ができた! 順に並べると(1)→→→(2)→→→(3)と名前を変えた。
警察予備隊, 保安隊, 自衛隊
12
朝鮮戦争を受けて ↓↓↓↓↓↓↓↓↓ 「(1)を引き換えに日本に(2)の役割を担わせ(3)になってもらう。」というのがアメリカの考え
占領終了, 前線基地, 反響の防壁
13
1951年:(1)が結ばれ、日本の占領が終了、主権を回復した。(日本の独立記念日)
サンフランシスコ平和条約
14
サンフランシスコ平和条約を結んだものの、「(1)(沖縄など)」、「(2)(硫黄島など)」は、引き続きアメリカの(3)だった。
南西諸島, 小笠原諸島, 直接統治
15
1951年サンフランシスコ平和条約に続き、アメリカと(1)を結んだ。 日本の独立後もアメリカは「(2)の平和と安全」のために日本に駐留させた。
日米安全保障条約, 極東
16
アメリカがアジアでの、共産主義力(中国、北朝鮮)拡大阻止のため日韓の関係強化を求めるようになる。 その結果:1952年日本は(1)との国交正常化交渉を開始した。(日本の植民地時代の賠償をめぐり交渉難航)
韓国
17
【国交正常化交渉では】 韓国の(1)が「(2)(島根県)」を韓国領として主張し、交渉が難航した。
李承晩, 竹島
18
竹島の別名は?
独島
19
1965年:日本の外務大臣(1)が韓国に訪問し、過去の植民地支配についての遺憾と反省の意を伝える。
椎名悦三郎
20
1965年(1)を締結。この条約は「(2)(日本)」と「(3)(韓国)」の間で行われた。
日韓基本条約, 佐藤栄作, 朴正熙
21
【日韓基本条約では】 日本:韓国を(1)における唯一の(2)として認める→→→(3)の否定
朝鮮, 合法的国家, 北朝鮮
22
【日韓基本条約では】 韓国:(1)の放棄、その代わり日本は韓国に(2)(5億ドル)を行うことを約束
対日賠償請求権, 経済協力
23
《中国》 1949年:(1)が支持した中国共産党の(2)により(3)が成立した。
ソ連, 毛沢東, 中華人民共和国
24
《中国》 1949年(1)が支援した中国国民党の(2)は(3)へ逃げ、その国を(4)と称した。
アメリカ, 蒋介石, 台湾, 中華民国
25
中華人民共和国の成立、朝鮮戦争勃発というアジア情勢に対応し、アメリカが反共同盟の一環として日台関係強化を要請した。 ↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓ 1952年:(1)を締結、これを機に「(2)と国交樹立」=「(3)と国交断絶」
日華平和条約, 台湾, 中国
26
1970年:(1)でアメリカが苦戦。(2)を揺さぶるためアメリカが(3)に急接近。
ベトナム戦争, ソ連, 中国
27
1971年:「中国が(1)」に加盟=「台湾が(2)」
国際連合, 国連追放
28
1972年:アメリカの(1)が「(2)を電撃訪問」した
ニクソン大統領, 中国
29
1979年:ニクソンが中国を電撃訪問したことにより、(1)が行われた
米中国交正常化
30
1972年:日本の(1)首相が(2)を訪問した。
田中角栄, 中国
31
田中角栄首相が中国を訪問し、日本は(1)で与えた(2)への(3)の意を示した。
戦争, 損害, 深い反省
32
田中角栄が中国を訪問し、 日本は「(1)が唯一の(2)であることの承認をした」
中国, 合法的国家
33
日本政府は、 台湾と結んだ日華平和条約を放棄して(1)をした
台湾と断交
34
1972年:田中角栄首相が中国に訪問した後、 戦争についてお互い和解し、合法的国家と認めた事をまとめて何というか。
日中共同声明
35
日中共同声明を出し台湾を否定した日本だか、1973年には(1)を締結し 「日本と台湾の(2)は維持」した。
日台交流民間協定, 経済交流
36
日中共同声明を受けて中国は「日本への(1)を放棄」した。 それに加え、日中友好の証として中国から(2)が贈られた。
賠償権, パンダ
37
1978年:日本と中国の間で友好条約が結ばれたその名前を答えよ
日中平和友好条約
38
日中平和友好条約で、日本が中国へ(1)をすることが決まった。
政府開発援助
39
政府開発援助の別名をアルファベットで答えよ
ODA
40
1951年に日本はサンフランシスコ条約で主権を回復し、多くの国への賠償義務が定められた。 しかし、冷戦下において日本の役割を期待するため… 「多くの国が(1)を(2)または(3)しなかった。」
賠償請求権, 放棄, 使用
41
多くの国が賠償請求権を放棄した一方、損害賠償権を行使した国もあった。 (総額3566億円) その国らへの、賠償の形を3つ答えよ。 「(1)(技術や労働力)」 「(2)」 「(3)(資金の融資)」
役務, 生産物の無償提供, 借款
42
日本が損害賠償した国を答えよ。 (技術者派遣 ➞ 発電所、道路、ダム建設 ➞ 日本の経済進出の契機となる) 「(1)(現ミャンマー)」 「(2)」 「(3)」 「(4)」 それぞれ答えよ
ビルマ, フィリピン, インドネシア, 南ベトナム
43
賠償請求権を放棄または行使しなかったが、日本が純賠償(経済技術協力等無償援助)をした国を答えよ。(総額1962億円) (1),(2),(3),(4),(5),(6),(7) それぞれ答えよ。
ラオス, カンボジア, タイ, マレーシア, シンガポール, ミクロネシア, 韓国
44
サンフランシスコ平和条約締結で占領終了 しかし、(1)と(2)は本土と分離されアメリカの直接統治下にあった。
南西諸島, 小笠原諸島
45
1952年4月28日は、日本本土の人々にとっては(1)だが、南西諸島、小笠原諸島の人々にとっては(2)だった。
独立の日, 屈辱の日
46
独立できなかった沖縄の人たちは、アメリカ統治への不満倍増。 ➞1960年:沖縄県祖国復帰協会 ➞1965年:(1)の影響で、米軍は沖縄から出撃(B52が(2)に常駐・原爆が配備された) ➞1965年:(3)が首相として沖縄訪問し、(4)という名言を残した。
ベトナム戦争, 嘉手納基地, 佐藤栄作, 沖縄の返還なくして戦後は終わらない
47
アメリカ統治への不満倍増。 ➞1965年:佐藤栄作がアメリカに沖縄返還の申し入れ ➞1968年:まず初めに(1)が返還された。島民の返還要求運動 & 戦略的重要性の低下 (原子力潜水艦の開発) ➞1968年:(2)が(3)を公約に琉球政府首席選挙で当選。
小笠原諸島, 屋良朝苗, 即時・無条件・全面返還
48
1969年:佐藤・ニクソン会談で(1)という返還内容が決定 1971年:(2)に調印
72年返還・核抜き・本土並み, 沖縄返還協定
49
(1)年5月15日:(2)がされた、しかし(3)したままだった。
1972, 沖縄の日本返還, 米軍基地は存続
50
ソ連の社会主義政策と宗教を理由に対立してしまった(1)という国は、99%が(2)である。
アフガニスタン, イスラム教
51
・1978年:アフガニスタンで(1)=(2)が成立。 ※共産主義は宗教を認めない:『宗教はアヘンである。宗教は人々を騙し、社会の矛盾から目をそらさせる。』 ※ソ連では宗教は徹底的に破壊された・教会は爆破され、聖職者は(3)に送られた。 → イスラム教徒らが(4)に強く反発 → 民衆の支持を受け各地で(5)を展開
新ソ政権, 共産主義政権, シベリア, 共産主義政権, ゲリラ戦
52
1979年:ソ連の(1)は共産主義政権、維持・擁護のために「(2)に侵攻」。
ブレジネフ, アフガニスタン
53
ブレジネフがアフガニスタンに侵攻した。 当初は、ソ連の構成国である(1)・(2)・(3)などの軍が投入された。
トルクメニスタン, ウズベキスタン, タジキスタン
54
ブレジネフがアフガニスタンに侵攻した。 アメリカを中心とする資本主義諸国は侵攻への制裁として(1)への参加をボイコットした。 ボイコット=参加しない
モスクワオリンピック
55
共産主義政権とソ連軍に対して(1)が抵抗した。 (イスラム世界への侵略に対抗する戦士達)
ムジャーヒディーン
56
(1)は、ムジャーヒディーンに武器を供給しソ連と戦わせた。
アメリカ
57
アメリカが、ムジャーヒディーンに武器を供給した事により...…。 ・長期的戦闘に発展・多くの犠牲 (ソ連の戦死者(1)人) ・財政の疲弊・・・侵攻に対するソ連国民の不満が高まる。
15000
58
【ソ連の改革】 1982年:ブレジネフの死去した。 →(1)(1年で死去) →(2)(1年で死去)
アンドロポフ, チェルネンコ
59
1985年:死んだ人達の代わりに(1)が書記長に就任
ゴルバチョフ
60
1986年:(1)が起きた。 ゴルバチョフは国民に事故の詳しい事は知らせずに被害が拡大した。
チェルノブイリ原子力発電所事故
61
チェルノブイリ原発事故で情報制限により被害が拡大。 ⤵⤵⤵⤵⤵⤵⤵⤵⤵⤵⤵⤵⤵⤵⤵⤵⤵⤵⤵⤵⤵⤵⤵⤵⤵⤵ →管理体制の問題や情報提供の欠陥 →改革(立て直し)=(1)を決意
ペレストロイカ
62
ゴルバチョフ書記長がやった、 ペレストロイカ(改革、立て直し)の内容3つ答えよ
グラスノスチ, 市場経済の導入, 新思考外交
63
【グラノスチ】では(1),(2),(3)という制作を実施した。 ・(1)を進めることで、国民に問題点を知らせ、改革を進めようと考えた(ソ連ではコピー機がNGだった) ・ 汚職の実態・・・いかにソ連が遅れた国であるかを国民が知り、(4)を募らせた。
情報公開, 言論の自由, 検閲の禁止, 政府・共産主義への不満
64
部分的に民間企業の設立を認可する(1)が起きた。 結果:アエロフロート・ロシア航空・GAZ(自動車メーカー)・UAZ(自動車メーカー)が産まれた。 また、(2)が経済の停滞を招いていると判断し、節酒キャンペーン&ウォッカ生産削減した。しかし...……。 密造の増加 → 原料の砂糖の買い占め → 品不足 → 他の商品にも波及 → (3)→ 酒を飲ませろ! 品不足!ものが高い! となり、国民は(4)を募らせた。
市場経済の導入, ウォッカ, 物価上昇, 政府・共産主義への不満
65
【新思考外交】では、(1),(2)(停止),(3)を実施した。
対米協調路線, 他国への軍事介入の縮小, 軍拡競争の中止
66
新思考外交で、対米協調路線、他国への軍事介入縮小、軍拡競争の中止をゴルバチョフは 1987年:アメリカと(1)を締結。アメリカも財政収支と貿易収支が赤字になる(2)に苦しんでいた。 1989年:ソ連は(3)した。(1979年〜1989年)
中距離核戦力全廃条約, 双子の赤字, アフガニスタンから撤退
67
中距離核戦力全廃条約の別名を答えよ。
INF全廃条約
68
ゴルバチョフの改革の「理想」と「現実」 ・理想:情報公開・経済の自由化が進み…。 生活に新しい活力 ➜ (1)への(2)! ・現実:情報公開:経済の自由化が進み...。 (3)・品不足・(4)➜ (1)への(5)
共産主義, 支持拡大, 政治不信, 物価上昇, 不満増大
69
【ソ連離れ、東欧革命 , 東欧の民主化ドミノ】 1989年4月に(1)で(2)議長が率いる(3)(非共産党の組織)が民主化運動を主導 1989年:(2)が議会選挙で圧勝(上院の99席と下院161全議席を獲得) ↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓↓ 共産党支配が終了
ポーランド, ワレサ, 連帯
70
東欧社会主義諸国で起こった民主化への転換や資本主義経済導入などの諸改革などをまとめて何と言うか。
東欧革命
71
東欧革命とは(1)で起こった民主化への転換や(2)などの諸改革の事である。
東欧社会主義諸国, 資本主義経済導入
72
1989年5月:(1)が(2)との国境を解放。 冷戦下でも中立を維持してきた永世中立国同士が国境を開放した。
ハンガリー, オーストリア
73
ハンガリーがオーストリアとの国境を開放したことで、これを知った(1)の国民は(2)へ脱出(亡命)した。(約20万人)
東ドイツ, 西ドイツ
74
東ドイツ国民は(1)→(2)→(3)→(4)という順路で西ドイツに亡命した。
チェコスロバキア, ハンガリー, オーストリア, 西ドイツ
75
西ドイツの(1)首相は東ドイツからの亡命者の積極的な受け入れをした。
コール
76
一方で、東ドイツの(1)首相は東ドイツ国民の亡命を防ぐためチェコスロバキアとの国境を封鎖した。
ホーネッカー
77
ホーネッカーがチェコスロバキアとの国境を封鎖した事でホーネッカーに対する(1)が発生した。(50万人参加) ・ホーネッカー解任が議会で可決された。
デモ
78
1989年の11月:(1)され、東ドイツ政府が東ドイツ国民の自由な出国を認めた。 結果:多くの国民がベルリンの壁に殺到し、ハンマーを振るい(2)となった。
ベルリンの壁解放, ベルリンの壁崩壊
79
(1)年10月:東ドイツが西ドイツに吸収される形で(2)された
1990, ドイツ統一
80
1989年11月:(1)でクーデター発生。 (2)外相が(3)首相を辞任に追い込んだ。
ブルガリア, ムラデノフ, ジフコフ
81
1989年11月:(1)でデモ発生(2)書記長が辞任させられる(3)という出来事が起きた。
チェコスロバキア, ヤケシュ, ビロード革命
82
1989年12月:(1)が起き、ソ連の(2)とアメリカの(3)が会談した。
マルタ会談, ゴルバチョフ, ブッシュ
83
マルタ会談をし、アメリカとソ連でお互い話し合った結果どうなったか。 (44年間続いた(1)) (1)も答えよ
冷戦終結, 東西冷戦
84
1989年12月:(1)でデモ発生し、(2)大統領夫妻が処刑された。
ルーマニア, チャウシェスク
85
1991年6月:ソ連と東欧諸国間の経済援助体制だった(1)を解体した。 (1)の別名も答えよ
経済相互援助会議, コメコン
86
1991年7月:ソ連と東欧諸国間の軍事同盟だった(1)を解体した。 (1)の別名も答えよ。
ワルシャワ条約機構, WTO
87
【ソ連の崩壊とロシア】 (1)はソ連の影響力の低下・喪失を露呈 ➜ ソ連を構成する15の国々に独立の機運を高めさせた。
東欧革命
88
バルト3国であった (1)(90年),(2)(91年),(3)(91年)がソ連からの独立を宣言した。
リトアニア, エストニア, ラトビア
89
(1)(ソ連邦の中で最大の国家)の大統領選挙で(2)が当選。 (2)はソ連からの独立を主張 ↓↓↓ ゴルバチョフは何とかソ連の維持を図ろうとするが……。
ロシア, エリツィン
90
エリツィンはソ連からの独立を主張し、 ゴルバチョフは何とかソ連の維持を図るが…。 1991年12月:(1)、(2)、(3)がソ連からの独立を宣言
ロシア, ウクライナ, ベラルーシ
91
ロシア、ウクライナ、ベラルーシは独立を宣言 しかし、旧ソ連の構成国の経済協力・軍事協力の維持を目的とした(1)を創設することで合意。 また、(1)の別名を答えよ。
独立国家共同体, CIS
92
15ヵ国のうち 11ヵ国が加盟。 しかし(1),(2),(3),(4)は独立国家共同体に加盟しなかった。
エストニア, ラトビア, リトアニア, グルジア
93
1991年12月に(1)が辞任し、ソ連最高会議が(2)を宣言した。 (1922年〜1991年)
ゴルバチョフ, ソ連の消滅
94
ソ連の立て直しを行った(1)だが、皮肉にも(1)の改革が(2)を崩壊させる原因となった。
ゴルバチョフ, ソ連