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平安時代-1-
100問 • 1年前
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    問題一覧

  • 1

    桓武天皇は、父(◽️◽️)天皇の施政方針を受けついだ。

    光仁

  • 2

    794年、(◽️◽️)の建議により(◽️◽️◽️)への遷都が行われた。

    和気清麻呂

  • 3

    (◽️)著の『池亭記』には、低湿で居住にふさわしくない(◽️)の荒廃した様子が描かれ、平安京の変質がうかがえる。

    慶滋保胤

  • 4

    朝廷は788年に( )を征夷大将軍とし、翌年東北地方に派遣したが、蝦夷の族長(◽️)はこれを撃退した。

    紀古佐美

  • 5

    802年、坂上田村麻呂は北上川の中流域に(◽️◽️◽️)を築いて、そこに(◽️◽️◽️)を移した。

    胆沢城

  • 6

    811年、嵯峨天皇の命を受けた(◽️◽️)が蝦夷を征討して以降、蝦夷の征討はなくなった。

    文室綿麻呂

  • 7

    東国から移住させて開拓と防衛にあたらせた農民を(◽️)という。

    柵戸

  • 8

    878年には(◽️)がおこり、秋田城が焼き討ちにあった。

    元慶の乱

  • 9

    桓武天皇の死の直前に行われた(◽️◽️)の裁定によって(◽️)[蝦夷の征討]と(◽️)[平安京の造営]は停止された。

    徳政相論

  • 10

    桓武天皇のときに令外官として設置されたのは(◽️◽️)と(◽️◽️)である。

    勘解由使

  • 11

    820年に成立した弘仁格式は、(◽️◽️◽️)らの編で、当時の天皇は(◽️◽️)天皇である。

    藤原冬嗣

  • 12

    『令義解』は(◽️)の編、『令集解』は( )の編である。

    清原夏野

  • 13

    国司交代についての規定として、( )、( )、延喜の三代の(◽️)が制定された。

    延暦

  • 14

    (◽️◽️)が、天台大乗戒壇創設の必要性を訴えた書を(◽️◽️)という。

    最澄

  • 15

    最澄は、『(◽️)』を著して、天台僧の教育方針を明確にした。

    山家学生式

  • 16

    空海の著作には、儒教・仏教・道教を比較し、仏教が最も優れていると論じた『(◽️◽️)』がある。

    三教指帰

  • 17

    838年、最澄の弟子(◽️◽️◽️)は、最後となった遣唐使に加わって入唐し『入唐求法巡礼行紀』を著した。その後、入唐して主に密教を学んだ(◽️◽️◽️)は、延暦寺第5世座主となった。

    円仁

  • 18

    寺院の境内には(◽️)が守護神として祀られた。

    鎮守

  • 19

    修験道の開祖とされ、699年に文武天皇によって伊豆の大島へ」流された人物は( )である。

    役小角

  • 20

    (◽️◽️)寺の金堂は、山間の地にあるため、以前のような形式にとらわれない伽藍配置でつくられた。

    室生

  • 21

    弘仁・貞観文化を代表する密教彫刻に、(◽️◽️)寺の如意輪観音像がある。

    観心

  • 22

    (◽️◽️◽️)寺の(◽️◽️◽️)は、神仏習合を示す代表的な神像彫刻である。

    薬師

  • 23

    (◽️◽️)寺を代表する密教彫刻に不動明王像がある。

    東寺(教王護国寺)

  • 24

    両界曼荼羅の[両界]とは(◽️)と(◽️)をさす。

    金剛界

  • 25

    (◽️◽️)寺には、(◽️◽️)が描かせた不動明王像があり、これは黄不動とよばれる。

    園城

  • 26

    弘仁・貞観文化では、文芸の興隆によって治世や国家の発展を願う(◽️◽️◽️)の考え方が広まった。

    文章経国

  • 27

    最初の勅撰漢詩文集である(◽️◽️◽️)は、( )らによって編纂された。

    凌雲集

  • 28

    2番目の勅撰漢詩文集は『(◽️◽️◽️)』、3番目の勅撰漢詩文集は『(◽️◽️◽️)』である。

    文華秀麗集

  • 29

    『凌雲集』は(◽️)の命で、『文華秀麗集』は(◽️)の命d、『経国集』は(◽️)の命で編纂された。

    嵯峨天皇

  • 30

    空海の個人詩文集は『(◽️◽️)』である。

    性霊集

  • 31

    空海の著書のうち、『(◽️)』は主に詩文の作法を論じたものである。

    文鏡秘府論

  • 32

    空海の書の代表として、(◽️)に宛てられた書簡である『(◽️)』がある。

    最澄

  • 33

    813年、最澄が弟子の泰範に宛てた書状を『( )』という。

    久隔帖

  • 34

    大学別曹には、橘氏の(◽️◽️)、和気氏の(◽️◽️)、藤原氏の(◽️◽️)、在原氏の(◽️)などがある。

    学館院

  • 35

    828年頃に、庶民の教育を目的とする(◽️◽️◽️)が、(◽️◽️◽️)によって建立された。

    綜芸種智院

  • 36

    (◽️)は、現存する日本最古の説話集『(◽️◽️)』を著した。

    景戒

  • 37

    (◽️)は、畿内の諸氏の系譜を集成したもので、万多親王らを中心に編集された。

    新撰姓氏録

  • 38

    藤原冬嗣の子の(◽️◽️◽️)は、842年に起こった(◽️◽️◽️)で勢力を伸ばした。

    藤原良房

  • 39

    承和の変で、謀反を企てたと密告され失脚させられたのは(◽️◽️◽️)と(◽️◽️◽️)である。

    橘逸勢

  • 40

    承和の変で皇太子を廃された人物は(◽️)である。

    恒貞親王

  • 41

    承和の変の詳細を記した正史は『(◽️)』である。

    続日本後紀

  • 42

    藤原良房の養子の(◽️◽️◽️)は、関白の地位についた。

    藤原基経

  • 43

    藤原基経は陽成天皇を退位させ、かわりに(◽️◽️)を即位させて関白の地位についた。

    光孝天皇

  • 44

    (◽️◽️◽️)が887年に即位すると、藤原基経は名実共に関白となった。

    宇多天皇

  • 45

    (◽️◽️◽️)天皇は、(◽️◽️◽️)の死後天皇親政を行った。これを寛平の治という。

    宇多

  • 46

    宇多天皇が醍醐天皇に与えた政治の心得を( )という。

    寛平の御遺誡

  • 47

    菅原道真は、右大臣から(◽️◽️)に左遷され、( )年に没した。

    太宰権帥

  • 48

    902年、(◽️◽️◽️)天皇は、私的大土地所有を制限するため(◽️◽️◽️)を出した。

    醍醐

  • 49

    延喜の荘園整理令では(◽️)の禁止がうたわれた。

    勅旨田

  • 50

    (◽️◽️)天皇のもとで、六国史の最後である『(◽️◽️◽️)』が編纂された。

    醍醐

  • 51

    菅原道真が編纂した『(◽️◽️)』は、六国史にある事件・事例が部門別に編纂されている。

    類聚国史

  • 52

    (◽️◽️◽️)は、(◽️◽️◽️)天皇に対して、地方支配の再建策を中心とする意見封事十二箇条を提出した。

    三善清行

  • 53

    927年に完成した延喜式を中心となって編纂したのは(◽️)である。

    藤原忠平

  • 54

    958年、(◽️◽️◽️)天皇のもとで本朝[皇朝]十二銭の最後の貨幣である(◽️◽️◽️)が鋳造された。

    村上

  • 55

    967年に(◽️)が( )天皇の関白となって以後、摂政・関白が常置されるようになった。

    藤原実頼

  • 56

    安和の変のあと、( )天皇が譲位し( )天皇が即位した。

    冷泉

  • 57

    (◽️◽️)と藤原兼家の兄弟は、氏の長者の地位をめぐって争った。

    藤原兼通

  • 58

    藤原兼家の長兄( )と次兄藤原道兼は、氏の長者の地位をめぐって争った。

    藤原道隆

  • 59

    藤原伊周とその弟(◽️◽️)が失脚することによって、藤原道長の勢力は固まった。

    藤原隆家

  • 60

    藤原道長は(◽️)の子である。

    藤原兼家

  • 61

    藤原道長の子(◽️◽️◽️)は、(◽️)・(◽️)・(◽️)の3天皇の(◽️◽️)として、約50年にわたり摂政・関白をつとめた。

    藤原頼通

  • 62

    藤原氏の氏の長者が受けついだ荘園群を( )とよぶ。

    殿下渡領

  • 63

    摂関政治では、国政に関わる重要問題については、( )で公卿の意見が求められた。

    陣定

  • 64

    この頃は、太政官符にかえて、摂関家の( )が国政の下達文書として用いられた。

    政所下文

  • 65

    年中行事には、( )・( )といった神事や、( )のような仏事などがあった。

    大祓

  • 66

    儀式のあり方を詳しく記した儀式書には、源高明の『(◽️)』や、院政期の大江匡房の『( )』などがある。

    西宮記

  • 67

    838年の最後の遣唐使に従って唐に渡った円仁の見聞録を『(◽️◽️◽️)』という。

    入唐求法巡礼行記

  • 68

    遣唐使の廃止は、西暦でいうと(◽️◽️◽️)年にあたる(◽️)六年のことである。

    894

  • 69

    唐が滅びたのは(◽️◽️)年である。

    907

  • 70

    10世紀後半には(◽️◽️)が入宋して太宗に謁見し、もち帰った釈迦如来像が(◽️)に安置された。

    奝然

  • 71

    『古今和歌集』は、( )年に、(◽️◽️◽️)天皇の命で編纂された。

    905

  • 72

    藤原明衡の撰と伝えられる『(◽️)』は、9世紀以降の漢詩文の秀作を分類しまとめたものである。

    本朝文粋

  • 73

    書道では、和風の能書家である(◽️◽️◽️)・(◽️◽️◽️)・(◽️◽️◽️)が三蹟[三跡]と称された。

    小野道風

  • 74

    三蹟の一人である藤原行成は和様書道を完成させて、その子孫は(◽️)流とよばれ能書の家となった。

    世尊寺

  • 75

    『(◽️)』は、三蹟の一人である藤原佐理の代表作である。

    離洛帖

  • 76

    三蹟の一人である( )の作品には、『秋萩帖』や『屏風土代』がある。

    小野道風

  • 77

    10世紀には、( )という百科漢和辞典が源順によって編まれた。

    倭名類聚抄

  • 78

    大和絵の祖とよばれる画家は(◽️◽️)である。

    巨勢金岡

  • 79

    漆で文様を描き、金銀粉を表面に吹きつけた漆工芸を(◽️◽️)という。

    蒔絵

  • 80

    平安時代の貴族の住宅は、開放的な構造をもつ白木造で、屋根は(◽️)葺であった。

    檜皮

  • 81

    平安貴族男子の正装には、(◽️◽️)や、それを簡略にした(◽️◽️)がある。

    束帯

  • 82

    平安貴族男子の通常服には(◽️)・(◽️)がある。

    直衣

  • 83

    平安貴族女子の通常服は、(◽️)・(◽️)の上下が主なものである。

    袿(小袿)

  • 84

    平安時代以降、人々は中国の宇宙観・哲学観である(◽️)にもとづいて成立した陰陽道に影響された。

    陰陽五行

  • 85

    陰陽寮でつくられた暦を(◽️)とよんだ。

    具注暦

  • 86

    (◽️◽️◽️)は、(◽️◽️◽️)を信仰し、来世において極楽浄土に往生することを願う教えである。

    浄土教

  • 87

    10世紀後半、源信は念仏実践の書である『(◽️◽️◽️)』を記した。

    往生要集

  • 88

    延暦寺に学び、のちに念仏往生を説いた『往生要集』を著したのは(◽️◽️◽️)である。

    源信(恵心僧都)

  • 89

    日本最初の往生伝は、(◽️◽️◽️)の著した『(◽️◽️◽️)』である。

    慶滋保胤

  • 90

    『拾遺往生伝』の作者は(◽️)である。

    三善為康

  • 91

    浄土教では、この世は(◽️◽️)・(◽️◽️)を経て末法にいたると説いている。

    正法

  • 92

    末法元年は、永承七年[=西暦(◽️)年]にあたる。

    1052

  • 93

    怨霊を慰めるための法会を(◽️◽️)といい、菅原道真を祀った京都の(◽️◽️)や、現在八坂神社とよばれている(◽️)などで行われた。

    御霊会

  • 94

    863年、朝廷が平安京内の(◽️)で御霊会を開催した。

    神泉苑

  • 95

    藤原道長は、1020年に(◽️◽️◽️)を建立し、阿弥陀堂である無量寿院をおいた。

    法成寺

  • 96

    1053年に(◽️◽️◽️)が宇治に建立した(◽️◽️◽️)は阿弥陀堂の代表的遺構である。

    藤原頼通

  • 97

    (◽️◽️◽️)は、従来の一木造にかわる(◽️◽️◽️)という新しい手法を完成し、優美な阿弥陀如来像を多くつくった。

    定朝

  • 98

    『平等院鳳凰堂阿弥陀如来像』の作者は(◽️◽️◽️)である。

    定朝

  • 99

    10世紀になると、(◽️◽️◽️)という農民が名田の耕作を請け負う(◽️)体制が生まれた。

    田堵

  • 100

    11世紀になると、大名田堵の中には、一定の領域を支配し(◽️◽️◽️)に成長していく者が現れた。

    開発領主

  • シス単1021-1080

    シス単1021-1080

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    シス単1021-1080

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    古文単語58-76

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    問題一覧

  • 1

    桓武天皇は、父(◽️◽️)天皇の施政方針を受けついだ。

    光仁

  • 2

    794年、(◽️◽️)の建議により(◽️◽️◽️)への遷都が行われた。

    和気清麻呂

  • 3

    (◽️)著の『池亭記』には、低湿で居住にふさわしくない(◽️)の荒廃した様子が描かれ、平安京の変質がうかがえる。

    慶滋保胤

  • 4

    朝廷は788年に( )を征夷大将軍とし、翌年東北地方に派遣したが、蝦夷の族長(◽️)はこれを撃退した。

    紀古佐美

  • 5

    802年、坂上田村麻呂は北上川の中流域に(◽️◽️◽️)を築いて、そこに(◽️◽️◽️)を移した。

    胆沢城

  • 6

    811年、嵯峨天皇の命を受けた(◽️◽️)が蝦夷を征討して以降、蝦夷の征討はなくなった。

    文室綿麻呂

  • 7

    東国から移住させて開拓と防衛にあたらせた農民を(◽️)という。

    柵戸

  • 8

    878年には(◽️)がおこり、秋田城が焼き討ちにあった。

    元慶の乱

  • 9

    桓武天皇の死の直前に行われた(◽️◽️)の裁定によって(◽️)[蝦夷の征討]と(◽️)[平安京の造営]は停止された。

    徳政相論

  • 10

    桓武天皇のときに令外官として設置されたのは(◽️◽️)と(◽️◽️)である。

    勘解由使

  • 11

    820年に成立した弘仁格式は、(◽️◽️◽️)らの編で、当時の天皇は(◽️◽️)天皇である。

    藤原冬嗣

  • 12

    『令義解』は(◽️)の編、『令集解』は( )の編である。

    清原夏野

  • 13

    国司交代についての規定として、( )、( )、延喜の三代の(◽️)が制定された。

    延暦

  • 14

    (◽️◽️)が、天台大乗戒壇創設の必要性を訴えた書を(◽️◽️)という。

    最澄

  • 15

    最澄は、『(◽️)』を著して、天台僧の教育方針を明確にした。

    山家学生式

  • 16

    空海の著作には、儒教・仏教・道教を比較し、仏教が最も優れていると論じた『(◽️◽️)』がある。

    三教指帰

  • 17

    838年、最澄の弟子(◽️◽️◽️)は、最後となった遣唐使に加わって入唐し『入唐求法巡礼行紀』を著した。その後、入唐して主に密教を学んだ(◽️◽️◽️)は、延暦寺第5世座主となった。

    円仁

  • 18

    寺院の境内には(◽️)が守護神として祀られた。

    鎮守

  • 19

    修験道の開祖とされ、699年に文武天皇によって伊豆の大島へ」流された人物は( )である。

    役小角

  • 20

    (◽️◽️)寺の金堂は、山間の地にあるため、以前のような形式にとらわれない伽藍配置でつくられた。

    室生

  • 21

    弘仁・貞観文化を代表する密教彫刻に、(◽️◽️)寺の如意輪観音像がある。

    観心

  • 22

    (◽️◽️◽️)寺の(◽️◽️◽️)は、神仏習合を示す代表的な神像彫刻である。

    薬師

  • 23

    (◽️◽️)寺を代表する密教彫刻に不動明王像がある。

    東寺(教王護国寺)

  • 24

    両界曼荼羅の[両界]とは(◽️)と(◽️)をさす。

    金剛界

  • 25

    (◽️◽️)寺には、(◽️◽️)が描かせた不動明王像があり、これは黄不動とよばれる。

    園城

  • 26

    弘仁・貞観文化では、文芸の興隆によって治世や国家の発展を願う(◽️◽️◽️)の考え方が広まった。

    文章経国

  • 27

    最初の勅撰漢詩文集である(◽️◽️◽️)は、( )らによって編纂された。

    凌雲集

  • 28

    2番目の勅撰漢詩文集は『(◽️◽️◽️)』、3番目の勅撰漢詩文集は『(◽️◽️◽️)』である。

    文華秀麗集

  • 29

    『凌雲集』は(◽️)の命で、『文華秀麗集』は(◽️)の命d、『経国集』は(◽️)の命で編纂された。

    嵯峨天皇

  • 30

    空海の個人詩文集は『(◽️◽️)』である。

    性霊集

  • 31

    空海の著書のうち、『(◽️)』は主に詩文の作法を論じたものである。

    文鏡秘府論

  • 32

    空海の書の代表として、(◽️)に宛てられた書簡である『(◽️)』がある。

    最澄

  • 33

    813年、最澄が弟子の泰範に宛てた書状を『( )』という。

    久隔帖

  • 34

    大学別曹には、橘氏の(◽️◽️)、和気氏の(◽️◽️)、藤原氏の(◽️◽️)、在原氏の(◽️)などがある。

    学館院

  • 35

    828年頃に、庶民の教育を目的とする(◽️◽️◽️)が、(◽️◽️◽️)によって建立された。

    綜芸種智院

  • 36

    (◽️)は、現存する日本最古の説話集『(◽️◽️)』を著した。

    景戒

  • 37

    (◽️)は、畿内の諸氏の系譜を集成したもので、万多親王らを中心に編集された。

    新撰姓氏録

  • 38

    藤原冬嗣の子の(◽️◽️◽️)は、842年に起こった(◽️◽️◽️)で勢力を伸ばした。

    藤原良房

  • 39

    承和の変で、謀反を企てたと密告され失脚させられたのは(◽️◽️◽️)と(◽️◽️◽️)である。

    橘逸勢

  • 40

    承和の変で皇太子を廃された人物は(◽️)である。

    恒貞親王

  • 41

    承和の変の詳細を記した正史は『(◽️)』である。

    続日本後紀

  • 42

    藤原良房の養子の(◽️◽️◽️)は、関白の地位についた。

    藤原基経

  • 43

    藤原基経は陽成天皇を退位させ、かわりに(◽️◽️)を即位させて関白の地位についた。

    光孝天皇

  • 44

    (◽️◽️◽️)が887年に即位すると、藤原基経は名実共に関白となった。

    宇多天皇

  • 45

    (◽️◽️◽️)天皇は、(◽️◽️◽️)の死後天皇親政を行った。これを寛平の治という。

    宇多

  • 46

    宇多天皇が醍醐天皇に与えた政治の心得を( )という。

    寛平の御遺誡

  • 47

    菅原道真は、右大臣から(◽️◽️)に左遷され、( )年に没した。

    太宰権帥

  • 48

    902年、(◽️◽️◽️)天皇は、私的大土地所有を制限するため(◽️◽️◽️)を出した。

    醍醐

  • 49

    延喜の荘園整理令では(◽️)の禁止がうたわれた。

    勅旨田

  • 50

    (◽️◽️)天皇のもとで、六国史の最後である『(◽️◽️◽️)』が編纂された。

    醍醐

  • 51

    菅原道真が編纂した『(◽️◽️)』は、六国史にある事件・事例が部門別に編纂されている。

    類聚国史

  • 52

    (◽️◽️◽️)は、(◽️◽️◽️)天皇に対して、地方支配の再建策を中心とする意見封事十二箇条を提出した。

    三善清行

  • 53

    927年に完成した延喜式を中心となって編纂したのは(◽️)である。

    藤原忠平

  • 54

    958年、(◽️◽️◽️)天皇のもとで本朝[皇朝]十二銭の最後の貨幣である(◽️◽️◽️)が鋳造された。

    村上

  • 55

    967年に(◽️)が( )天皇の関白となって以後、摂政・関白が常置されるようになった。

    藤原実頼

  • 56

    安和の変のあと、( )天皇が譲位し( )天皇が即位した。

    冷泉

  • 57

    (◽️◽️)と藤原兼家の兄弟は、氏の長者の地位をめぐって争った。

    藤原兼通

  • 58

    藤原兼家の長兄( )と次兄藤原道兼は、氏の長者の地位をめぐって争った。

    藤原道隆

  • 59

    藤原伊周とその弟(◽️◽️)が失脚することによって、藤原道長の勢力は固まった。

    藤原隆家

  • 60

    藤原道長は(◽️)の子である。

    藤原兼家

  • 61

    藤原道長の子(◽️◽️◽️)は、(◽️)・(◽️)・(◽️)の3天皇の(◽️◽️)として、約50年にわたり摂政・関白をつとめた。

    藤原頼通

  • 62

    藤原氏の氏の長者が受けついだ荘園群を( )とよぶ。

    殿下渡領

  • 63

    摂関政治では、国政に関わる重要問題については、( )で公卿の意見が求められた。

    陣定

  • 64

    この頃は、太政官符にかえて、摂関家の( )が国政の下達文書として用いられた。

    政所下文

  • 65

    年中行事には、( )・( )といった神事や、( )のような仏事などがあった。

    大祓

  • 66

    儀式のあり方を詳しく記した儀式書には、源高明の『(◽️)』や、院政期の大江匡房の『( )』などがある。

    西宮記

  • 67

    838年の最後の遣唐使に従って唐に渡った円仁の見聞録を『(◽️◽️◽️)』という。

    入唐求法巡礼行記

  • 68

    遣唐使の廃止は、西暦でいうと(◽️◽️◽️)年にあたる(◽️)六年のことである。

    894

  • 69

    唐が滅びたのは(◽️◽️)年である。

    907

  • 70

    10世紀後半には(◽️◽️)が入宋して太宗に謁見し、もち帰った釈迦如来像が(◽️)に安置された。

    奝然

  • 71

    『古今和歌集』は、( )年に、(◽️◽️◽️)天皇の命で編纂された。

    905

  • 72

    藤原明衡の撰と伝えられる『(◽️)』は、9世紀以降の漢詩文の秀作を分類しまとめたものである。

    本朝文粋

  • 73

    書道では、和風の能書家である(◽️◽️◽️)・(◽️◽️◽️)・(◽️◽️◽️)が三蹟[三跡]と称された。

    小野道風

  • 74

    三蹟の一人である藤原行成は和様書道を完成させて、その子孫は(◽️)流とよばれ能書の家となった。

    世尊寺

  • 75

    『(◽️)』は、三蹟の一人である藤原佐理の代表作である。

    離洛帖

  • 76

    三蹟の一人である( )の作品には、『秋萩帖』や『屏風土代』がある。

    小野道風

  • 77

    10世紀には、( )という百科漢和辞典が源順によって編まれた。

    倭名類聚抄

  • 78

    大和絵の祖とよばれる画家は(◽️◽️)である。

    巨勢金岡

  • 79

    漆で文様を描き、金銀粉を表面に吹きつけた漆工芸を(◽️◽️)という。

    蒔絵

  • 80

    平安時代の貴族の住宅は、開放的な構造をもつ白木造で、屋根は(◽️)葺であった。

    檜皮

  • 81

    平安貴族男子の正装には、(◽️◽️)や、それを簡略にした(◽️◽️)がある。

    束帯

  • 82

    平安貴族男子の通常服には(◽️)・(◽️)がある。

    直衣

  • 83

    平安貴族女子の通常服は、(◽️)・(◽️)の上下が主なものである。

    袿(小袿)

  • 84

    平安時代以降、人々は中国の宇宙観・哲学観である(◽️)にもとづいて成立した陰陽道に影響された。

    陰陽五行

  • 85

    陰陽寮でつくられた暦を(◽️)とよんだ。

    具注暦

  • 86

    (◽️◽️◽️)は、(◽️◽️◽️)を信仰し、来世において極楽浄土に往生することを願う教えである。

    浄土教

  • 87

    10世紀後半、源信は念仏実践の書である『(◽️◽️◽️)』を記した。

    往生要集

  • 88

    延暦寺に学び、のちに念仏往生を説いた『往生要集』を著したのは(◽️◽️◽️)である。

    源信(恵心僧都)

  • 89

    日本最初の往生伝は、(◽️◽️◽️)の著した『(◽️◽️◽️)』である。

    慶滋保胤

  • 90

    『拾遺往生伝』の作者は(◽️)である。

    三善為康

  • 91

    浄土教では、この世は(◽️◽️)・(◽️◽️)を経て末法にいたると説いている。

    正法

  • 92

    末法元年は、永承七年[=西暦(◽️)年]にあたる。

    1052

  • 93

    怨霊を慰めるための法会を(◽️◽️)といい、菅原道真を祀った京都の(◽️◽️)や、現在八坂神社とよばれている(◽️)などで行われた。

    御霊会

  • 94

    863年、朝廷が平安京内の(◽️)で御霊会を開催した。

    神泉苑

  • 95

    藤原道長は、1020年に(◽️◽️◽️)を建立し、阿弥陀堂である無量寿院をおいた。

    法成寺

  • 96

    1053年に(◽️◽️◽️)が宇治に建立した(◽️◽️◽️)は阿弥陀堂の代表的遺構である。

    藤原頼通

  • 97

    (◽️◽️◽️)は、従来の一木造にかわる(◽️◽️◽️)という新しい手法を完成し、優美な阿弥陀如来像を多くつくった。

    定朝

  • 98

    『平等院鳳凰堂阿弥陀如来像』の作者は(◽️◽️◽️)である。

    定朝

  • 99

    10世紀になると、(◽️◽️◽️)という農民が名田の耕作を請け負う(◽️)体制が生まれた。

    田堵

  • 100

    11世紀になると、大名田堵の中には、一定の領域を支配し(◽️◽️◽️)に成長していく者が現れた。

    開発領主