桓武天皇は、父(◽️◽️)天皇の施政方針を受けついだ。光仁
794年、(◽️◽️)の建議により(◽️◽️◽️)への遷都が行われた。和気清麻呂
(◽️)著の『池亭記』には、低湿で居住にふさわしくない(◽️)の荒廃した様子が描かれ、平安京の変質がうかがえる。慶滋保胤
朝廷は788年に( )を征夷大将軍とし、翌年東北地方に派遣したが、蝦夷の族長(◽️)はこれを撃退した。紀古佐美
802年、坂上田村麻呂は北上川の中流域に(◽️◽️◽️)を築いて、そこに(◽️◽️◽️)を移した。胆沢城
811年、嵯峨天皇の命を受けた(◽️◽️)が蝦夷を征討して以降、蝦夷の征討はなくなった。文室綿麻呂
東国から移住させて開拓と防衛にあたらせた農民を(◽️)という。柵戸
878年には(◽️)がおこり、秋田城が焼き討ちにあった。元慶の乱
桓武天皇の死の直前に行われた(◽️◽️)の裁定によって(◽️)[蝦夷の征討]と(◽️)[平安京の造営]は停止された。徳政相論
桓武天皇のときに令外官として設置されたのは(◽️◽️)と(◽️◽️)である。勘解由使
820年に成立した弘仁格式は、(◽️◽️◽️)らの編で、当時の天皇は(◽️◽️)天皇である。藤原冬嗣
『令義解』は(◽️)の編、『令集解』は( )の編である。清原夏野
国司交代についての規定として、( )、( )、延喜の三代の(◽️)が制定された。延暦
(◽️◽️)が、天台大乗戒壇創設の必要性を訴えた書を(◽️◽️)という。最澄
最澄は、『(◽️)』を著して、天台僧の教育方針を明確にした。山家学生式
空海の著作には、儒教・仏教・道教を比較し、仏教が最も優れていると論じた『(◽️◽️)』がある。三教指帰
838年、最澄の弟子(◽️◽️◽️)は、最後となった遣唐使に加わって入唐し『入唐求法巡礼行紀』を著した。その後、入唐して主に密教を学んだ(◽️◽️◽️)は、延暦寺第5世座主となった。円仁
寺院の境内には(◽️)が守護神として祀られた。鎮守
修験道の開祖とされ、699年に文武天皇によって伊豆の大島へ」流された人物は( )である。役小角
(◽️◽️)寺の金堂は、山間の地にあるため、以前のような形式にとらわれない伽藍配置でつくられた。室生
弘仁・貞観文化を代表する密教彫刻に、(◽️◽️)寺の如意輪観音像がある。観心
(◽️◽️◽️)寺の(◽️◽️◽️)は、神仏習合を示す代表的な神像彫刻である。薬師
(◽️◽️)寺を代表する密教彫刻に不動明王像がある。東寺(教王護国寺)
両界曼荼羅の[両界]とは(◽️)と(◽️)をさす。金剛界
(◽️◽️)寺には、(◽️◽️)が描かせた不動明王像があり、これは黄不動とよばれる。園城
弘仁・貞観文化では、文芸の興隆によって治世や国家の発展を願う(◽️◽️◽️)の考え方が広まった。文章経国
最初の勅撰漢詩文集である(◽️◽️◽️)は、( )らによって編纂された。凌雲集
2番目の勅撰漢詩文集は『(◽️◽️◽️)』、3番目の勅撰漢詩文集は『(◽️◽️◽️)』である。文華秀麗集
『凌雲集』は(◽️)の命で、『文華秀麗集』は(◽️)の命d、『経国集』は(◽️)の命で編纂された。嵯峨天皇
空海の著書のうち、『(◽️)』は主に詩文の作法を論じたものである。文鏡秘府論
空海の書の代表として、(◽️)に宛てられた書簡である『(◽️)』がある。最澄
813年、最澄が弟子の泰範に宛てた書状を『( )』という。久隔帖
大学別曹には、橘氏の(◽️◽️)、和気氏の(◽️◽️)、藤原氏の(◽️◽️)、在原氏の(◽️)などがある。学館院
828年頃に、庶民の教育を目的とする(◽️◽️◽️)が、(◽️◽️◽️)によって建立された。綜芸種智院
(◽️)は、現存する日本最古の説話集『(◽️◽️)』を著した。景戒
(◽️)は、畿内の諸氏の系譜を集成したもので、万多親王らを中心に編集された。新撰姓氏録
藤原冬嗣の子の(◽️◽️◽️)は、842年に起こった(◽️◽️◽️)で勢力を伸ばした。藤原良房
承和の変で、謀反を企てたと密告され失脚させられたのは(◽️◽️◽️)と(◽️◽️◽️)である。橘逸勢
承和の変で皇太子を廃された人物は(◽️)である。恒貞親王
承和の変の詳細を記した正史は『(◽️)』である。続日本後紀
藤原良房の養子の(◽️◽️◽️)は、関白の地位についた。藤原基経
藤原基経は陽成天皇を退位させ、かわりに(◽️◽️)を即位させて関白の地位についた。光孝天皇
(◽️◽️◽️)が887年に即位すると、藤原基経は名実共に関白となった。宇多天皇
(◽️◽️◽️)天皇は、(◽️◽️◽️)の死後天皇親政を行った。これを寛平の治という。宇多
宇多天皇が醍醐天皇に与えた政治の心得を( )という。寛平の御遺誡
菅原道真は、右大臣から(◽️◽️)に左遷され、( )年に没した。太宰権帥
902年、(◽️◽️◽️)天皇は、私的大土地所有を制限するため(◽️◽️◽️)を出した。醍醐
延喜の荘園整理令では(◽️)の禁止がうたわれた。勅旨田
(◽️◽️)天皇のもとで、六国史の最後である『(◽️◽️◽️)』が編纂された。醍醐
菅原道真が編纂した『(◽️◽️)』は、六国史にある事件・事例が部門別に編纂されている。類聚国史
(◽️◽️◽️)は、(◽️◽️◽️)天皇に対して、地方支配の再建策を中心とする意見封事十二箇条を提出した。三善清行
927年に完成した延喜式を中心となって編纂したのは(◽️)である。藤原忠平
958年、(◽️◽️◽️)天皇のもとで本朝[皇朝]十二銭の最後の貨幣である(◽️◽️◽️)が鋳造された。村上
967年に(◽️)が( )天皇の関白となって以後、摂政・関白が常置されるようになった。藤原実頼
安和の変のあと、( )天皇が譲位し( )天皇が即位した。冷泉
(◽️◽️)と藤原兼家の兄弟は、氏の長者の地位をめぐって争った。藤原兼通
藤原兼家の長兄( )と次兄藤原道兼は、氏の長者の地位をめぐって争った。藤原道隆
藤原伊周とその弟(◽️◽️)が失脚することによって、藤原道長の勢力は固まった。藤原隆家
藤原道長の子(◽️◽️◽️)は、(◽️)・(◽️)・(◽️)の3天皇の(◽️◽️)として、約50年にわたり摂政・関白をつとめた。藤原頼通
藤原氏の氏の長者が受けついだ荘園群を( )とよぶ。殿下渡領
摂関政治では、国政に関わる重要問題については、( )で公卿の意見が求められた。陣定
この頃は、太政官符にかえて、摂関家の( )が国政の下達文書として用いられた。政所下文
年中行事には、( )・( )といった神事や、( )のような仏事などがあった。大祓
儀式のあり方を詳しく記した儀式書には、源高明の『(◽️)』や、院政期の大江匡房の『( )』などがある。西宮記
838年の最後の遣唐使に従って唐に渡った円仁の見聞録を『(◽️◽️◽️)』という。入唐求法巡礼行記
遣唐使の廃止は、西暦でいうと(◽️◽️◽️)年にあたる(◽️)六年のことである。894
10世紀後半には(◽️◽️)が入宋して太宗に謁見し、もち帰った釈迦如来像が(◽️)に安置された。奝然
『古今和歌集』は、( )年に、(◽️◽️◽️)天皇の命で編纂された。905
藤原明衡の撰と伝えられる『(◽️)』は、9世紀以降の漢詩文の秀作を分類しまとめたものである。本朝文粋
書道では、和風の能書家である(◽️◽️◽️)・(◽️◽️◽️)・(◽️◽️◽️)が三蹟[三跡]と称された。小野道風
三蹟の一人である藤原行成は和様書道を完成させて、その子孫は(◽️)流とよばれ能書の家となった。世尊寺
『(◽️)』は、三蹟の一人である藤原佐理の代表作である。離洛帖
三蹟の一人である( )の作品には、『秋萩帖』や『屏風土代』がある。小野道風
10世紀には、( )という百科漢和辞典が源順によって編まれた。倭名類聚抄
大和絵の祖とよばれる画家は(◽️◽️)である。巨勢金岡
漆で文様を描き、金銀粉を表面に吹きつけた漆工芸を(◽️◽️)という。蒔絵
平安時代の貴族の住宅は、開放的な構造をもつ白木造で、屋根は(◽️)葺であった。檜皮
平安貴族男子の正装には、(◽️◽️)や、それを簡略にした(◽️◽️)がある。束帯
平安貴族男子の通常服には(◽️)・(◽️)がある。直衣
平安貴族女子の通常服は、(◽️)・(◽️)の上下が主なものである。袿(小袿)
平安時代以降、人々は中国の宇宙観・哲学観である(◽️)にもとづいて成立した陰陽道に影響された。陰陽五行
(◽️◽️◽️)は、(◽️◽️◽️)を信仰し、来世において極楽浄土に往生することを願う教えである。浄土教
10世紀後半、源信は念仏実践の書である『(◽️◽️◽️)』を記した。往生要集
延暦寺に学び、のちに念仏往生を説いた『往生要集』を著したのは(◽️◽️◽️)である。源信(恵心僧都)
日本最初の往生伝は、(◽️◽️◽️)の著した『(◽️◽️◽️)』である。慶滋保胤
浄土教では、この世は(◽️◽️)・(◽️◽️)を経て末法にいたると説いている。正法
末法元年は、永承七年[=西暦(◽️)年]にあたる。1052
怨霊を慰めるための法会を(◽️◽️)といい、菅原道真を祀った京都の(◽️◽️)や、現在八坂神社とよばれている(◽️)などで行われた。御霊会
863年、朝廷が平安京内の(◽️)で御霊会を開催した。神泉苑
藤原道長は、1020年に(◽️◽️◽️)を建立し、阿弥陀堂である無量寿院をおいた。法成寺
1053年に(◽️◽️◽️)が宇治に建立した(◽️◽️◽️)は阿弥陀堂の代表的遺構である。藤原頼通
(◽️◽️◽️)は、従来の一木造にかわる(◽️◽️◽️)という新しい手法を完成し、優美な阿弥陀如来像を多くつくった。定朝
『平等院鳳凰堂阿弥陀如来像』の作者は(◽️◽️◽️)である。定朝
10世紀になると、(◽️◽️◽️)という農民が名田の耕作を請け負う(◽️)体制が生まれた。田堵
11世紀になると、大名田堵の中には、一定の領域を支配し(◽️◽️◽️)に成長していく者が現れた。開発領主
桓武天皇は、父(◽️◽️)天皇の施政方針を受けついだ。光仁
794年、(◽️◽️)の建議により(◽️◽️◽️)への遷都が行われた。和気清麻呂
(◽️)著の『池亭記』には、低湿で居住にふさわしくない(◽️)の荒廃した様子が描かれ、平安京の変質がうかがえる。慶滋保胤
朝廷は788年に( )を征夷大将軍とし、翌年東北地方に派遣したが、蝦夷の族長(◽️)はこれを撃退した。紀古佐美
802年、坂上田村麻呂は北上川の中流域に(◽️◽️◽️)を築いて、そこに(◽️◽️◽️)を移した。胆沢城
811年、嵯峨天皇の命を受けた(◽️◽️)が蝦夷を征討して以降、蝦夷の征討はなくなった。文室綿麻呂
東国から移住させて開拓と防衛にあたらせた農民を(◽️)という。柵戸
878年には(◽️)がおこり、秋田城が焼き討ちにあった。元慶の乱
桓武天皇の死の直前に行われた(◽️◽️)の裁定によって(◽️)[蝦夷の征討]と(◽️)[平安京の造営]は停止された。徳政相論
桓武天皇のときに令外官として設置されたのは(◽️◽️)と(◽️◽️)である。勘解由使
820年に成立した弘仁格式は、(◽️◽️◽️)らの編で、当時の天皇は(◽️◽️)天皇である。藤原冬嗣
『令義解』は(◽️)の編、『令集解』は( )の編である。清原夏野
国司交代についての規定として、( )、( )、延喜の三代の(◽️)が制定された。延暦
(◽️◽️)が、天台大乗戒壇創設の必要性を訴えた書を(◽️◽️)という。最澄
最澄は、『(◽️)』を著して、天台僧の教育方針を明確にした。山家学生式
空海の著作には、儒教・仏教・道教を比較し、仏教が最も優れていると論じた『(◽️◽️)』がある。三教指帰
838年、最澄の弟子(◽️◽️◽️)は、最後となった遣唐使に加わって入唐し『入唐求法巡礼行紀』を著した。その後、入唐して主に密教を学んだ(◽️◽️◽️)は、延暦寺第5世座主となった。円仁
寺院の境内には(◽️)が守護神として祀られた。鎮守
修験道の開祖とされ、699年に文武天皇によって伊豆の大島へ」流された人物は( )である。役小角
(◽️◽️)寺の金堂は、山間の地にあるため、以前のような形式にとらわれない伽藍配置でつくられた。室生
弘仁・貞観文化を代表する密教彫刻に、(◽️◽️)寺の如意輪観音像がある。観心
(◽️◽️◽️)寺の(◽️◽️◽️)は、神仏習合を示す代表的な神像彫刻である。薬師
(◽️◽️)寺を代表する密教彫刻に不動明王像がある。東寺(教王護国寺)
両界曼荼羅の[両界]とは(◽️)と(◽️)をさす。金剛界
(◽️◽️)寺には、(◽️◽️)が描かせた不動明王像があり、これは黄不動とよばれる。園城
弘仁・貞観文化では、文芸の興隆によって治世や国家の発展を願う(◽️◽️◽️)の考え方が広まった。文章経国
最初の勅撰漢詩文集である(◽️◽️◽️)は、( )らによって編纂された。凌雲集
2番目の勅撰漢詩文集は『(◽️◽️◽️)』、3番目の勅撰漢詩文集は『(◽️◽️◽️)』である。文華秀麗集
『凌雲集』は(◽️)の命で、『文華秀麗集』は(◽️)の命d、『経国集』は(◽️)の命で編纂された。嵯峨天皇
空海の著書のうち、『(◽️)』は主に詩文の作法を論じたものである。文鏡秘府論
空海の書の代表として、(◽️)に宛てられた書簡である『(◽️)』がある。最澄
813年、最澄が弟子の泰範に宛てた書状を『( )』という。久隔帖
大学別曹には、橘氏の(◽️◽️)、和気氏の(◽️◽️)、藤原氏の(◽️◽️)、在原氏の(◽️)などがある。学館院
828年頃に、庶民の教育を目的とする(◽️◽️◽️)が、(◽️◽️◽️)によって建立された。綜芸種智院
(◽️)は、現存する日本最古の説話集『(◽️◽️)』を著した。景戒
(◽️)は、畿内の諸氏の系譜を集成したもので、万多親王らを中心に編集された。新撰姓氏録
藤原冬嗣の子の(◽️◽️◽️)は、842年に起こった(◽️◽️◽️)で勢力を伸ばした。藤原良房
承和の変で、謀反を企てたと密告され失脚させられたのは(◽️◽️◽️)と(◽️◽️◽️)である。橘逸勢
承和の変で皇太子を廃された人物は(◽️)である。恒貞親王
承和の変の詳細を記した正史は『(◽️)』である。続日本後紀
藤原良房の養子の(◽️◽️◽️)は、関白の地位についた。藤原基経
藤原基経は陽成天皇を退位させ、かわりに(◽️◽️)を即位させて関白の地位についた。光孝天皇
(◽️◽️◽️)が887年に即位すると、藤原基経は名実共に関白となった。宇多天皇
(◽️◽️◽️)天皇は、(◽️◽️◽️)の死後天皇親政を行った。これを寛平の治という。宇多
宇多天皇が醍醐天皇に与えた政治の心得を( )という。寛平の御遺誡
菅原道真は、右大臣から(◽️◽️)に左遷され、( )年に没した。太宰権帥
902年、(◽️◽️◽️)天皇は、私的大土地所有を制限するため(◽️◽️◽️)を出した。醍醐
延喜の荘園整理令では(◽️)の禁止がうたわれた。勅旨田
(◽️◽️)天皇のもとで、六国史の最後である『(◽️◽️◽️)』が編纂された。醍醐
菅原道真が編纂した『(◽️◽️)』は、六国史にある事件・事例が部門別に編纂されている。類聚国史
(◽️◽️◽️)は、(◽️◽️◽️)天皇に対して、地方支配の再建策を中心とする意見封事十二箇条を提出した。三善清行
927年に完成した延喜式を中心となって編纂したのは(◽️)である。藤原忠平
958年、(◽️◽️◽️)天皇のもとで本朝[皇朝]十二銭の最後の貨幣である(◽️◽️◽️)が鋳造された。村上
967年に(◽️)が( )天皇の関白となって以後、摂政・関白が常置されるようになった。藤原実頼
安和の変のあと、( )天皇が譲位し( )天皇が即位した。冷泉
(◽️◽️)と藤原兼家の兄弟は、氏の長者の地位をめぐって争った。藤原兼通
藤原兼家の長兄( )と次兄藤原道兼は、氏の長者の地位をめぐって争った。藤原道隆
藤原伊周とその弟(◽️◽️)が失脚することによって、藤原道長の勢力は固まった。藤原隆家
藤原道長の子(◽️◽️◽️)は、(◽️)・(◽️)・(◽️)の3天皇の(◽️◽️)として、約50年にわたり摂政・関白をつとめた。藤原頼通
藤原氏の氏の長者が受けついだ荘園群を( )とよぶ。殿下渡領
摂関政治では、国政に関わる重要問題については、( )で公卿の意見が求められた。陣定
この頃は、太政官符にかえて、摂関家の( )が国政の下達文書として用いられた。政所下文
年中行事には、( )・( )といった神事や、( )のような仏事などがあった。大祓
儀式のあり方を詳しく記した儀式書には、源高明の『(◽️)』や、院政期の大江匡房の『( )』などがある。西宮記
838年の最後の遣唐使に従って唐に渡った円仁の見聞録を『(◽️◽️◽️)』という。入唐求法巡礼行記
遣唐使の廃止は、西暦でいうと(◽️◽️◽️)年にあたる(◽️)六年のことである。894
10世紀後半には(◽️◽️)が入宋して太宗に謁見し、もち帰った釈迦如来像が(◽️)に安置された。奝然
『古今和歌集』は、( )年に、(◽️◽️◽️)天皇の命で編纂された。905
藤原明衡の撰と伝えられる『(◽️)』は、9世紀以降の漢詩文の秀作を分類しまとめたものである。本朝文粋
書道では、和風の能書家である(◽️◽️◽️)・(◽️◽️◽️)・(◽️◽️◽️)が三蹟[三跡]と称された。小野道風
三蹟の一人である藤原行成は和様書道を完成させて、その子孫は(◽️)流とよばれ能書の家となった。世尊寺
『(◽️)』は、三蹟の一人である藤原佐理の代表作である。離洛帖
三蹟の一人である( )の作品には、『秋萩帖』や『屏風土代』がある。小野道風
10世紀には、( )という百科漢和辞典が源順によって編まれた。倭名類聚抄
大和絵の祖とよばれる画家は(◽️◽️)である。巨勢金岡
漆で文様を描き、金銀粉を表面に吹きつけた漆工芸を(◽️◽️)という。蒔絵
平安時代の貴族の住宅は、開放的な構造をもつ白木造で、屋根は(◽️)葺であった。檜皮
平安貴族男子の正装には、(◽️◽️)や、それを簡略にした(◽️◽️)がある。束帯
平安貴族男子の通常服には(◽️)・(◽️)がある。直衣
平安貴族女子の通常服は、(◽️)・(◽️)の上下が主なものである。袿(小袿)
平安時代以降、人々は中国の宇宙観・哲学観である(◽️)にもとづいて成立した陰陽道に影響された。陰陽五行
(◽️◽️◽️)は、(◽️◽️◽️)を信仰し、来世において極楽浄土に往生することを願う教えである。浄土教
10世紀後半、源信は念仏実践の書である『(◽️◽️◽️)』を記した。往生要集
延暦寺に学び、のちに念仏往生を説いた『往生要集』を著したのは(◽️◽️◽️)である。源信(恵心僧都)
日本最初の往生伝は、(◽️◽️◽️)の著した『(◽️◽️◽️)』である。慶滋保胤
浄土教では、この世は(◽️◽️)・(◽️◽️)を経て末法にいたると説いている。正法
末法元年は、永承七年[=西暦(◽️)年]にあたる。1052
怨霊を慰めるための法会を(◽️◽️)といい、菅原道真を祀った京都の(◽️◽️)や、現在八坂神社とよばれている(◽️)などで行われた。御霊会
863年、朝廷が平安京内の(◽️)で御霊会を開催した。神泉苑
藤原道長は、1020年に(◽️◽️◽️)を建立し、阿弥陀堂である無量寿院をおいた。法成寺
1053年に(◽️◽️◽️)が宇治に建立した(◽️◽️◽️)は阿弥陀堂の代表的遺構である。藤原頼通
(◽️◽️◽️)は、従来の一木造にかわる(◽️◽️◽️)という新しい手法を完成し、優美な阿弥陀如来像を多くつくった。定朝
『平等院鳳凰堂阿弥陀如来像』の作者は(◽️◽️◽️)である。定朝
10世紀になると、(◽️◽️◽️)という農民が名田の耕作を請け負う(◽️)体制が生まれた。田堵
11世紀になると、大名田堵の中には、一定の領域を支配し(◽️◽️◽️)に成長していく者が現れた。開発領主